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偽物聖女  作者: すとろん
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揺蕩(たゆた)う

今回はいつもより短めです。

 揺れている。

 均衡を失って、私はどうすればいいのだろう。



 アズレトの冷たい目。ユリアがいなかった意味。

 そして、レーナの言葉。


 気持ち悪い。

 馬の上は思っていたよりも揺れるのだ。全身のバランスのとり方が分からなくて、どこもかしこもが痛い。どれくらい時間が経ったのかもよく分からない。

 休憩中に馬から下されても、地面が揺れているようだった。


 後ろ手に結ばれた両手は、わらさえつかむことは出来ない。

 頭がぼうとして、どこか空虚くうきょな感じがする。私はこれから信じていた人々に売られるのだ、お金と引き換えに。


 土の上に座るというのは、存外ぞんがい冷たいのだと思った。ここは背の高い木々に日の光を遮られているのだから、当たり前だった。


「食え」


 パンが差し出される。硬くてろくに味もしない粗悪品だ。あんなに美味しく思ったパンも、腹を満たすだけのそっけもない品に思える。


「いらない」


 食欲が湧かない。胃の辺りがむかむかする。

 先ほどから視界に薄靄うすもやがかかっているようで、何もかもがぼんやりとして見えた。日本にいたら、こんなまずいパンを食べることもなかっただろう。こんな森の中を馬で通り過ぎることも。売られることも。


「先は、長い。体持たない」


 武骨な手の持ち主はそのように言う。知るか。このままのたれ死ねば、日本に帰れるかもしれないじゃないか。


 頭の上で男たちが何か言い争う声が聞こえた。そちらに目を向ける。

パンを差し出してくれたのは、ユリアの父のダニロヴィチだった。アズレトが何かを言ったらしい。どうでもいいことだった。


 朝と夜を繰り返し、とても短いようにも長いようにも感じた。夜は疲れからか、気が付いたら寝てしまう。道が下りなのか上りなのかも分からなかった。私は今どのような表情をしているのだろう。人形になった気分だ。


 ダニロヴィチはうるさい。無理やりパンを口に突っ込まれる。鼻をつまんで口を開けられて、水を飲ませられる。私を生かさねばならないのだから。でも、何もかもが薄靄の向こうだ。


 何日もの強行軍のせいか、体がなんとなくだるい気がした。喉が痛い。関節が痛い。ふわふわとして、硬い地面なのに起き上がりたくない。


「立て」


 アズレトの声が遠くから近くから聞こえる。腕を掴まれても、力が手に入らない。


「立て!」


 体を無理やり引っ張り起こされる。

 目の前には、見事な赤毛頭があった。アズレトの目を久しぶりに正面から覗き込んだ気がする。怖かった。あの氷のように冷たい目なんて見たくなかったのだ。

 でも、今は何故か違う。焦っているように見える。


 アズレトは、硬い手のひらを私の額に当てた。誰か別の男を呼ぶ。その男も、私の額に触れる。


 どうしたのだろう。アズレトは、もう立てとは言わない。それどころか、馬のエサの干し草と毛布で何かを作っているようだった。ダニロヴィチまでもが私の両手の綱を解こうとしている。腰縄こしなわもつけていない上に食事時でもないのに、これは様子がおかしい。

 野宿のためのたき火の準備を始めた。太陽が昇り始めたばかりなのに。


 私を少しばかり抱き起して、干し草の上に寝かせる。太陽の匂いがする。ちくちくとした感触も気にならない、私はまどろみの中へと落ちて行った。



 誰かが私の名前を呼ぶ。おじいちゃんじゃない。目を開けると、そこにはダニロヴィチがいた。何かを呟く。よく分からないけれど、先ほどより気分が楽になったので、起き上がった。後ろの幹に寄り掛かる。


 ダニロヴィチは私に串を手渡した。それは、ミリエリャだった。一口齧ると甘い味がした。久しぶりに味のあるものを食べた気がする。

 一つ食べ終わると、ダニロヴィチがお椀を差し出した。中にはスープがある。干し肉が柔らかくなるまで煮られている。それも飲み合わった後、今度は青臭い匂いのする黒っぽい汁を差し出された。


