かみさま(3)
ごはんを食べる気になんてなれなかった。
ベッドの上で膝を抱え込む。久しぶりの一人だった。今まではリコやソフィがいて、なんだかんだと騒がしかった。そして、とっても楽しくて、もう少しの間はこのままでいいんじゃないかな、なんて思っていた。
変化は怖い。何かを選んだのならば、それは別の何かを捨てるということだ。でも、選ばなくても穏やかに生きて行く道はどこにもなかったらしい。
「竜笛があればよかったのに」
石壁に頭を預ける。硬くて冷たい。音楽に紛れていられれば、寂しさなんてどこかへ消えて行くのだ。でも、竜笛はここにない。クラエスが帰って来ても、もう竜笛はどこにもない。
「神様、助けてよ」
揺蕩う旋律はちっとも変わらない。ゆったりと低めの音程で、一定の音を奏でている。まるで穏やかに凪いでいる大海のような。頼りない小舟でもどこまでも行ける。
「けち」
歌を歌えばいくらでも応えてくれるのに、そうじゃなければ見向きもしないなんてけちに決まっている。
歌いたくないのだ。でも、歌いたい。相反する気持ちはとても奇妙なようでいて、極めて自然だった。
旋律を自分の中だけに閉じ込めていると、ふとした瞬間に爆発しそうになる。この音楽を外の世界に伝えなければいけないと神様が囁く。でも、竜笛はもうなくて、歌を歌えば旋律以外の物まで出てきてしまう。
「損な役回りだよなあ。お母さん、おばあちゃん教えてよ。何のために、この音はあるの。何で私だけに聞こえるの。……何で教えてくれなかったのさ」
自分の声が石壁に反響した。それだけのはずだった。
「あれ……?」
耳を澄ますと、いつの間にか旋律と違う響きが混ざっていることに気づく。旋律よりいくらか高くて、でもそれよりも微かな音。それは意志を持って奏でられていた。
神様だ。
神様が今までよりもずっと身近におられる。根拠はないけれど、そうだとしか思えなかった。今までこんなことはなくて、この音は自分だけのものだった。
もし、他にこの音を共有してくれる者がいるのならば、それはきっと、神様。
どうしようもない程に抗えない。自分にしか聞こえない歌に応えたかった。心地よい旋律は全てを忘れさせてしまう。歌いたくないという気持ちとか、シルヴィエの信頼も。
旋律と神様の歌に、自分の声を合わせて行く。高めの音がメロディとなって、二つを先導する。行くべき道のりがかすかに見えた。
迷いなんて少しもない。私の意志はすなわち神様の意志だ。言うとおりにするだけ。
テンポが速くなる。凪いでいた海に波が表れ始める。大きく揺らいで、激しく激しく小舟を翻弄する。そして、大海に泳ぐ一枚の木の葉はその姿を消してしまう。
石壁は既にどこにもなかった。波が大きく激しくなるごとに、黒い穴がとぐろを巻いて大きくなって行く。風が吹いた。お盆が床に落ちる。
黒いそれに手を伸ばした。怖いはずもない。向こうには神様がいるのだから。
手が吸い込まれたと思ったら、もう何も見えなくなってしまった。
それでも、目を閉じることはしたくなかった。暗闇の向こうに僅かに光が見える。二、三歩、歩く。待ちきれなかった。走り始める。神様に会いたい。
唐突に暗闇を抜けた。向こう側はさっきまでの石壁の部屋と何も変わらない。むしろあっちより環境が悪いくらいだ。なんだかじめじめしている。しかも暗い。
「誰だ?」
壁のそばから声が聞こえた。程よい位に低い、先ほどと同じ声。
「ずっと歌を、歌っていたでしょう?」
声の方を向く。一人の青年がいた。はっと息を呑む。異質だと思った。人間がこのような色を持てるはずがない。クラエスよりもずっと鮮やかで、僅かに光を放っているようにすら見えてしまう。太陽の色とも宝石の色とも例えることが出来ない、金の瞳。
「歌なんか歌ってないよ」
「かみさま」
神様なのだ。それ以外ではありえない。私と同じ黒髪。だけれど、あまりにも違い過ぎる金の瞳。
「かみさま……? わ、泣くなよな」
そう言われて、自分がぽろぽろと涙を零していることに気が付いた。神様が立ち上がって、私に近づく。その手が涙で濡れる頬に伸びた。
その瞬間、音の奔流が私を押し流しそうな程に溢れる。
「神様! 私家に帰りたいの。帰らせてよ! 私は何でこんなところに来てしまったの? 帰りたい……もう辛いのに、何で帰れないの? 私が何をしたって言うの?」
