「第二十五-価値観(後編)-」
耀夜と龍。
同じ腹の中から産まれた兄で、ピエロと呼ばれた彼の生涯がついに語られる。
そして耀夜の経験から乞田は――
※後半の現在パートは、若干BL注意です。
※約8,400字です。
2015年6月11日 夕方(天気:曇り)
後鳥羽家 執事寮 橋本と乞田の部屋
裾野(後鳥羽 龍)
昨日藤堂さん、龍也さんと湊さんは立食形式の婚活パーティーに無事参加できたようで、藤堂さんから2人の様子や自分と上手くいきそうな女性の写真が送られてきた。
その女性はどことなく光明寺さんに似ており、優しそうに見えて裏がありそうで強かな女性であった。
また2人と談笑している女性たちも美人が多く、お似合いな方しか居なかった。
「よかった……」
俺は橋本のデスクに座り、今月の予定に目を通しながら呟いた。
今月も執事の指導に力を入れているようだな。
……ん?
「6月19日に筆ペンで丸……橋本、まさか命日を覚えているのか?」
俺が目を見開きカレンダーを手に取って言うと、「そうですよ」と、気の抜けた声が聞こえた。
目線を上げ、声のする方に向けると、疲れた様子の橋本がオールバックの髪型を崩しながらシャワールームへと入って行った。
ちなみに6月19日は光明寺さんの命日で、毎年その日の近くは予定を入れない様にしている。
それにしても年をとった橋本は渋さと貫禄を増しており、職業柄見た目も気にしなければならない為、今年で45歳になる男性とは思えない。
しばらくしてシャワーの音が響くと、俺はCAINを開いて菅野と騅の3人のグループの画面を見た。
そこには食後に後鳥羽家に寄ろうか、などと相談している2人の会話の履歴があり、既読がついたことにすら反応してきた。
『裾野、既読や!』
『本当ですね! 弓削子さんと空くんも一緒に行きますよ』
『せやで! 空くんもどんどん大きくなるし大人しいから、外食する予定やで。どこかは後で当ててや』
『裾野さんなら気づきますよ』
『うん!』
2人とも随分と嬉しそうだな。
高級料理屋にでも行くのか?
それとも庶民のレストランか?
まぁそれは菅野を抱きしめれば分かる。
……最悪匂いで分かるかもしれないが。
『そうか、気を付けて行くんだぞ。あと、空からは目を逸らさないで欲しい』
俺が送信ボタンを押すと、シャワールームからキュッと蛇口を締める音が聞こえた。
もうすぐ出てくるなら、そろそろ画面を閉じておこうかと思っていると、菅野から個人チャットのメッセージが来た。
仕事上や出かけるときぐらいにしか使わないから、なりすましかもしれないと一瞬躊躇ったが、万が一ということも考えて開いてしまった。
『今度、俺だけ呼んでくれへん? 裾野と2人きりで話したいことがあんねん』
無機質な文字列を目で追う度に鼓動が速くなる。
騅が相棒に加わってからは、2人きりで部屋に居ることも無い為かなり久しぶりだ。
お察しの通り変な期待も含めて様々な可能性を頭に思い浮かべては消し去っているが、菅野は一体どういう意図で2人きりと指定してきたのだろうか。
『分かった。ちょうど俺も話したいことがあったから、この機会に話そう。場所の指定はあるか?』
『え、そうなん?』
それからしばらく間が空き、
『うーん。騅に出かけてもろうてさ、部屋で話したい』
と、おそらく何度も書いては消したであろう崩れた文章で送られた文字からは、覚悟を決めた菅野の表情すら浮かんできた。
騅の同席すら許さない話とは、俺が話したいことよりも重いものなのだろう。
