アネモネに思いを寄せて(3)
◆◆◆
広場の真ん中にはかがり火が煌めいている。子供たちは、その周りで駆け回っていた。やんちゃ坊主なんかは、得体の知れない何かを串に刺して炙っている。これ以上詳しく詮索するのはやめようと思った。
「コハル、これ」
ユリアが持ってきてくれたのは、白くて丸い何かが刺さった串である。さっき見た光景のせいで、少しばかりびっくりした。
「これ、何?」
「甘くて、おいしい」
渡されたそれを見ると、確かに焦げ目が程よくついていて、おいしそうだと思った。恐る恐る一口齧ると、外側はカリッと香ばしくて、中からはとろとろと果汁が溢れてくる。
「あれ、これって、ミリエリャ?」
「そう、ミリエリャ」
この食べ方をもう少し早く教えてくれればよかったのに、と思う。ミリエリャへの印象が変わってしまう程おいしいのだ。
皆思い思いに雑談をしたり笛や打楽器を持ち出したり、お祭りのようだ。
「ここ、いつも同じことの繰り返し、楽しいこと少ない、から」
ユリアはにこにこしていて、本当に楽しそうだった。
村人たちの赤毛が炎に照らされて燃えているよう。私だけ黒髪というのが寂しかった。そのとき、遠くで打楽器を持った一段が手を振るのが見えた。ユリアはすぐに立ち上がって私の手を引いて行く。私もなかなかに高揚していて、このお祭りを楽しんでいることを自覚する。
「コハル、笛、合わせて」
そう言うのは、マルカおばさんだ。おばさんも笛を吹くらしい。
「はい!」
楽器を持って輪になっている一同に私も座る。誰かが、太鼓を叩き出したのが合図だ。
リズムも旋律も溶け合って行く。私はこの曲なんて知らないけれど、共感点を探す内に違和感は消えていく。火花が飛ぶ。太鼓がリズムを刻む。笛は主旋律を描いていて、私はそれに沿うだけでいい。難しいことなんて、何もない。
誰かが歌いだした気がした。遠くで近くで、懐かしい歌声がする。火の熱さ、土の匂い、風の涼やかさ。
神様。八百万の神様はきっとここにだっているんじゃないかな。お祭りの熱気はどこでも、一緒だ。
「コハル、コハル」
気が付くと、ユリアが私に抱き着いて泣いていた。
「ユリア?」
ユリアは早口で何かを呟く。でも、残念ながら何と言っているのか聞き取れなかった。
「ユリア、分からないよ。ゆっくり」
「コハル、すごい。よく分からないけれど、すごい」
誰かに強い力で抱きしめられるのなんて、いつぶりだろう。笛を左手で持って、右手でユリアの背中をぽんぽんと叩く。
周りでは大人たちがその様子を見て苦笑していた。そして、彼女たちも何かしら興奮しているようで、何かを言い合っているけれどよく分からない。分かったことはなんだか皆が幸せそうであるということだけ。私の笛が皆を幸せな気分にしたのかもしれない。そう思うと嬉しくなった。
◆◆◆
「皆がもうすぐ帰って来るって!」
その知らせが飛び込んで来たのは、昼過ぎだった。レーナが嬉しそうに頬を赤らめている。雑草取りの手を引っ込めて、思わず立ち上がる。
「本当? じゃあ、今日はお祝い!」
「ええ、お祝い。ジェミヤンじいちゃんのセレエイ酒、出してこなくちゃ。コハルは、台所でお手伝いしてきて!」
いつもは落ち着いているレーナが妙にそわそわして、落ち着かない様子なのがおかしかった。
出稼ぎは決して、簡単なことでもなければ命の危険すらあるのだという。外部から出稼ぎの期間だけやってくる男たちなんて、体力勝負の単純労働しかまかされないのだ。しかも、男たちは故郷で待っている人々のためにいつも無茶をする。それをレーナは心配していた。愛しの旦那様が帰ってくるなんて、浮かれもするだろう。
「あ、コハル、ちょっと待って」
地下の食糧庫を漁ろうとしていたレーナが、私を呼び止めた。
「どうしたの?」
「渡したいものがあるの。今、思い出した」
そう言うと、タンスの一番下の棚から小さい巾着袋を取り出す。その中身を、机の上へと広げた。見たことはなかったけれど、その丸い形はどうみても貨幣だった。
「え、これ……?」
「ごめんね。もっと、持たせることが出来ればよかったんだけど。これが銅貨よ」
日本の十円玉より歪で、分厚い。それには、誰か人の絵が描いてあった。
「ダメ、レーナ、絶対、ダメ」
ここの暮らし向きがそんなにいいものではないなんてことはすぐに分かった。だからこそ、貰うことなんて出来ない。
「コハル、座って、聞いて」
レーナに言われるままに椅子に座る。でも、ここは私の椅子ではなくて、アズレトのもの。レーナと彼女の旦那さんの二人の家だ。
「コハルは、この世界のことを、何も知らない。だから、このまま放り出すことは出来ない」
小さい子供に話しかけるように、ゆっくりと単語を区切って話す。
「このまま、コハルに何かあったら嫌。コハルも、私に何かあったら、嫌。そうでしょ?」
一つ年下のはずなのに、レーナはとても大人だ。この世界の人々は誰だってたくましい。何をどうすればいいのか分からない自分が、とても情けなく思える。
