花は咲く(1)
ダニロヴィチとアズレト以外の男たちは街に着いて早々どこかへと消えてしまった。いつも滞在している宿があるのだろう。
ここは、きっといわゆる闇市なのだ。
高価そうな服装をした者からみすぼらしい者まで、雑多な人たちが往来を歩いていく。鎖に両手を繋がれた者も。
縄で縛られた手首はそんなには痛くない。アズレトが気を使って、ぼろ布を挟んでくれたのだ。お礼は言わなかった。
私は今ただ立っていた。周囲にも同じような人たちがいる。売られるだろう人たちは、諦めている人もいれば泣きわめいている人もいた。自分の価値を理解している美女は、往来の人々に微笑みかけている。若い男性がそれに捕まって、あたふたとしていた。
何をこんなに冷静に見ているのだろう。私だって、何も変わらない。土に汚れた服。髪だけは、前日に川ですすいだ。腰までの黒髪をそのまま流す。こちらの方が良いというアズレトの判断だ。
幾人もの人がこちらを品定めするために、視線をぶつけてくる。その視線が商品を見る目付きだと気が付いた途端に顔を上げられなくなった。私はどうなるのだろう。男に買われるのか、それとも娼館か。ろくでもない二択だ。出来るならば、他の選択肢を生み出したい。
「アズレト、笛が欲しい」
「わかった」
アズレトに言われたからじゃない、自分の意思だと言い聞かせる。ダニロヴィチが私の両手の縄をほどいてくれた。どちらにしろ、こんなところで逃げられはしない。道が数多くの商品とごみで占領されていて、私の足じゃすぐに捕まるのがオチだ。
アズレトが私の就活鞄を漁っている様子は妙におかしいように見える。何もかもが非日常の中、就活鞄はいつだってその存在感をたっぷりとアピールしてくれるのだ。
「ほら」
竜笛が、自由になった私の手へと渡る。何も出来ない私でも、笛ぐらいなら吹くことが出来る。風が吹いて、私の黒髪が空を舞う。
顔を上げた。今から何かするようだと人々がざわめく。知らない人と目があって、一気に緊張感が体に走る。今思えば、こんなに大勢の前で笛を吹いたことなんてない。いつものように見知った人に聞かせるのではなく、知らない人々に私は自分の価値を知らせなければならない。
目を閉じて、笛を口元に持ってくる。
人間が多くて、いつもとは流れが違う。涼やかな音ではなくて、賑やかで騒がしい曲だ。楽しい音ではなく悲しい音でもなく、ただこの場所を盛り上げようとするかのような無機質な音が聞こえた。私以外には聞こえない、私だけの音が輝く世界。
音を合わせる。知らない環境での知らない音は楽しい。例えどのような場所だとしても、音楽に垣根はない。指が流れて、私だけの音楽を人々へと伝える。この音はどのように聞こえるのだろう。あとは気が済むまで、音の舞いに体を合わせるだけだった。
拍手が聞こえた、しかもすぐ近くで。
目を開けると、茶色の巻き毛の青年が手を叩いていた。
「いやー、すごい! すごいものを聞いた」
「恥ずかしいから、やめろ」
その背後に同じような茶色の髪の青年が隠れているのを見つける。少しばかり巻き毛の青年の服の裾を引っ張っていた。見ていることに気が付かれたのか、その青年が視線を寄越した。思いっきり目があってしまう。顔が小さくて鼻が高く、なんというかびっくりするような美形である。女には不自由しなさそうだ。
「ほら、さっさと行くぞ」
巻き毛の青年は名残惜しそうにしながらも、友人にせっつかれるように消えていく。
この演奏で、楽団の一人にでも迎えてくれないだろうか。それか、お抱えの演奏者、みたいな。淡い希望と絶望が胸を交互に行き交う。希望があるからこそ絶望がより深まることを知っていたけれど、それでも止められない気持ちが胸へと宿る。
「いやあ、素晴らしかった」
今度は、豊かな髭を蓄えた紳士だった。手袋をしてステッキを持っているその様子は、全身で金持ちを表しているように見える。コートはおそらく皮なのだろう。もしお望みならあなたの家で演奏します、と言ってしまいたい。でも、怖い。的外れの期待感と現実が混ぜ合わさって、ぐるぐる回る。
白い手袋のままで、私のあごを持ち上げる。先ほどまでの高揚と緊張はどこへやら、背中を一気に悪寒が駆け上がった。
品定めの視線が私の全身を嘗め回す。右に左にじっくり見る。目を閉じる。冷や汗が落ちてしまいそうな程に、体が固まってしまう。
紳士は何か言っているけれど、ところどころしか聞き取れない。断片から意味を探ろうとしても疲れるだけだというのは、この何日かで既に悟っている。
そのとき、三十代ぐらいに見える女性が一人こちらに近づいて来た。ほとんど黒に見えウような栗毛をアップでまとめ、真っ赤な口紅をつけている。グレーの瞳はとても力強い。色気がある、とはこのような女性のことを言うのだろう。