「いらない」

「薬だ」


 見るからに苦そうな薬だ。どろどろとしていて、見た目から悪過ぎる。


「トト草を煮て、潰した。体が楽になる」

「いらない」

「飲め」

「健康じゃないと、売れない?」

「そうだ、飲め。口に流し込むぞ」


 しぶしぶ受け取る。こんな苦そうなものでそんなことやられたら、窒息死しそうだ。


「苦い?」

「苦い」


 ため息をつく。ダニロヴィチがずっとこちらを見ていて、飲むまで目を放すものかという風情だ。

 息を止めて、恐る恐る一口だけ飲む。やっぱり苦い。糖衣錠ばかり飲んできた私には、慣れない苦さだ。直接薬草を煮込んでいるのだから、そりゃそうだとも思う。

 何で私はこんなにのんびりとこの人たちと話しているのか。売る側と売られる側であって、今私に縄はかけられていないのに。でも、このまま逃げ切れる体力もこの森を無事に脱出出来る技術もなかった。

 今度は、一気に飲み込む。


「よし」


 硬い手のひらが頭をごしごしと撫でる。


「は?」


 思わず声が出てしまう。一体何をしているのだ、この男は。これから、お前が私を売るというのに。


「すまない。ユリアが、好きで」


 ユリアの父らしい一言だ。ユリアが苦い薬を飲んだとき、いつも頭を撫でているのだろうか。私と自分の娘が重なって見えたのかもしれない。だったら、ついでに逃がしてくれればいいと思う。


「アズレトを呼んで」

「ああ」


 ダニロヴィチが去り、アズレトがこちらに向かう。私は父に撫でられた記憶はない。お父さんの手のひらとは、あんなに大きいものなのだろうか。


「何?」


 アズレトはいつも通りのそっけなさだ。レーナの前ではあんなにも笑っていたのに。この能面が憎たらしい。

 のろのろとした動作で、胸元に手を入れる。体が言うことを聞いてくれないのだ。


「これ、返す」


 レーナから貰った巾着袋だ。

 私がこれを持っている意味などない。レーナはどうしてこれを私にくれたのだろうか。何度考えても答えが出ないのだった。


「レーナが?」


 アズレトが僅かに驚く様子を見せる。小さく頷いた。


「なら、持っていろ」

「何故? いらない。こんなもの」

「返すならレーナに直接返せ」

「もう、出来ないのに」


 アズレトはどこかへ行ってしまった。銅貨六十枚の重み。私の重みは何枚分なのだろう。

 目を閉じた。



 何度か眠りとご飯と薬を境界も曖昧なままで、過ごした。

 疲れが祟って、体に無理が生じたのだ。薬の力を借りると言っても、ここは森の中であって、しかも野宿だ。平凡な日本人の体がそんなことに慣れているはずがない。しかも、どちらかと言わなくてもインドア派だ。

 それでも、だるさが段々と消えていき、今は目覚めの前でのまどろみを楽しんでいるだけ。そろそろ出発が近づいているのを、肌で感じた。


「売りたくて、売るわけではないのだ」


 アズレトの声が聞こえた。独り言だろうか、それとも私に聞かせているのだろうか。ゆっくりと話す。


「そろそろ、戦争が起こる。そうすれば、冬のたくわえの調達が難しい。皆、飢えて死ぬ。早めに、金が欲しい。生きるためだ」


 目を開く。アズレトはちっとも驚いた様子がない。


 そんな懺悔の言葉に何の意味がある。自分の罪悪感を軽減したいだけだ、とアズレトに言葉を吐き出してやりたかった。でも、その単語を私が知っているはずもなかった。吐き出せない思いは、胸の奥に深く沈み込む。少しばかりの同情の気持ちと。

 嘘かもしれない。本当は人の売り買いなんて日常的に行っているのかもしれない。でも、かつてあった日々の暖かさと銅貨六十枚が私に信じろと叫ぶ。

 信じても信じなくても、この人たちが私を売るのは決定事項だ。憎んだ方が楽だ。憎まなければならない人たちを信じるなんて、そんなのは馬鹿だけである。人を信じるなと教えてくれたのは、レーナたちだ。


「笛を吹け、コハル」


 気安く名前を呼ぶな。


「自分を、高く見せろ。高い値段で買った品物は、大切にされる。安く買った玩具は、すぐに壊される。笛を吹いて、自分の価値を見せつけろ」


 笛を吹けというのか。誰かに媚びて、高く買って貰うために。

 そんなみっともないことをしろというのか。嫌だと喉が叫びそうになる。でも、言えなかった。


「明日の朝、出発だ。あと、二日で街に着く。……すまない」


 アズレトは頭を下げた。

 この人は何て、卑怯な人なのだろう。


 木々の隙間がら太陽が姿を見せる。夜が明ける。

 私はもうすぐ売られることになる。


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