「嫌だ。レーナが、私を助けてくれたように、私も助ける」
「それなら、今は、私がコハルを助ける番」
レーナの言葉に何も言い返せなくなる。
「全部で、銅貨が六十枚ある。十枚で、安宿に泊まれる。ご飯は、四枚くらい。アズレトには、秘密にしてね」
最後にレーナはお茶目に笑った。巾着袋の口を閉めて、首にかけてくれる。少しだけ重い。
「アズレトたちは、何日かは、ここにいる。それから、お別れね」
「レーナ……」
「寂しそうにしないで。まずは、ご飯、作らなくちゃ」
広場は人で溢れかえっていた。あのお祭りの日より何倍も騒がしい。お茶碗に酒を並々に注いで、何人もの男たちが野太い声を上げていた。ユリアとユリアの母、そして帰って来た父とともに、久しぶりの家族団らんを楽しんでいる。
「アズレト、彼女はコハル」
アズレトは、人の好い笑顔を浮かべる好青年だった。肌は日に焼けていて、程よくある筋肉は日々の仕事の過酷さを感じさせる。赤毛は後ろで一つに結んでいて、笑うたびに尻尾のように揺れた。
「コハルの黒髪は、とても綺麗だね」
こちらに来てからは灰で洗うだけだった。ぼさぼさの髪を適当に一つにまとめているだけ。急にそのことがとても恥ずかしく思えた。
「ありがとう、アズレト」
アズレトが長く話したが、私には聞き取れなかった。
「ごめんね、コハル。アズレトは、一緒に、セスチェールの街に行こう、って」
「ううん。……セスチェール、って?」
レーナがアズレトで何事かを話して、彼は申し訳なさそうにする。
「ごめん。ゆっくり、喋る。セスチェールは、国と国の境の街、エリシエ国と、アーセンスチア国。ここから、一番近い街」
「セスチェールは、海にも接していて、たくさんの品物が、取引されているところ。コハルも、何か分かるかもしれない」
それこそ、私は今から未知の海に航海へと乗り出すようなものだ。言葉も片言しか話せない。文化も分からない。仕事だって、のほほんと暮らしてきた私のような女子大生の細腕では、ろくなことが出来るものか。
「心配しないで、コハル。住み込みの仕事も、たくさんある。ゆっくり、少しずつ、探して、道を」
レーナが、珍しく束ねていない赤毛を揺らす。唇にはうっすらと紅が引かれていた。昔アズレトから貰ったのだという。毎日畑を耕して夫のいない日を寂しく思いながら、それでも楽しみを見出してレーナたちは生きていく。十年後も二十年後も変わらないのだろう。私はまだ、自分の行く道を探している途中だ。どうなるかも分からない森の中にいた私を、この人たちは助けてくれた。
「五日後、出発する」
アズレトは静かに言った。
そのアズレトの袖をレーナが引っ張る。
「でも、その前に、教会、三人で」
レーナは、以前私が異教の教会に行きたいと話したことを覚えていてくれたのだ。彼女は少し考え込んだあと、アズレトと私と三人で行きましょうと言ってくれた。本当は迷惑をかけたくないので一人で行くつもりだったのだが、それについては苦笑されてしまった。森の中を甘く見ないで、と言われたのを未だに覚えている。
二人は何かしら話し合ったあと、アズレトが口を開いた。
「分かった。畑は、他の人に。薬草も」
「ありがとう」
本当は出来れば行きたくない。
でも、この村を離れてしまえば、二度と行くことは出来ないかも知れないのだった。何かが分かるかもしれない。分からないにしても、行かないよりはましなはずだ。
その時、誰かが腕を引っ張ったので、振り返るとそこにはユリアがいた。
「レーナ、アズレト、これ食べて」
ユリアが差し出したのは、名前は分からないが、豚のような獣の肉の香草焼きだ。私が今朝摘んだ香草と塩を使って蒸し焼きにしたもので、肉の臭みもなくなかなか上手い。日本ほどの味の複雑さは出せないけれど、単純な料理ならではのおいしさだ。
「コハルは、こっち来て。お父さん、紹介する」
そのまま私を引っ張っていく。後ろを振り向くと、二人は苦笑しているように見えた。ユリアも意外と子供っぽいところがあるんだななんてひそかに思う。ユリアが小声で囁く。
「今日、レーナの家に、泊まれない。私の家、いいでしょ? お父さんがアズレトに言う」
先ほどまでの考えを訂正しなければいけない。
「お父さん、コハルだよ」
そこには、立派な髭を蓄えた大柄な人物がいた。縦幅も横幅もあって、なんとも大きい。
「コハル、ダニロヴィチだ。よろしく」
声も低くて、毛深くてまるで熊のような人物だと思った。でも、隣では小柄で病弱で儚げな印象のあるユリアのお母さんが微笑んでいて、ユリアもいつも以上に笑っていて、ここに幸せがあるのだと感じた。
ユリアが何事かを両親に語りかける。ダニロヴィチは娘に対して、うんうんと頷く様子を見せたあと、ユリアの頭を撫でた。
ユリアは少し拗ねたように髪の毛を直すのだけれど、少しばかりにやにやしていて微笑ましい。
「コハル、この何日かは家に」
その短い一言で、ユリアが先ほどの提案を父に言ったのだと分かった。
「ありがとうございます」
あの日から、人の好意にお世話になってばかりいる。