見上げてもプラネタリウム
スザクは、地上に降り立ち服まで着替えて目立たなくなったアスカを迎える。人目を避けるようにして、流れに身を任せながら合流した。
スザクもアスカも、近くにゲンブがいることなど考慮に入れず、知らないままに会話を交わす。
「じゃあ、僕は明日朝の五時まで、殺気立った彼らと肉体言語でお話をしないといけないから。その、絶対に、僕にメールをしないでね。スザクの優しさに触れたら僕、そのまま走って行きたくなりそうだから。たとえメールが来ても、無視してね」
ニッと笑うアスカだが、その声には余裕がない。
この世界では表情はほとんどシステムであるため、微妙なニュアンスは分かりにくい。
だが、その仕草だけは変わらない。だからこそスザクには分かる。
「そう。じゃ、最後にひとつ。足を一本折っちまえ!」
「へへへっ、うんっ! 了解した!」
互いにくすくすと、さも愉快そうに笑って、軽く拳を当てる。そうしてアスカは人ごみへと紛れていった。
スザクは辺りを見回して、フレンドの姿はないと判断する。真夜中の暗闇の中、彼女はざわめく群集の熱気に背を向けた。
ぐっと上を向けば満天の星空が、建物と木々の間からのぞいている。現実世界と何も変わらない、ただ大気汚染なんてリアルを排した、手を伸ばせば掴めそうな星の群れが思い思いにまたたいている。
一気に視点を正面に向ければ、真っ暗闇が広がる。背後の喧騒を素知らぬ顔であしらう、静寂の黒に強く惹かれた。
窮屈な宿屋も、騒がしい街中も、あえて行きたいとは思えない。
仕方ない。
呟いて、スザクは暗い小道を、より暗く、より人気のない場所を探してさまよった。
夜の闇に紛れてその顔は誰にも見られない。人気のない場所には見る人もいない。
知らずスザクの顔からは表情が薄れていった。
ちょうどいい。
そう思える場所を見つけるまでに、さほど時間はかからなかった。昼間は遊具のない公園のような広場であるここも、きっと集会場として賑わっていたのだろうが、今はしんと静まり返っている。
ぽつりと置かれてあるベンチに腰掛け、彼女は頭の中を空っぽにしていた。
たくさんのことがあり過ぎたのだ。
スザクはゆっくりと深呼吸をして、現状の確認とこれからを考えるために熟考に入った。
コツン、コツン
小さな、足音が聞こえる。
誰だろう。こんな人気のない場所に。誰も来そうにない場所を選んできたというのに。
だが、足音は確実に近づいてくる。それも、どうやら足音を潜めているつもりらしい。ゆっくりとした歩調だ。
潜めているならなおさら、と、スザクはいっそうの警戒をする。
一歩、二歩。
だんだんと近づいてくる足音が、もう手を伸ばせば届くであろう距離まで、もうすぐそこまで来ている。
それが、立ち止まった。こちらに向かってきているのはもはや疑いようのない事実であり、それが今スザクを恐怖に陥れているわけだが、それが立ち止まったのだ。恐怖はピークに達していた。
音はない。けれど、何かが近づいてくる。この、首筋がチリチリとする感覚。こんな精神世界でも、いや、感覚の世界だからこそだろうか。後ろの人物が、自分に向かって手を伸ばしている。
そろり、そろり
そんな音さえ聞こえそうなほど、スザクの感覚は研ぎ澄まされていた。もう触れられる。そう思ったときには体が反応していた。
ダンと地を蹴り飛び上がると、体をひねり、勢いのままに、自分に向かって伸ばされた腕に蹴りをお見舞いする。
「ア゛ヅッ!!!!」
そんな低い男の声と、ビシャアッと何かが飛び散るような音が聞こえたのはほぼ同時であった。
