思い出すことは主権的に
大親友が帰ったあとの土曜日は、いつもマンションの屋上にあがることにしている。街は俺に無関心で、だからこそ、その無関心に勝手に包み込まれることができる。何度も反響しようやく届いた野犬の吠声、スポーツ観戦をしていた家々からわいて出てきた歓喜の騒ぎ、十二両の長ったらしい摩擦音、あらゆる唐突な音が俺の心臓に刺さった。
電気は人間の昼を延長した。街は今夜も昼を諦めきれずにいる。駅前の明るさが帰宅する人々の夜を奪い去ろうとしていた。その遥か向こうに一際暗く見える場所、子どもたちのあいだで「エックス山」と呼ばれている小規模な林があり、林を抜けたところには、屋上から確認するまでもなく、かつて俺の住んでいたアパートがある。
ここから視認できる距離というのは近いのかもしれないが、俺のなかでは非常に遠くに感じた。あのアパートから通っていた高校、畳のきしむ汚い和室、いちばん近いコンビニまで必死に往復したところで溶けゆくアイスを救ってやることはできなかった。あのときの俺に比べて、いまはずっとずっと成長した。金もほどほど入るようになったし、マンションの一室も与えてもらっている。才能も認められて、女も寄ってくるようになった。大した偏差値もない高校に通って、何者にもなれず、林の入り口で湿っていたあの頃の俺を思い出すと、ずいぶんと遠くまで来たものだと感じる。
もれなく輝く星々の雰囲気は、交互に繰り返される十二両の無機質な音に飽々しているように思えた。この街の夜空は退屈な天井となって俺の世界を覆いだす。すこしばかり背の高いマンションに住んだだけで、満天の夜景は、黒のグラデーションがあしらわれた天井になってしまうのかもしれない。子どものときに感じていた空の無限の可能性は、金と、地位と、名声で、簡単に埋まっていった。
林時代の無名な俺は、夏になると海に行きたがっていた。男女の友だちを連れて、沖まで競争と泳ぎだし、本気で泳いだのは俺だけだった。きっとみんなもがむしゃらに泳いでいるはずだと思っていたから、沖で顔をあげたとき、用意していた笑顔が静止画のように固まっていたと思う。だれがどこまで泳げたかなんて把握できなかったけれど、とにかく俺は、まちがいなく独りだった。目と鼻の先にある海水浴場の浜辺には、もう一生もどることはできないんだ、という確信をしていた。笑顔で泳ぎだしたあの瞬間の偽りのない気持ちから、ずっとずっと遠い大人びた孤独の気持ちを知ってしまっていた。
あのときの浜辺までの遠さと、いまこのアパートまでの遠さは、きっと同じものだろうと思う。俺の、最も近い、もうもどることのできない場所がそこにある。俺は大人で、俺は孤独だった。
ギターを手にとり、好きな曲を奏く。イントロを始めるまえから、俺は泣いていた。きっと、だれにとっても、いちばん好きな曲というのはイントロのずっと前から泣いてしまうものなのだろう。ただのラブソングで、書いてあることは綺麗事で、曲を構成するコードも、メロディも、あらゆるものが弱く薄くて、それなのに他人との思い出の曲だから十年以上も奏きつづけてきた。「いまもあなたは……」で始まるありふれた歌詞は、魔法の使えない俺に与えられた、たったひとつの時間移動の呪文である。
大親友が帰ったあとの土曜日、いまの俺は、かつての俺に埋没してゆき、一種の死に触れる。神も死んで、俺も死んだ。大親友なんてほんとうはいなかった。音楽も、観念も、俺を救えない。俺は遠くなってしまった。才能も認められて、金の不安をあじわうこともなくなり、名声も人気も、俺だけを生き甲斐にしてくれるファンも、俺に依存するマネージャーも、俺をステータスにしたい女も、自力で手に入れることができるようになった。確立された、パーフェクトな俺の人生に対して、文句を言えるやつなんていない。ただ、おなじだけ、かすれた赤ペンではなまるを描いて、よくできましたとほめてくれるひともいなくなった。
ノートいっぱいのブサイクなはなまると、安っぽい提出点。漢字をひたすら練習して、その学期が終わればなんの意味もなくなる時限的な加点と無数の赤まるに、あのときの俺は人生の絶頂を認めていた。埋まってゆくノートの、マスのひとつづつに、無限の可能性を感じていた。なんでもやれるような気がしていた。親や友だちの抱えるいやなことの、傘になってやれるような気がしていた。
兆しめいた風が異質に吹いた。飛び降りる準備はできていた。おとぎ話のように、飛べるかもしれないとさえ思っていた。飛び降りたあとのことを慎重に思い浮かべる。ワイドショーが取りあげ、人気者が自殺したことをセンセーショナルに報告し、芸能界で生き残ることに四苦八苦している場違いなコメンテーターが誤想的に心理分析し、お茶の間の道徳が絆される。飼いならされているんだ、あの星の狐のように。
望郷の念は、生きることにも、死ぬことにも、十分すぎた。
マンションの屋上に吹く夏の風は、この場所の自然の全力だった。生死にとっての人間も、人間にとっての生死も、どちらも満身創痍していた。詰んでいる、というメタファーでは語り尽くせないほどの行き詰まりが、俺の存在を過去に押し込む。
「早まったな、俺」
思ってもいなかったことを口走り、俺は飛んだ。真下ではなく、あの林の向こうに。