『あぁ。それなら騅にだけ仕事を振っておくから、お茶でも飲みながら話そう』
俺はメッセージを送った直後に御贔屓の茶葉専門店に電話を入れ、菅野が好きそうな香りのものを取り置くように頼んでおいた。
菅野の好みについては、そのときにでも話そう。
それからすぐに就寝用の執事服に身を包んだ橋本が部屋に来たため、CAINの画面を閉じスマフォも鞄の奥底にしまった。
執事はいつ主人に身の危険が起きた時も迅速に行動できるように、就寝用とは言え日中着ている執事服と同じ素材の服を着ている。
「お待たせして申し訳ございませんが、洗濯物を出してきてもいいですか?」
橋本は昨日分ぐらいの量の洗濯物を風呂敷に包んで小脇に抱えており、禁じたところで行きそうな勢いすら感じる。
推測だが、昨日出しそびれたのだろうな。
あと執事寮は専用の洗濯機が1階にある為、そこまでは自分で持っていかなければならない。
ちなみに柔軟剤などの香りから全て指定されており、乞田だけは目を覚ます用途で買い出しの度に値段が張るミントを使っていたらしいが、橋本は指定された石鹸の香りのものを使っている。
「あぁ。気を付けてな」
俺は目を伏せて許可を出すと、橋本は短刀を鞘から出して切れ味を確かめてから部屋を出た。
敵襲がいつあるかも分からない物騒な時代だからこそ、世間的に主人の身代わりとも言われる執事は雑草魂がある。
言いそびれていたな。
後鳥羽家の執事で1番ランクが上であった”傲慢”兄弟の山田執事長は主人の死亡と同時に辞めたが、2番目は乞田、3番目に橋本、4番目に紅夜兄さんの執事長である新田だ。
これは4年に一度裏庭で開かれる見世物として行われている大会で決まる。
観客は後鳥羽家全員としているうえに、いくら希望しても来賓客は見られないのだ。
そんなことを想い出しながらふと視線をデスクの上にある間接照明に向けると、傘の裏側に10円玉程度の黒いシミが見受けられた為、一度消してから照明に翳してみた。
「あ……」
と、思わず声が漏れるほどの嬉しさ半分恥ずかしさ半分の感情が湧き上がり、頬をほんのりと赤く染めた。
初めての誕生日プレゼントにあげた鳩の糞……そう言えば、デスクにあった筆ペンもこの間接照明だって俺がプレゼントしたものだ。
「…………ありがとう」
俺は大事に使ってくれていることへの感謝を込め、間接照明をひと撫でしてからデスクに戻した。
するとちょうど橋本が戻ってきたので、2人並んで座れるベッドに腰かけた。
「お隣に座っていいんです?」
橋本は珍しいことを訊いてくるので、即座に頷いた。
胸ポケットに差さっている3本セットのペンも、誕生日プレゼントだ。
少し視線を腹にずらしてみるが、40代とは思えない均整の取れた体をしている。
脚も細いが筋肉質で、ここ最近の訓練ですっかり日に焼けてしまった顔には整えられた髭はあれど皺ひとつない。
「龍様、酷い顔されてますね」
橋本は食い入るように体を見る俺を一瞥すると、軽蔑の表情を浮かべた。
「……悪い」
俺は理解の無い橋本にだけは、こうして謝るしかないのだ。
「別にいいんですけど」
橋本はどこか不機嫌そうにため息混じりに言葉を零すと、両手をベッドに付いて寄り掛かった。
一応断りを入れておくが、こんなこと主人の前でするのは橋本だけだ。
もちろん現在も橋本に対し、後白河 翔だなんて言っていない。
まだ罪は背負っている。
正直顔を見るだけでも辛いのだが、何も知らずに気さくに話してくれる橋本の性格に安心していることもあって、時間があればどうしても会いたくなってしまう。
