正体不明は二人とも
だんだんゲンブに歌うことを要求する声はスザクのものではなくなっていく。真っ暗な視界の中で、記憶は過去へとさかのぼる。
「お前のせいでアイツが」
「どうしてくれるんだよ」
聞こえてくるこの声は女性の声でさえない。塞いだはずの耳から、塞いだはずの過去が、際限なくゲンブを苛む。
ああ、記憶が引きずられる。
引きずられた記憶が、苛む。
嬌声と糾弾と賞賛で、襲う。
ただ桜の妖精さんと歌った、あの歌が好きだっただけなのに。
少し突出していたために、非凡な才が災禍となって、あのとき歌が生んだのは悲劇だ。
麻薬のような、悲劇だ。
クラスメイト。
破綻。
カメラ。
合唱。
お上手。
セイレーン。
彼氏。
テレビ。
集団。
コンクール。
友情。
飛び降り。
歌。
彼女。
さくら。
屋上。
眩しさ。
親。
天使の歌声。
自殺未遂。
フラッシュ。
恐怖。
ねえ、もっと、歌ってよ。
「俺は、歌わないから」
歌声は、嫌になるほど影響を与えるくせに、声は誰にも、届かない。
涙が出た。
「がふっ」
そんなゲンブの苦悩など知ったことかと、前触れなく抱えた頭を蹴り飛ばされる。それはもう、サッカーボールを蹴るように、容赦なく蹴り上げる。
痛覚は現実に準拠したようにすら感じられ、流血エフェクトが流れる。
高レベルの靴には微量だがATK値が設定されている。それでだろうか。わずかにHPバーが減少した。
ゲンブは痛みによって悪夢からの覚醒を感じた。
無理やり上げられた顔で、その目はスザクを捕らえる。
スザクのほうもゲンブを見つめ返す。彼がどんな顔をしているかと思えば、なんてことはない、理解が追いついていないような顔。
ゲンブにスザクに対する敵意などあるはずもなかった。自分で悪趣味だと言う魔法を使う真意は、どこにある。
そんな態度が、スザクの表情筋をわずかでも動かした。
「ゲンブ、私はあなたに攻撃を加えました。これは明確な戦闘の意思表示です。ゲンブも、武器を取ってください」
ゲンブは言われるがままに、顔に似合わずいかついフォルムの片手用小型銃を持ち上げた。
スザクの言動を不審に思いながら、視線を銃からスザクへと上げた。
スザクの口が三度動き出す。それにあわせてゲンブもスライドを引き、引き金に指をかけた。
呪文詠唱の終了、つまり幻影魔法の発動と同時に、ゲンブは引き金を引いた。
カチリ、バキューン
それはどこかでは聞いたようなテンプレートな発砲音。けれども耳元で聞くとそれは段違いで。
爆音と反動に、ゲンブの意識は呼び起こされる。
ゲンブは防音ヘッドホンを、つけてなどいなかった。
ゲンブが次の攻撃動作に移ったのかというとそうではない。硬直していた。もちろん、そんな一発でマヒ状態に陥ったとしてもせいぜいが数秒で、爆音による影響でもない。ただ単に驚いていたのだ。
自分を撃ったのにダメージがないことに、驚いていたのだった。
その隙にスザクがゲンブに肉薄し、足元をすくい上げる。
ダンと背中から地面に叩きつけられたところに、追い討ちをかけるように踏みつける、踏みにじる。
ぐりぐりとひねりをくわえつつ片足に体重をかける。
だがそれでも、防御力による補正がかかり、スザクの装備もアスカのような超重量級ではなく真逆の軽量装備だ。アイテム収納量も少ない上に、彼女がキーアイテム以外はほとんどアスカに預けていることは知っている。重くなる要素は何一つなく、実際に軽いし、靴もスパイクなどついていない。
要するに、痛くはないのだった。
「なぁ、スザク、今は対戦中なんだよな」
何か言わなければという思いばかり先走り、そんな言葉が口をつく。しかしそれにスザクからの返事はなく、緩やかに減少する体力ゲージにも変化はない。
それでもめげずに語りかける。痛みは少ないが、立ち上がることは不可能なのだ。
「なぁ、その、スザク。あの、……重い」
殴られること覚悟で言ったものの、いつまでたっても拳はおろか、腹部の痛みすら変わらない。ただ彼女はうっすらと笑った形で止まった顔を、正面に向けているだけだ。
女性は体重に過敏に反応することを、身をもって体験したことのあるゲンブにとってこの反応は予想外で、呆然としてしまうが、体力ゲージの減少、リミットは待ってなどくれない。
体力が半分をきり、黄色くなったところでスザクが口を開いた。
「~~~~~~」
呪文の詠唱のようにも聞こえ、現に魔法陣が広がった。周りに白い光の玉が満ちたためにゲンブは一瞬身構えたが、どうやらそうではないらしい。
早口すぎて聞き取れない歌うような呪文詠唱とは違い、これにはそもそも聞き取るべき言葉が存在しない。純粋に、歌詞のない歌なのだ。