よろめく影の肩。そこに狙いを定め、ガッシと手をかける。
ヒット。
そのまま腕に力をこめて片手だけで飛び上がる。鳥獣種であるからなのか、跳躍は自分でも驚くほど軽やかだ。もちろん、ただ逃げるためだけに跳躍したわけではない。
だが、相手にすればたまったもんじゃない。グッと肩をつかまれて引き寄せられたかと思うと、もう片方に足が乗ってきた。
それが全体重を乗せて前へ、つまり頭からベンチへ突っ込むように誘うのだ。
あっという間もなく襲撃者はベンチに沈む。
スザクはその場を一刻も早く離れようと駆け出し、数歩進んだところで立ち止まった。
あの声、どこかで聞いたことがあるような……。そう、低くて、少々ハスキーな声を出す、そう、あれは……。
「ゲンブですか!?」
急ぎベンチへと戻る。そこに倒れているのは恐ろしい襲撃者ではない。優しいパーティメンバーだった。
街中はダメージが数値として出ないし、武器は振るえてもエフェクトばかりで体のほうが硬く跳ね返す。
だが、素手など、徒手空拳だけは例外で、なまじ触れられるためにちゃっかり気絶してしまうことだってある。
今がその状況ですね。
ひどく罪悪感を感じながら、スザクはゲンブをベンチに寝かし、頬を数回叩き、気付けをする。
何度かゲンブは唸ると、焦点の合わない目でスザクを、まるで状況が分かっていないかのように見つめた。
少しの間、二人は見つめ合うと、ゲンブはだんだん理解が及んできたようだった。先ほどとは違う唸り声を出す。
飛び起きたゲンブはスザクに何か言う暇を与えずに、九十度直角に頭を下げた。
「悪かった! う、うう、んと、その、……悪い。驚かすつもりはなくてだな。いや、驚かそうと思ってやったんだが、ほら、缶ジュースをほっぺにぴとってやるやつ。あれをしてみようと思ったわけで、その、思ったより、驚かせすぎた。デリカシーなかったな。すまん」
それに驚いたのはスザクである。
「そんな、いきなりよく相手も見ずに蹴ったのは私ですから。申し訳ありません。その、顔を上げてください」
そうしてスザクは微笑んだ。ゲンブもそれにつられて笑う。
「ところで、その、もしかして、私を探してここまで?」
「ああ。それ以外にわざわざこんなとこ来るかよ。寒くないか? ほら、これ」
ゲンブが差し出したのは、ココナッツドリンクのような飲み物。ブルームで見つけた、ゲンブのイチオシドリンクだった。
「とても、温かい。暖かくて、おいしいです」
「だろ?」
鼻を鳴らして、得意げに笑った。だが、ゲンブとてただ飲み物の差し入れをするために来たわけではない。いわば本題の前にワンクッション入れるためにしたことだ。
ただ、本当に気に入っている飲み物だったので、一本をオシャカにしてしまって自分の飲む分がなくなってしまい、ゲンブは少々羨ましく思ってスザクの手元を見つめた。
「あの、先ほど蹴り飛ばして撒いてしまったのは、私にくださろうとしていたものでは? そうなんですね。じゃあ、これはゲンブのものです。どうぞ」
「え、いや、俺はすでに一杯飲んでるし。う、サンキュ。ま、とりあえず、つか、座れよ。もともと、俺が邪魔したわけだし」
未練がましく見つめていた事を気づかれたかな、と、ゲンブは決まりの悪い思いでこのジュースの処遇をどうすべきか悩んだ。ゲーム内でどうという訳でもないが、ふっと間接キスという単語が脳内に進入してきたのだ。すぐには決められず、ただ手に持つだけでも温かいため、片手に持ったまま席を勧める。
するとスザクは戸惑っているようなそぶりを見せた。
誤魔化すように言ったのは事実だが、話の流れとしては自然なはず。だよな?