……ある意味、不思議な魅力を持っているのかもしれない。
2004年12月12日 午前(天気:曇り)
後鳥羽家 自室
裾野(後鳥羽 龍)
乞田と橋本は片膝をついたまま、互いに顔を見合わせると、乞田が重い口を開いた。
「この話は、1985年まで遡ります。まだ新人であった私は龍様の父上様より、当時8歳の耀夜様につくように申しつけられました」
乞田はそこまで話すと一礼してから立ち上がり、引き出しからノートを取り出しペンを走らせて相関図を描いた。
「耀夜様は龍様と同じく24日のお生まれで、同じ母上様でした。これは恐らく偶然なのでしょうが、”悪魔の目”を継いでおりました。ですから、同じく片桐組に入隊致しました」
乞田はさらさらと中心に書かれた「耀夜様」から、右方向に矢印を引っ張り片桐組と結び付けた。
「……彼は”憤怒”の方でしたが、今では物置部屋となった部屋は……世界各国のピエロの写真で埋め尽くされていました。理由は私と出会う前に見たサーカスで、ステージに上げてもらって一緒に踊ったことからのようです。これは当時”怠惰”の紅夜様の執事を担当していた橋本から訊きました」
言い終えるとすぐに下方向に矢印を引っ張り、サーカスとピエロと思われる絵を描いた。
「これが原因で、片桐組で依頼を任された際に……ピエロの格好をしないと出来ないと駄々をこねたのです。ですが彼の才能は異常とも言えるほどで、あまり申し上げにくいのですが…………今の龍様よりも多くの依頼をこなしている一方で、”悪魔の目”を抑制しようともしていなかった為総長に血を流させたこともありました」
ピエロから片桐組に矢印を引き、矢印の下には「影響、”悪魔の目”のままに」と、書き足した。
「それから実力が買われ、トントン拍子に昇格していったのですが……耀夜様が文通で送る内容は仕事のことのみで、写真は御独りのものだけでした。ですから龍様との決定的な違いは、棘の質でございます」
乞田は目を伏せて俺を見下すと、微笑んだまま「耀夜様」の最後の字の隣に刺を沢山描いた。
そう言えば、俺の文通と言うよりもメールはどう思っているのだろうか?
話が終わったら訊いてみるとしよう。
「と言いますのも、耀夜様は実力だけで後醍醐家の養子のフリをするという危険なスパイ任務すら受けることになったのです。もちろん、文通で断るように促しましたが……当時の執事長は怒りを後醍醐にぶつけろと申して、”憤怒”を加速させたのです」
今度は「耀夜様」の左隣に執事長と書き、そちらに向けて何本も何本も矢印を書き足し、ついにはその部分だけ真っ黒になってしまった。
余程悔しかったのだろう。
当時を知らない俺からすれば、どう頑張ってもその程度の感情しか読み取れないのだ。
「ですがそのおかげで後醍醐家の情報は筒抜け、当時の執事長は鼻高々でした。後鳥羽家も後醍醐を陥れ、辱しめて名家の笑い者にしました。ですが……後醍醐の当時の当主、つまり詠飛様の父上様はすぐに異変に気が付き、半年経った中秋に匿名のリークが入り……耀夜様相手に後醍醐の歴代当主とその家族が夜襲をし、的確に隙を付いた長男の詠飛様の”ガラス師”の力により、ピエロの仮面を……っ、壊、壊さ、さ、されて…………降参しました」
乞田は涙ぐみ努めて淡々と話そうとしていたが、そこまで言い終えると両目から涙を零した。
匿名のリーク……まさか、藤堂さんの父上様ではないのか?
だがそうなると内部告発ということになるが、それは後鳥羽家が情報を利用しすぎたからか?