そこで思い当たるのはバードソングである。鳥獣種の固有スキルで、効果が歌声に依存する、癒しスキル。
こんな時にもかかわらず、ゲンブはその歌声に懐かしさと安心感を覚えた。そんなはずはないと首を振る。
確か、効果範囲はこの玉と魔法陣が存在する、歌声が聞こえているプレイヤーで、範囲は味方だったか。
そんなことを考えながらスザクの頭上に浮かぶステータスバーを見る。体力ゲージのその上に、いくつかのアイコンが浮かんでいることを確認する。
攻撃力上昇、防御力上昇、回復力上昇。どれもこの場面では必要がないように思われた。防御と回復はいわずがもな、攻撃だって、魔法を使えば一発でけりがつくのだろうに。
それでも攻撃力上昇は気になり、自分のステータスバーを確認する。するとそこには。
スザクにあった三つのアイコンが、そっくり同じく存在していた。体力の減りは止まっている。腹部の痛みは継続するとはいえ。
ますますわけが分からない。
いや、これを行うのがスザクだということを考えれば、すべて説明がつくのだろう。ゲンブには、半分も理解できていないが、直ちに戦闘不能にさせたくて、勝ちたくてやっているだけではないことは分かる。勝者の余裕を見せ付けたいわけでないことくらい分かる。
ならばこそ、この硬直状態を説く必要があった。
「おーい、この位置からだと、その、えっと、うぁ、とと、とっても言いづらいわけだけど、その、下着が見えてます。ご、ごめんなさぃ」
口に出すのが恐ろしくて仕方なくて、言い切ったというのにやはり無反応だ。これは、硬直状態が解けた後に何か言われるパターンなのだろうか。いや、見えてないけど。見えてないけどさ。
恥ずかしさを無理やり押し出して、予想されていたことだと割り切って、ほかのネタを探す。
女の子としての部分を刺激することは断念し、方針を変える。
「ばーか」
無反応。歌声も乱れない。
「あーほ」
これだけ言われたら普通頭にくるだろ。俺だったら一言目でもう殴らないまでも突っかかっていることは確実だ。
なんだかこっちが腹が立ってきてさらに続けてしまう。
「ドジッ、マヌケッ、お、お前の母ちゃんでーべそっ」
最後の一言は恐れ多すぎて詰まった上に裏返って、それでも言い切ってしまったことにかわりはない。言ってしまった、と後悔。
彼女が人の悪口を嫌うのは、数日パーティを組めば分かることだった。そのことを分かった上での発言だ。それこそぶん殴られることは覚悟の上だ。
しかし。
彼女は歌い続ける。
表面上は、楽しげに。
その様子に、ゲンブは。吼えた。
「おい、何とか言えよっ。歌ってないでっ。無視すんなよっ」
そこでゲンブの声は落ちる。うって変わって弱気な声で、懇願する。
「お前は、身内貶されて平気な奴じゃねえだろ? 怖がられるくらい尽くしちまう奴なんだろ? なぁ、お願いだから、無視しないでくれよ」
にじむ視界の中で、スザクはついにこちらに顔を、向けた。笑顔のままで。
「『無視すんなよっ』」
自分が放った言葉が、鋭さを増してそのまま帰ってくる。それ自体に物理的な痛みを内包しているかのような声に、ひるむ。
「私が言いたかったのはそのことです。無視されることがどういうことか、分かっていただけましたか」
とても優しく語りかけているようだが、笑っていない笑顔というものほど恐ろしいものはない。それに彼女が返事を待っていないことは鈍感なゲンブでも分かる。
「言いましたよね。私がしていたのは幻影魔法で、効果はゲンブが体験したとおり。内容をしっかりとイメージしていない場合、相手のトラウマを刺激します。いかがですか楽しんでいただけましたか、素敵な素敵な悪夢なんて。それより重要なのはこの魔法をかけられる相手の条件です。モンスターの場合は気づかれていないこと。プレイヤーの場合は、敵意の有無、ターゲットにしているかどうかが条件になります。かからないようにするのは簡単です。ターゲットにしておけばいいだけですから。そもそもプレイヤー相手に効く魔法ではないのです。この意味が分かりますか。私を、対戦相手として認めていなかったということですよ。無意識下で、軽視しているということですよ」
「それは違う」
反射的に言い返したゲンブを、スザクは笑顔を崩すことなく思い切り蹴り上げた。
蹴り上げる力はATK値、装備もあいまって重たいゲンブを持ち上げるにはそれだけでは足りない。だがそのまましゃがみ襟元をガッと引き寄せ強引に立たせる。
ますます強烈な、眩しいほどの笑顔になって耳元に口を寄せる。