会話は少しぎこちない。
「えっと、では、隣に座ってもかまいませんか?」
ゲンブは空いている自分の左を軽く叩く。すでに口にも出している。困ったように聞き返す、スザクの心は分からない。
不意にスザクはマップを開く。ゲンブもスザクを追うために使った、開示設定にしているフレンドの現在地を特定できるマップだ。
すぐに閉じると、再びゲンブを見つめる。
もしかしたら、スザクは本来は開示設定を取り消して、一人になりたかったんじゃないだろうか。いや、もしかしたら、なんて副詞は必要ない。出会い頭の一発は、誰かが来ることを一切考慮に入れていなかった。
けれど、そんな風に思うのも今更だ。
俺は今、ここに来て、スザクと対峙している。
引く気もない。
ゲンブの頑固も、筋金入りだ。
「お、おう。隣に座ってもいいぜ。空いてるんだしな」
「では、失礼します」
そう言ってスザクが座ったのは。
「え、そんな隣? 密着してんだけど……」
「嫌、ですか」
「いんや、そんなことはないぜ。好きに座ってればいいぜ」
ぴったり密着して座ったスザクは、しかし平然としている。むしろ、ゲンブが飛び退かないことを残念がっているようにさえ見えた。
今更引けるか。もはや意地だ。
それでもどうしてゲンブのほうは、心中穏やか、というわけにもいかない。
普段なら女の子に言い寄られる、という状況は恐怖でしかない。だが、相手がスザクなら話は別だ。彼女は強い人だから。
でもこれはちょっと居心地が悪いとか、なんていうか、うわー、国語の成績低いってこういうことなのかー? と、自分の感じているものを言い表す言葉が見つからず、モヤモヤとした感情を持て余す。
ふと、ゲンブはスザクが震えていることに気づく。とても細かくて、見ているだけでは気づかなかった。けれど、きっと、ずっと震えていたのだろう。
スザクは無表情のような笑顔で、ゲンブの心情の変化に気づいたのか、ゲンブを見る。
何も言わずにただ見るだけ。挑みかけるような、それでいて何も考えていないような視線に戸惑う。
至近距離の、整った顔の美少女に、これはただのアバターだと思いつつも、そのままではどうしてもいられず、右手のジュースを一息に煽った。
少し落ち着いたのか、いや、余計落ち着かなくなったからだろう。スザクの手が胸の前で、ギュッと服をつかんでいることに気づく。
その手は胸に爪あとを残していそうなほど、獰猛に握り締めていて、気が付いたときには体が動いていた。
「それ、やめれば。いくらゲーム世界で、圏内でも、痛覚はあるんだぜ。あんまりそうしてっと、痛みが残るぜ」
ぼうっとした表情で、スザクはまるで他人事のようにゲンブの手の中にある左腕を見ていた。
不意に形のいい眉が微かに歪み、彼女は視線を胸元へと下げた。それでもやはり、彼女は他人事のようにして見ていた。
いつまでもそうしているスザクに、右手に掴んだ腕が、妙に気恥ずかしいものに思えてきて、バッと手を離した。
けれど、それは間違いだったのだろうか。スザクはぼんやりとしたまま左手を開いては閉じて、緩慢な動きで胸元に持っていきかけてその手を止めた。
まるで自由研究の朝顔でも見るような目で、少女は自らの左腕をしげしげと観察する。
「なんだ? 胸元になんかあるのか?」
様子のおかしいスザクに、心配する。
「んー、今はありません。現実では、ありますが。癖、ですね」
笑って誤魔化そうとしたスザクが見つけたのは、真剣に心配してくれる人間の沈黙。
顔を正面に向けたまま、ポツリポツリと話し出す。
「現実では、ロケットをつけてるのです。写真を入れているペンダントですね。これを握り締めていると、声が聞こえてくるのです。といっても、そんな気がする、というだけですよ? そんなに驚かないでください。それで、とっても落ち着くのです。でも、今は」
そう言ってうつむいたスザクに、ゲンブは苛立ちのような、怒りのような、腹立たしいような、悔しいような。整理のつかない感情の渦に呑まれた。
なんで、なんで。
「その、ロケットの写真が誰だろうと、ペットだろうと、俺にとったら知ったことじゃねえけど、そいつは今、スザクがつらい思いをしてる今、いないんだろ? 俺が代わりになんないってんなら、そう言ってくれよ? けど、俺は、今、ここにいる! してほしいことがあんだったら俺に言えよ」
初めて、スザクの驚く顔を見た。
「ああ、なるほど。それも道理だ」
続いた笑い声は、いつもよりも高い音色で聞こえた。「どうかしてますね、私」。そんな呟きを笑い声に混ぜて。
笑いは他人の笑いを誘う。けれど、ゲンブにはつられる気がしなかった。
ゆっくりとその笑いさえ収まると、隙を突くように静寂が訪れる。それもなにやら気に食わない。
「ティアラさんはさ、お前らは、信じて大丈夫って、言ってたよな」
「そうですね」
スザクは必要最低限の相槌だけを打って口を閉じた。何が気に入らなかったのか、スザクの見つめる先には、ただただ星空だけがあった。
分からないものは分からない。訊ねるのも野暮に思われて、言葉を重ねる。