それにしても仮面を壊されて降参するとは、それだけピエロへの執着心があったということになる。
乞田はしばらくハンカチを両目に押し当てていたが、やがて乱雑に目元を拭うと、
「ここからは一言も落とすことなく再現できますので、説明は下手ですが……お話させてください」
と、赤く腫らした目元を掌で拭って頭を下げた。
「あぁ、頼んだ」
俺は椅子に座り直し、聞く姿勢を取った。
1985年10月24日 夜(天気:晴れ)
後鳥羽家 耀夜様の自室
乞田光司
耀夜様とは毎週木曜日に届くよう文通を送りあっていました。
例えば始めの週が耀夜様なら、次の週は私といった形ですね。
耀夜様の見た目は本当に龍様にそっくりで……ご存命なら驚かれることかと思います。
前置きはさておき、捕まった後のお話をいたします。
耀夜様は執事である私と電話をさせてほしいと頼んだそうです。
所謂電話交渉です。
もちろん、慌てていたので開け放しの自室の電話機を拝借して応答いたしました。
周りには執事長、他の3人の執事、当時の御兄弟、父上様と母上様が居りました。
そのときの会話は、一語一句まで覚えております。
『耀夜様!』
『乞田。しくじっちゃった』
『だから受けるな、とあれほど……。ですが今ご無事なら、後醍醐様と交渉させていただきたいのですが――』
『何言ってるんだ。あのピエロの仮面は、1番好きだったピエロから貰った物だよ。あれを壊されたんじゃあ、誰も殺せやしない。そんなん生き地獄だから、楽にしろよ』
『私が責任をもって修理致しますから、せめて一目だけでも……お顔を見せてください……』
『……やだね』
『何でですか……?』
『どうしてわかんないのさ。お前はほんっとに鈍感だな』
『……申し訳ござ――』
『もういいよ!』
耀夜様は耳がキーンとする程の大声で叫んだ後、雫が床に落ちる音がしました。
私は見放されたショックから受話器を耳から離してしまい、その隙をつかれて執事長に受話器を取られたんです。
すると今度は後醍醐の当主様とお話されているようで、執事長は何回か頷いて、電話口にこう言い放ったんです。
『煮るなり焼くなり、どうぞご勝手に』
その後、父上様の方を見て「よろしいでしょうか?」と、訊いていたので、ここで踏みとどまれば、と思っていたのですが、父上様は歪んだ笑みを浮かべ、
「役立たずが。殺せ」
と、何の躊躇いもなく言ったのです。
私は絶望から執事長を突き飛ばして受話器を奪い取って、
『御止めください!』
と、叫んだのです。
ですがお返事は、耀夜様の断末魔だったのです……。
もう遅かったんです。
私は半ば衝動的にその場で泣き崩れ、床にも貼られていたピエロのポスターを強く握ってしまいました。
そのせいで、1番好きだったピエロの仮面越しの笑顔を破いてしまったのです。
すると喚き散らす声を聞いた幼かった後醍醐詠飛様が、
『其方だけは最期までこいつのことを想ってくれた。……其方は将来良い執事となるであろうな』
と、同情を寄せてくださったのを覚えております。
ですが結果は……耀夜様をお守りすることも出来ず、想いにも気づかない鈍感さのせいで、絶望されたままお亡くなりになってしまった。
そんな自分に腹が立ちました。どうやっても耀夜様の遠回しな物言いに追いつけない自分にも。
こう考えている間にも執事長や他の執事、御兄弟方も退出され、父上様と私だけが残されました。
ですが慰めの言葉なんて掛けていただける訳もなく、
「次の息子に執事長として仕えさせてやる。好きな執事を選んだら報告しなさい」
と、言葉を置いて立ち去ってしまわれました。
そのとき部屋にこっそりと入ってきたのが……執事寮で現在も同室である橋本でした。
「全部聞いていた。全くお気の毒だな」
相変わらずの気の使えない言葉に、私は笑いがこみあげてきてしまいまして、肩を震わせて耐えていると、
「執事募集してるなら、ちょうど紅夜様の執事長にされそうだったから、引き抜いてくれないか?」
そう言われてもう限界でした。
大粒の涙を流しながら大笑いする私に、橋本は首をかしげていましたよ。
「何がおかしいんだよ。あの人の下のお世話はもう懲り懲りなんだから、引き抜けって」
橋本は怪訝そうな顔をしながらも、ちゃーんと頼んできたんですよ。
理由はちょっと、身勝手ですけどね。
「はいはい、わかりましたって。じゃあ立場だけ上になるので、橋本さん……橋本も敬語にしてくださいね」
私が肩を震わせて笑いながら言いますと、橋本はホッとしたような表情をしていました。
余程”怠惰”な方のお世話が堪えていたんでしょうね。
それからあとは適当に引き抜いて、今に至るのです。
危うく言いそびれるところでしたが、私乞田は絶対に二度と御主人様が自分より先にお亡くなりになることがないように、覚悟を決めたのです!