「何がどう違うというのですかいい訳なら聞きません原因が私が女であるということならばVRのことを分かっていませんね性別による引け目なんてないのにそういうものの見方をすることは偏見です私より弱いくせに生意気なことをしないでください不本意ですそんなことをされてもうれしくありません女の子扱いもそういう方向なら不要です対等に見てくれたほうが嬉しいです」
早口に抑揚無くまくし立てられ、耳鳴りがしてきた。だが、そんなゲンブにも分かるものはあった。
もう分かってしまったんだ。彼女は怒っているんだ。泣きそうなくらいに辛い気持ちに蓋をして、涙の代わりに血を流し、気に食わないだけだとごまかして、怒こったふりをしているんだと。人の心など完全には分からない。だからそう、決め付ける。
しかもその怒りさえ顔に出すことを良しとせずに、嘘だらけの笑顔で塗りつぶしたりなんかして。
実際に流れる血はゲンブのものだが、心の傷が見えたとしたら、きっと相討ちどころではないのだろう。嫌な記憶を投げ出して、ゲンブはそうだと確信した。
「黙れ。もうお前喋んな。んな顔で殴んな。お前に人殴って平気でいられるような冷たさねぇんだろ。見てりゃ分かるよ、ざっけんな。ストレスを発散するにもほかに方法ってもんはあんだろうが。もしその方法でお前が満足するならいくらでも殴られてやるけど、違えだろ。最初に無視したのは俺だから。もうしねぇから。だから、自分で自分を傷つけんなよ」
ふっと襟元を掴む力が弱まる。急なことでよろめくが、自分の足で立てるようになる。
本当は咳き込みたいくらいの気分だが、スザクの手前、どうにもできなかった。
何を考えているのか分からないような、けれどもさきほどまでの無表情の笑顔ではない、自然な表情であることにゲンブは安心する。
それが緩むと最初は少しずつ、それから彼女は堰を切ったように笑い出す。
「あははははっ。ああ、おっかしい。ふふっ、ごめん。ごめんなさい。ゲンブがその、シリアスっぽいことをしたらですねぇ、ふふっ、その顔のせいで思いっきりギャグなんですよ。ごめんなさい。でも本当に、ふふっ。って、ちょ、むぐなにふるろれふか」
ぎゅむと抱き寄せて、喋れないようにさせる。
「喋るなって、言っただろ。そんな、俺を安心させるためだけの空元気なんて、いらねぇから。……いや、ギャグなんだろうけどさ。だろうけど、空元気だろ。そんくらい、わかるっての」
ゲンブが押し黙るとスザクにも言葉が見つからず、ただただ沈黙が下りた。
いつものような笑顔を、視線を彷徨わせてからさらに深めた彼女は、抱きしめられたその格好のまま、頭を上へと持ち上げる。
当然そこにはゲンブの顔もあり、ゲンブは少なからず動揺したようだったが、彼女の視線はそのさらに奥に向いている。
戦闘中、ずっと頭上を旋回していたタイムボード。それは残り34秒を示し、今も止まらず動いている。
「もうすぐ」
スザクにとっては独り言のつもりだったが、ゲンブはそうはとらない。ばっと後ろに下がろうとしてその腰に細い腕が回されていることに気づく。これでは下がろうにも下がれない。
「ゲンブが抱きしめてくれたのではないですか。あと17秒、強制退去までさらに1分と30秒。もう少し、このままでいていいですか」
試合終了のブザーが鳴り響き、それでもかまわず首もとに顔をうずめる彼女に、男として無反応ではいられない。
どこの誰で年齢だってわからない、ただのコンピューターの作ったアバターでしかないと考えても、触れた部分は確かに熱を感じ、彼女の姿はバーチャルでも、言動はリアルなのだ。
頼られるのは嬉しいと思いつつも、知らず小学生のときの、あの無神経で強引な、ただただ自己主張の激しい女たちの媚びる仕草と重なり、居心地の悪さを感じて、もぞもぞと体を捩った。
でも。
彼女はスザクだ。
トラウマを暴かれて、何も感じないわけではない。ただ、DECIMAは悪趣味だなあとだけ。
何があったのかは知らないけれど、スザクの怒りは尋常じゃなかった。だったら、きっと事情があるのだと、そう思う。
だから俺は大丈夫。
桜の、妖精さん。
すっと、胸が、軽くなる、魔法の言葉。
歌う事は、とても楽しい。
幸せな記憶と結び付く。
桜祭りで桜の妖精さんに出会ったことは、決して間違いではないから。なかったことになんてしたくない。だから。
だからもう、大丈夫。
目を見開いて、スザクを見つめる。
彼女の歌声は、自分に歌を教えてくれた桜の妖精さんに似ているんだ。
「歌は、好きなままなのですね」
彼女は小さく呟いた。そして、ほろ苦く笑った。
その言葉の意味は、何だ?