始まりの場所
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さわさわと風が肌を撫でる。外の空気は昨日まで、そしてついさっきまで出ていたときのそれよりもずっと冷たいものに感じる。ここからは、一度倒されれば二度とここには帰ってこられない。
つい昨日までは風もVGで再現できるのかと感心していたこの機能も、現実だということを強く認識させ、表情がこわばるのを感じた。
「ぷっ、なに緊張してんだか。いいかい? ここは昨日来たのと全く変わらない、フィーメルのエボル側、初心者ヶ原ことレインドじゃん。気張ることなんかないんだよ」
その言葉通り、アスカに緊張など欠片もないようだ。それはスザクも同じだった。
三人も、命の危険があるとはわかっている。それでも、戦わなければいずれ衰弱死という形で、あるいは二度と現実に帰れなくなるのかもしれない。
そうなってしまうのは嫌だった。ゲームの、この世界で生きていきたいと思うほどには世を捨てていない。まだ社会人どころか高校二年にもなっていないのだ。
覚悟を決めるのはセイリュウが一番早かった。緊張しているのはゲンブとビャッコだ。
「気張るなって言われてもよぉ。何があるかわかんねぇだろ。もしかしたら新しいモンスターの導入とか」
「って言ってるそばから見たことないモンスターが湧いてるじゃん! なにそれ聞いてないってばー!!」
周りのプレイヤーにも聞こえるほど、むしろ聞かせるつもりでもあったのか、わざとらしく大音量でがなり立て、白々しくも驚愕の色に染まるアスカの顔。ビシッと指した先には、ウサギ?
半月形の弧の部分を下にした、やる気のなさそうな顔をしたモンスターがぽよんぽよんという効果音をさせながら近づいてくる。
ウサギをデフォルメしたようなその姿は、頭に直接マシュマロのような足がついた、タレ耳ウサギだ。
「ん。けど、たいしたことにゃさそうね。あんにゃに可愛いんだもん。ライクラビットかぁ。もこもこしてそう~。触りに行っちゃお」
「待ってください。名前からして怪しいです。ウサギのような、なんて」
「スザクの言う通り。あいつ、口がない。絶対何かある。下がってて」
レベル差があることを隠しもしないで、ゲンブたちの見たことのない、見るからに強そうな盾に変え、防御力の増したアスカが前へ出る。その後ろからスザクが回復アイテムを手に追いかける。
敵は小物。何を恐れるのかと三人が見守る中、突然ライクラビットが飛び上がった。
「スザクッ! 避けてっ!」
「わかってる」
風船のようにふわふわと降りてくるライクラビットの標的はアスカのようだ。ゆらりゆらりと下降し、その足がアスカの頭に吸い付く。途端にアスカはピクリとも動かなくなる。
「HP!」
ビャッコが叫び、皆がアスカのステータスバーに注目する。ゆっくりとだが確実に、体力が削られていっている。
瞬時にスザクが解毒剤を投げつける。頭の上のライクラビットが威嚇するように耳を上げるが、それだけだ。体力に変化はない。
そうこうしている間にも動かないアスカの体力は削られていく。
今度は麻痺毒の解毒剤を投げつけた。
瞬き一つできなかったアスカは、硬直状態から解き放たれるやいなや鋭く叫ぶ。
「スザク、ドレイン」
その言葉を合図に、スザクは使い慣れた剣でアスカの頭上のモンスターを屠る。一撃だ。
「にゃに? どうしたの? ドレインって?」
状況の把握ができていないビャッコに、セイリュウが説明をする。
「ドレインってのは、あのライクラビットの攻撃だろう? きっとあいつは麻痺毒で獲物を動けなくさせて、ドレインで体力を奪う。今は五人いるけど、一人だと致命的だ。オレ達は集団で動いているが、他のプレイヤーはどうなんだ。ソロのプレイヤーだって!」
「そう、だね。まあ、別にサービス開始直後じゃないからそこそこレベルを上げてるって人も多いだろうから大丈夫だろう。と、言いたいところなんだけど、本気で攻略を目指しているプレイヤーのほとんどは、もうすでに街から離れてるだろうね。今この辺りにいるプレイヤーは、この辺りでレベル上げをしている始めたばかりのプレイヤーばかりの可能性が高い。僕はゲーム内掲示板に書き込んだらすぐに動く。キミたちも各自で動いてっ! やつらの足の裏を見たら、嫌でも抱っこしたいなんて思えなくなるよ」