それは勿論、今もですよ。
2004年12月12日 午前(天気:曇り)
後鳥羽家 自室
裾野(後鳥羽 龍)
乞田は感情的になるあまり自分の行動まで再現し始めたので、カーペットが若干傷ついてしまった。
だが耀夜兄さんの話を聞くと、自分と似ているところが大分多い。
後醍醐で血を流したのも、自分の思い出の詰まった部屋のある後鳥羽家を赤く染めたくなかったからであろうし、もし乞田が顔を見に来たら、目の前で自分が死ぬのを見せることになったからだろう。
だから最期の瞬間、断末魔を聞かれたことは……兄さんにとって一生の不覚となったことだろう。
今では全て推測することしか出来ないが、乞田と後鳥羽家の溝が深くなったのはこの事件がきっかけなのだろう。
「今ならお話できると思い、お話しましたが……ご不明な点等はございますか?」
乞田は傷ついたカーペットを撫でて隠そうとしながら、俺を見上げて言った。
「辛いだろうに、話してくれてありがとう。先に質問させてほしいのだが、俺との文通はどう思う?」
と、素直に感謝の気持ちを述べると、乞田は首を捻ってから頬をほんのりと赤くし、
「いえいえそんな~……すみません。文通についてですが、龍様らしい細やかな報告と楽しそうなエピソードも添えられていて、読んでいて安心いたします」
と、言う事すら恥ずかしいのか、いつもよりもゆっくり話すと、もじもじし始めてしまった。
「そうか、ありがとう。それと不明な点については、また後日頭を整理してから訊いてもいいか?」
俺が乞田のアレンジヘアが虹色になっていることに気付いて目を見開くと同時に、乞田と目が合ってしまい、
「はい、よろしいですよ」
と、乞田に満面の笑みで言われた時は、初めて乞田にしてやられたと思った。
極めて珍しい例であることは、ここで言っておく。
それから乞田はしたり顔で橋本の肩を叩き、
「ちなみに橋本でも大丈夫ですからね。2人きりでお話されたらいかがでしょう?」
と、俺の肩まで叩きながら言うので、今日は完全敗北だ。
だが橋本は面倒そうに唇を噛んでからフッと笑い、
「紅夜様の下のお世話の話しか出来ませんけどね」
と、唾を飛ばして笑い出したので、3人はしばらく笑いあってから別れた。
そのときの橋本の表情は、どこか苦しそうにも見えて、笑い飛ばして忘れることしか出来なかった。
今こうして思い出すだけでも楽しいのだから、当時はもっと笑っていた筈だ。
だけどいつからだろう?