神様の手は温かかった。今まで溜まっていたものが全部あふれ出す。涙があふれて、声も全部あふれ出してしまって、みっともないのは分かっているのに、止められそうにもない。
「助けて、助けて!」
神様の腕が私の背中に回る。
「辛かったな」
いつの間にか私は温かい腕の中にいた。自分よりも硬くて逞しい体。思わず体をまかせてしまう。頼ってもいいのだ。誰も頼っちゃだめだと思っていたけれど、神様になら頼っていいはずだ。今までたくさん神様にお祈りしてきたけれど、一度も本当に現れたことはなかった。でも、今度は違う。
「家に帰りたいのか? どこにあるんだ?」
「帰りたい。でも、どこにあるか分からない。どうやって帰ればいいのかも分からない」
迷子の子どもみたいにしゃくりあげる。
「それは困ったな……」
「でも、ここにはいたくないの。こんなお城、大嫌い。ずっと、閉じ込められていなくちゃいけないのかな。私どうなっちゃうのかな」
「閉じ込められていたのか」
「だって、私、変な力持っているから。よく分かんないんだもの。誰も教えてくれなかったのに、何でこんなことになるの? でも、神様、けちって言ってごめんね。神様、けちじゃなかったよ」
「はいはい」
爽やかに笑う。思わず、その表情を見上げてしまった。すると、奇妙なことに黒髪の一部が金の色に染まっていることに気が付いた。淡い光を放っている。
「それなら、とっととここから出てしまおうか」
神様がかっと目を見開いた。どこからか風が吹いてくる。それは毛先だけが金色の髪と私の短い髪までまとめて吹き上げる。旋律が一際強くなった。頭の中をかきまぜられているよう。
「ごめんな」
その言葉と一緒に激しい音を立てて、目の前の石壁が崩れ落ちた。それなのに、がれきや砂ぼこりというものはちっともやってこない。まるでハリウッド映画を見ているようだと思った。目の前で起こっていることなのに、まるで現実感がない。
「すごい」
「これで、どこにでも行ける」
「どこにでも……」
確かにそうだ。日本以外の場所ならどこだって行けるのだ。鎖も壁もない。でも、行けるようなところなんで一つたりとも思いつけないのだった。
「神様、お願い。ずっと一緒にいて」
これからの未来から目を背けるように、神様の胸に顔を埋める。神様は偉大なのだから、何を頼ってもいいはずだ。
「そういうわけには行かないな。化け物には牢屋に戻ってもらおうか」
知らない人の声だ。消え去った石壁の向こうを見る。
そこには金の髪をした青年や、他にもたくさんの人がいた。剣がいくつもこちらに向いている。また魔術師のような人も何人もいた。でも、その中に一人だけこの空間には全く似合わない女の人が混ざっていた。ああ、この人は誰だっけ。知っているような気がする。でも、思い出せない。
「本当に、誰だ?」
神様が首を傾げる。ちょっとだけ恥ずかしくなってしまって、腕の中から離れた。でも、手は繋いだままだ。
「封印を施していたはずなのにな。そこの女のせいなのか?」
「さあ。俺にもよく事情は分からんけどな。でも、ともかくにもまた牢屋に戻る気はねーよ」
私と同じように閉じ込められていたのだ。湿っぽくてカビ臭いこの部屋に。そう思うと一気に、怒りの感情がこみ上げて来る。憎い。自分たちの事情だけで、他の人をひどい目に合わせるこの人たちが憎い。
小さい声で歌を歌う。この人たちなんて、消え去ってしまえばどんなにいいだろう。
「おっと、それは辞めてくれ。一応、これでも俺の子孫らしいからな」
神様に口を覆われる。神様がそう言うのなら、そうすべきかもしれない。満ちていた音が氷解していく。
「化け物でも何でもいいけど、その人数で俺に適うと思うか?」
面白がっているような声色だ。それはそうだ。人間が適う相手であるはずがない。
「聖女まで連れて来て、再び封印でもするつもりだったんだろうけれど、今は無理だろうな。なんせここには俺の魔力が満ちている」
急に眠気がやってきた。立っていられなくなる。もうどんな会話をしているのかさえ、ところどころにしか聞こえない。大切な話ではあると思うのだけれど。
「なあ、ここは丁重におもてなしをするべきだと思わないか?」
その言葉だけはかろうじて聞き取れた。眠りの淵に落ちて行く。なんだか、とても疲れた。