近くに忍び寄っていたらしいライクラビットの耳をひょいと掴み上げると、その足の裏を突き出す。
世にもおぞましい触手だった。
片手で倒す否やスクロールを出しているアスカは、さっそく書き込みを行っているようだ。ゲンブらも負けてはいられない。急いでライクラビットを探し回った。
「な、お前馬鹿じゃねぇの!」
アスカが思わず口悪く叫んだ。その先には。
「んなこと言われても俺にはどうしようもねぇよっ! わけわかんねぇ! なんでこんなに大量発生してんだよっ!」
そう、そうなのだ。今のこのライクラビットの湧きは異常そのもの。これから旅立とうというプレイヤーを殺しにかかっているに違いない。
「だとしても。もうちょっとうまいやり方はにゃかったの?! ゲンブ、あんたこんにゃに引っ張ってきてどうやってしまいつける気よっ」
悲鳴混じりの抗議は、ぽよんぽよんという軽快な効果音、いや、それが幾重にも重なり、もはやただの騒音と化したライクラビットの行軍の音にかき消される。
ゲンブは、大量発生したライクラビットを見境なくトレイン、ターゲットされた状態で引き連れていた。
「仕方ないなぁっ!」
アスカは景気づけに叫んで両手で両の頬をぺちんと叩く。
駆け出したアスカと共に、スザクも高く跳躍し、絨毯のように広がったライクラビットの群れを眼下に眺める。
その間にも短刀で切りかかるアスカは、早くも周りを取り囲まれる。
しかし、アスカに焦りはない。呪文を口ずさみつつ鼻歌交じりにモンスターを切り裂いていく。
左から飛び掛かるモンスターを一刀両断し、正面のモンスターを呪文で倒す。
そして頭上から頭を狙うモンスターは光となって消えていく。スザクの魔法で倒されていっているのだ。
ザシュッと、ゲンブの背後から、背筋の寒くなるような効果音がする。ダメージは、ない。
「戦う! 手ェ止めない! 直視せよ!!」
凛とした声が戦場に響く。一瞬一秒でも惜しいとでも言うかのように再び詠唱に戻る彼女の腕に狂いはない。
背中に目がついているのではないかというほどの戦いぶりには目を見張る。
「あっははははっ! 怒られてやんのー。っと、さっきのカッコイイ台詞録音! 完了!」
アスカが右手にオルゴールの小箱を掲げ、ふざけたことを言う。しかし、左手は迷いも躊躇いも一切なしに、吸い寄せられるようにしてモンスターを切り裂いていく。
そうして口も、呪文の詠唱に戻るのだ。緊張感なんて欠片もない。それがこの二人のバトルスタイルだった。
魔法にはいくつかの欠点がある。そのうちの一つが、詠唱中、攻撃を当てるモンスターから目を離してはいけないことだ。
ギルド戦のような多対多の対人戦の場合はより顕著だが、対モンスター戦でもターゲット以外を見ることができないのは致命的だ。
普通辺りを見回し、状況を把握しながら戦略を詰めていくところを、一気に視界が狭められる。
もちろん、魔法は遠距離から放つことのできるため、術師とモンスターの距離が離れていればそのデメリットは軽減する。
だが今、スザクは敵中、それもど真ん中に突撃している。無謀としか言いようのない戦略だ。それでも彼女は圧倒的な不利な戦場を、埃だらけの部屋のように軽くいなす。
宙から襲い掛かるそれには爆裂クルミを投げつけ、四方から迫り来るモンスターに剣を振るい、正面の敵には魔法をお見舞いする。
魔法使いだと名乗った彼女の詠唱速度はアスカとは比べ物にはならない。間断なく繰り出される魔法は、それで一つの大魔法にも見えた。
背後だって抜かりはない。目の前で炸裂する自身の炎魔法の強烈なエフェクトに怯むことなく突撃し、その炎を免れたモンスターに追い討ちをかける。
するりと背後から伸びたライクラビットの耳が獲物を捕らえることはなく、ただ空を切り、地に落ちた。断面は赤く、砂粒のような鮮血が広がった。
さすがにこの数を二人で仕留めるのはまずいと思ったのか、スザクは飛び跳ねるライクラビットを踏みつけ、さらに高く飛び上がる。
「爆裂クルミは五個まで装填可能。剣のスキルは予備動作」
まるでチュートリアルのような文言。