こんな風に笑えないのは……。
現在に戻る……
俺が話し終えたところで、橋本は伸びをしてからベッドに横になった。
「それは龍様自身の問題ですよ。考えすぎなんです」
橋本は欠伸混じりに言うと、俺に背を向けた。
「気楽に考えろ、という言葉が1番俺を苦しめるのだが……。どうして橋本は強いんだ?」
俺が橋本の肩にそっと手を乗せると、こちらに寝返ると同時に振り払われた。
「寝れば忘れるからです。あとはそうですね~、海馬の使い方が上手いんですよ。嫌な記憶は追い出して教養を詰め込むあたり、この性格はかなり楽ですよ」
橋本は白い歯を見せてニッと笑うと、布団を足と手を器用に使って手繰り寄せて腹まで掛けた。
「素直に羨ましい」
俺は複雑な気持ちで言葉を発すると、橋本は静かな寝息を立てていた。
「……生まれ変わるなら、橋本の性格がいいかもしれない」
そう呟き、肩口まで布団をかけてやってから部屋を後にした。
夏の足音が迫る湿った空気に顔を歪めながら帰路につくと、門の前に居たのは菅野1人だけであった。
さぞかし楽しい食事会になった筈と予想していたのだが、菅野の表情は夜空でも分かるほど曇っていた。
「ごめん、裾野……俺――」
俺は言わずとも分かる菅野の苦しみを包みこむように、そっと身体を抱き寄せた。
菅野はずっと待っていたせいか、若干背中のあたりに汗の気配を感じた。
それにしても温かい……。
そう思いながら、汗ばんだ髪の毛を撫でていると、
「弓削子さんと俺の価値観って、あんなにちゃうねんな……。裾野のお嫁さんやのに、喧嘩になってしもうて……ほんまごめん」
と、俺の肩に顔を埋める菅野にはこの鼓動が聞こえているのだろうか?
それとも謝罪の気持ちが頭を埋め尽くして、そこまで気が回らないのか……。
「別にいい。汗が冷えると風邪を引くから、早く帰ろうか」
俺は小さく頷いてからもまだ気まずそうに俯く菅野の乾いた手を握ると、しれっと指を絡めた。
「……」
恋人繋ぎをしても菅野は黙って付いて来ているが、いつもなら「ふざけんなや!」などと不平を言う筈。
これは本当に反省しているのか、相当弓削子がキツいことを言ったか……もしかしたらどちらもあるかもしれない。
「菅野」
俺は憂いを帯びた声色で呼びかけると、ぐいと腕を引かれて目を見開く菅野をもう一度抱きしめた。
人通りのない藍竜組前の一本道。
街灯すらないこの道なら、多少のことは闇に隠せるだろう。
そう思った俺は盗聴されないよう耳元で、
「何の価値観でぶつかったんだ?」
と、囁いてみると、菅野は躊躇いながらも、
「……裾野のこと。あんな……また次に話すから。何やろな、裾野の声って耳が痒いねん……」
と、耳を掻きむしりながら言う菅野の頬は若干赤く、ここでなかったら――
「わかった」
俺が髪をわしゃわしゃと撫でまわすと、菅野はいつも通り「わしゃわしゃすんなや!」と、口を尖がらせて言った。
部屋に戻ってすぐにシャワーを浴びさせているときも、初めて指を絡めたことが頭から離れず、全身に悪寒と熱が走った。
……そんなことをすれば、取り返しのつかないことになる。
俺は左手の薬指に付けている結婚指輪を見下し、指でゆっくりと撫でて心を落ち着かせることにした。
思い返してみれば、今日一日煙草を吸いたい衝動に駆られなかった。
執事長の乞田です!
私のセリフが多いですね!
いや~良回ですね~!
……冗談はここまでにしますね。
耀夜様の死は、今でも無駄にしたくないと考えておりますし、
私のおかげで龍様が長生きしてくだされば、執事冥利に尽きます。
もちろん、橋本もそう考えていると信じております。
今回のお話で「価値観」のお話が終わりかのように見えますが、
全話を通じて人の価値観や考え方などを中心に触れておりますし、今後も触れていきます。
次回は龍様の恋愛のヴィジョンが迷走するお話となっております。
私は執事なので恋愛は出来ないのですが、まさかいきなり結婚はしませんよ?
そんなお話です。
投稿日は来週の土日のいずれかになります。
日にちは、6月24日(土)か25日(日)ですね。
ジメジメした季節になってきました……。
乞田も湿気は嫌いですよ。
それでは良い一週間をお過ごしくださいませ。
執事長 乞田光司