まずは、紳士に話しかけている。もしこういうときに正確に聞き取ることが出来ればいいのにとは思うものの、どうしようもないことはあるのだ。扇を上品に口元に当てる女性は、貴婦人というには艶やかすぎる。
笛を吹いて一息ついて、しかも話は蚊帳の外であって、私の話なのに妙に落ち着いてしまった。アピールすることは出来ても、交渉はアズレトたちにまかせることしか出来ない。悪いようにしないだろう。私も彼らも高く買って欲しいという気持ちばかりは共通しているのだから。
女性が紳士の肩に手をかけた。耳元に何かを囁いている。紳士はそれを聞いてやれやれとでも言うように首を左右に振り、そして去っていった。女性の華奢な手の甲に唇を落としてから。
彼女は私に向かって微笑みかける。関わったことのない種類の人間だと思った。威厳があるのに、どこか可愛らしい。自分の価値を知っている人間だ。女子高生が自分の可愛いと思える角度を研究する、などとはレベルが違う。短所をも長所に変えてしまうような、魔性の女だ。
「言葉、分かる?」
「少し」
「そう、大丈夫そうね」
手袋はレースで作られ、実用的とはとても言えない。レーナたちとは住む世界が違う。
私にそれだけを聞いて、アズレトとまた話を始めた。この人が私を買うのだろうか。男ではないのなら、娼館なのだろうか。私は娼婦になる? それとも、少しだけ期待してもいいのだろうか。どこかの屋敷の下働きかもしれない。もしかしたら、演奏者として抱えてもらえる可能性だって。
何にしても、技術もない女一人の行く道なんて同じようなものだっていうことは頭では分かっている。でも、どうしても実感が湧かない。知識として知っていることと、経験することは違う。せめて子供なら何か違ったかもしれない。
ダニロヴィチが就活鞄を持ってやってきた。この鞄はいつまで私に付きまとうのか。異世界に来るのも一緒で、売られるときも一緒だ。これ以上心強くない仲間もいないだろう。
「あの人?」
ダニロヴィチが頷く。
「どんなことをしても、生きろ」
小さな声で、彼は言った。分かった、なんて答えてはやらない。この人たちは私にこんなことを言う権利はないのだ。それを知っている上でこのように言うのだろう。実は皆いい人で仕方ないことなんだ、ってそんな風に思えるはずはないというのに。
「行きましょう。コハル」
女性が控えている男性に合図をして、私の手を取る。就活鞄をしっかりと握った。もうアズレトたちとはお別れだ。でも、最後に聞きたいことがある。
「アズレト! 私の値段はどれぐらいだった?」
小声なんて不躾なことはしない。アズレトとダニロヴィチと、見知らぬ男が一人何かのやり取りを行っている。
アズレトは少し焦った様子を見せた。大金なのだ。強盗を警戒しているに違いない。私のそばまで来て、小声で話しかける。
「金貨四十枚だよ。破格だ」
金貨四十枚で私の体は私ものではなくなり、この女へと所有権が渡る。
「ありがとう。ばいばい、人売りめ」
アズレトは顔を露骨に歪めた。これぐらい許されるはずだ。この人たちは私という踏み台で生きていく。これぐらいの罪悪感は一生背負っていけばいい。
◆◆◆
「コハルは、口がきけない。そういうことにして置きましょう」
顔におしろいを乗せられる。唇には紅を。
「神秘的な女こそ、美しいの」
もっと別の言葉で伝えたいのだけれどコハルには分からないから、と私に分かる程度の速さで言う。髪には花の香りのする油を塗られる。お風呂でごしごしと洗われたときには、どうしようかと思ったものだ。
「コハルは、美しい髪と、笛がある。何も言う必要はないのよ」
闇市であった女性の名前は、エレオノーラという。娼館の女主人だ。
「髪はそのまま流して、そう。何もつけないで」
目の前の女の指示によって、私の黒髪に櫛が入れられて梳かされていく。
「コハルは綺麗よ。闇市で咲いた、一輪の花」
私を着飾って遊ぶその様は、まるで少女だ。ここに来るまでに三着もの衣装を着替えさせられた。こんな私を見てはにこにこと笑う。やはりその色が似合うわ、と呟いた。
「立って、コハル」
「はい、エレオノーラ様」
頭のてっぺんから足の先まで、整えられた。
衣装は淡い水色に幾重ものスカートが重ねられて豪華だ。レースが非常に可憐で、幾らほどの価値があるのだろうと思ってしまう。ふとユリアのリボンが思い浮かんだ。
立ち上がると、豪奢な分重量もあった。足がこの場に縫い付けられてしまいそう。
エレオノーラがこちらにやってきて、机の上の竜笛を私に渡す。異質であることを強調するそれを持つと、少しだけ心強い。
「新しい花に名前をあげましょう、……ウェンディ」