歌うようなスザクの叫び声に、目の前の危機すら忘れ、戦いの行方を見守っていたプレイヤー達は目を覚まされる。
激しい爆音と共にモンスターが消え去る。初めて聞くような爆音に、放った張本人であるゲンブが棒立ちになって驚いていた。
それを皮切りに、ゲンブに獲物を奪われてやってきたプレイヤーたちも一斉に飛び掛かる。
ある者は剣を、ある者は杖を、ある者は銃を、ある者は拳を、ある者は槍を、ある者は斧を、ある者は棍棒を武器に、膨大な数のモンスターを取り囲う。
連携なんてあったものじゃない、ただひたすらに目の前を倒していく戦法。それでも数は数。一気に戦力が増したプレイヤー陣営は、ついにモンスターを殲滅する。
後に残ったのは地面に散らばるウサギ肉。異常な大量発生は終わったらしい。勝利に酔いしれるものはなく、ただ黙々と拾い集めると三々五々と立ち去っていった。
少し留まったプレイヤーも、ひとしきり苦々しくアスカを睨む仕事を終えて、もう何もないと悟ると各々で経験値集めに取り組み始めていた。
「五割。五割ですよ。昨日の今日で、麻痺毒にかかるような自覚の足りないプレイヤーが五割」
神妙な顔で、去っていく人々の背中を眺めるスザクに、アスカも同調する。
「全くだ。ゲンブも、あいつらの危険を理解していたっていうのに、あっけなく麻痺毒にかかっちゃたりしてさ。スザクのバードソングがなかったら、危うく全滅とは行かずとも半壊してたよ。危機感のなさは命取りだよ。僕たちがいなかったらどうしてたのさ」
飛び上がったスザクは麻痺毒を解くと一貫して歌い続け、剣を握ることはなかった。本当かどうかもわからない、不確定な情報でも、デスゲームなのだ。
それでも湧き上がる安心感を思って、賞賛を込めて、ふっとゲンブの口から心が漏れた。
「いやぁ、お前らがいるとさ、なんか、大丈夫だって気がしてくるんだよな。根拠のない自信だけどさ、お前らがいるだけで敵なんかパパッと」
「そっ、か」
途端に興味をなくしたように、声のトーンがぼとりと落ちた。
「やっぱり、一緒に戦うと言うのは、やめにします。一度言ったことを取り消すのは性分ではありませんけど、無理がありました」
「それじゃあね。これ以上一緒にいたら精神的に病んじゃいそうだし」
突然の申し出に、三人は質の悪い冗談を疑った。だが、その目は真剣そのもの。引き止めることはできないのだろう。にへら、と相好を崩して見せるが、二人の心は背中を向けている。
「ねえ、気付いてた? 荒唐無稽な話ってのは、毒にも薬にもならない仮説なんだよ。そっちを選び取っちゃったキミたちは、残念賞、揺らぎの種を差し上げましょう! アハハハハハハッ! 忘れんな。僕らを信じるなら信じていい。勝手に僕に騙されな。悪いようにはしないから。それがどこまで信頼できるかは、やっぱりキミたち次第だけど」
「我々を信じると言うのならば、アスカの言葉は話半分に聞いて、騙されたつもりで信じるくらいがちょうどいいのですよ。今のあなたたちに、リスクを冒してラスボスを倒す気はありますか?」
荒唐無稽な話には、悪役がいない代わりに救いもなかった。単に、現象としてのログアウト不可を説明をするだけのお粗末なプロット。
解決法など。
咄嗟の言葉は出てこずに、開けた口を塞ぐように、シンメトリーに人差し指を立てる。あざとく、わざとらしく、理解を拒絶。
「あ、でもでも連絡は好きに取ってくれて構わないよ。いつでもウェルカムバーミンガムだ。それじゃあ、また。どこかで会おうね。それがいつかを決めるのは、キミたちだ」
「それではお世話になりました。またいつかどこかで」
深くお辞儀をすると、足にブースターでも付いているかのような動きで身を翻す。
「だったら今でもっ、待てってば!!」
走った。だが、追い付けない、差は開くだけ。楽しげに笑うアスカの笑い声ばかりが場違いなくらいに響き渡って、その声すら消えると、ここはただのフィールドだ。
ライクラビットが、コリスが、シミラーバードが、叫声を上げる。
「ねえ、まずはレベル上げにゃい? じゃにゃきゃ、追いつけるものも追いつけにゃいでしょ」
普段以上に張り上げられた、ビャッコの提案に二人が頷き、三人だけのパーティでの狩りが始まった。