「だから、さ。俺、嘘とか見抜けないけど、見抜けないなりに考えたんだよ」
「ほう」
気のない返事だったが、ゲンブはむしろ身を乗り出して、スザクと星の間に割り込んだ。
「アスカが言ってたのって、つまり嘘な訳だ」
「嘘は含みますよ。これ以上は、嘘を言わない私の口からは言えませんが」
スザクは視線を逸らす事すらしなかった。けれど、見つめ返すでもなく、上の空に目が向くだけで、ガラス玉を見ている心地にさえさせた。
それでも。
それでもゲンブは見つめ続けた。
「お前らはデスゲームを運営なんかしてない」
動かない。
何も動かせずそのままに。
「だって、アスカの言葉を要約すれば」
「言わないで」
視線が、悲鳴を上げてかみ合った。
「言わないで、ください」
少し遅れて繰り返した彼女は、何もかもを見透かすような、質量を持った瞳をしていた。
「言わんとすることは大方予想はついています。十分に想定していました」
突然、スザクは非表示のメニューを弄る動作をして、何かを書き留めているようだった。不思議に思いながら続く言葉を待つ。
「そうそう、して欲しい事。あります。聞いてもらえますか?」
「おう。何でも聞いてやるぜ」
あまりにも潔い即答に、自称デスゲームの運営者の相方は、声を上げて笑う。
「やっぱりゲンブって馬鹿なんじゃないですか?」
内容は小馬鹿にしたようなもの。すぐさま言い返そうとして、やめた。スザクは、とてもとても嬉しそうにそう言っていたから。
毒気も抜かれて、そうかよ、とだけ返すと、スザクはくすりと笑って肩を寄せた。
「では。その、朝まで、一緒にいてください。そうすれば、もう大丈夫ですから。ええ、何もかも」
スザクは力を抜いて、ゲンブに寄りかかった。
「朝までって、タイムリミットをつけなくてもいいっての。俺は、ずっと一緒にいるから。先にできるだけ一緒にいたいって言ったのは、お前らの方じゃねぇか」
まるで、朝になったらいなくなってしまうような言い草に、ゲンブは妙な胸騒ぎがして、咄嗟に詰問するような言い方になる。余裕のない自分にうんざりだ。
「ありがとう」
その表情は、目を奪う。慈愛に満ちて、包容力を持った、穏やかな笑み。けれど、その顔を長く見ることは叶わない。腕を首に回して、手は首筋に触れ、頭は耳のすぐ横に。自然に当ってしまった胸に、ふくらみはない。それでも張り裂けそうな胸の鼓動と共に、数日前のアスカによる一方的なバトルを思い返す。戦闘中に、ゲンブは小さなふくらみを感じたと、そう言った。アスカは知っているのだろうか。知らなければいいのに。不意に、そんなことまで考えるほどには動揺していたらしかった。
そんな折に、ございました、なんて言う、小さな声が聞こえた。
さっと元の格好に戻ったスザクは、ゲンブの肩に頭を乗せる。
まもなく、寝息に変わる。
身動きすれば、起こしてしまいそうで、ゆっくりと視線を上に上げた。
マップを開いて、スザクの位置情報は不明。自分の位置情報を非開示に変更して閉じる。
スザクを追いかけてきたのはアスカがあんな宣言をして、意図は推測できても理解ができなかったからだ。
「わけわかんねえよ」
スザクが寝てしまったのを確認してから呟く。
何を考えて行動しているのかなんて、さっぱりだ。
常に笑顔で、時折怒って、たまに無理な笑顔をして。
「わけわかんねえよ」
一睡もできないままに夜が更けた。
1101 0110 1101 1001 1100 1001 1100 0010 1011 0111 1011 1110 1100 0110 1100 1010 1011 0001 1011 1011 1011 0110 1101 1110 1011 1000 1101 1001 1100 0000 1011 0010 1100 0101 1011 0010 1100 0100 1101 1110 1011 1001 1011 0010 1100 0011 1101 1110 1100 0001 1010 1110 1011 0011 1011 1110 1011 0010
日の出と共に現れたアスカに、ものすごい勢いで怒られて、その騒々しさに目を覚ましてしまったスザクが、何事もなかったかのように、
「朝まで、というのを詳しく時間を指定しておくべきでしたね」
なんて言うものだから、何があったのかとさらに問い詰められたのは理不尽だと思う。
まあ、たとえ事情と共に時間の指定をしていたところで、ひざの上で気持ちよさそうに眠るスザクをほうって立ち去るなんていう非情なこと、できたはずもなかったんだがな。
顔に出ていたようだ。さらにアスカにいちゃもんをつけられる。
あ、今度はアスカがスザクに怒られてやんの。ざまあみろ。
知らず知らず、ゲンブは笑っていた。
鋭い目で睨み付けたアスカも、怒る気も失せたのか、笑い始める。
スザクもくすくすと笑っている。
むちゃくちゃ楽しくて、むちゃくちゃ可笑しくて。本当に――
俺は、ここがログアウト不可で、加えてアスカがあのような宣言をしたという事を忘れていたのだと思う。