かみさま(2)
クラエスにも同じ様なことを言われた。あれはまだ出会ったばかりの頃だ。そのときには答えることが出来なかった。そして、今もまた答えられない。
力なく首を左右に振る。どうすれば知ることが出来るのだろう。一番知りたいのは、私なのに。
「姫様がお尋ねになっているのだぞ。答えろ!」
「あ、エトガル!」
シルヴィエが焦ったような声を出す。今更焦られても、貴族様か姫様かぐらいは思っていたんだから意味がない。確かに思っていたよりはもう少し身分が高そうではあるのだけれど。
「ええと、ひめさま? シルヴィエが?」
我ながら白々しい。一応驚いてみせる。知っていたということにすると、何か紛らわしいことになるかもしれないし。
エトガルと呼ばれた男は苦虫を噛み潰したような表情をした。シルヴィエはこれ以上なく上品にため息を吐く。
「仕方ないです。エトガルってば、いつも気をつけてって言っているのに」
シルヴィエが砕けた物言いをした。それだけ騎士には心を許しているということなのかもしれない。
「すみません……で、でも、いつかは分かったことですから! 女、こちらのお方は王族に属する方だ。身分を弁えろ」
「王族の、傍系です。権力なんてそんなものほとんどないのですから。あったら、この間のようなことになんてならなかったのに。いつだって、わたくしには何もできない」
金色の瞳に陰が差す。あんなことさえなければ、私は今ここにはいなかったのに。
「シルヴィエ、私は何をしたの? これから、どうなるの?」
シルヴィエとエトガルが目を見合わせる。
「お前は姫様を殺すところだったんだぞ。本来ならば死刑に値する。姫様に感謝するんだな」
「殺す?」
「あのとき……どこかから魔物が現れました」
シルヴィエは、殺すという言葉を否定しない。それ自体が何かがあったことを表しているようで、胸の内が痛い。でも、魔物なんて本当に現れたのだろうか。あのとき、来てくれたのは違うような気がする。そんな恐ろしげな物ではなくて、もっと慕わしい者。
「魔物じゃない、神様だ」
シルヴィエがはっと息を呑む。
「そうです。コハルは魔物を神様と読んでいました。でも、女神様があのような使徒を遣わすはずがありません。……狼たちは、あの男を噛み殺したのですから! なんて汚らわしい」
シルヴィエが言葉を荒げる。嫌悪感に表情を歪ませながら。
でも、私の心は何も動かなかった。
あの男は死んだらしい。しかも、私の歌のせいで死んでしまったというのか。全く実感が湧かない。まるで自分のしたことではないように思える。人を一人殺した。日本で大学生として平和に生きて来た、北宮小春が人を殺した。
死んで当然なんて思わないけれど、それよりも、どうでもいいことのように思える。
私はどうしてしまったんだろう。
「女神様……?」
「太陽神と月の双子神以外がこの世界におられるものか。それとも、お前は今も辺境に住まうという異教を信じる者なのか」
エトガルは嫌な目つきでこちらを睨む。シルヴィエに視線を向けても、あちらが目を合わせてくれない。
異教と言えば異教というか、神社は神道ですけれども。でも、別に女神様を否定する気はないし、神様は何人いたっていいと思う。だいたい世界が違うのだから宗教も違うに決まっている。
「異教徒じゃないよ」
どこか弱々しい声になってしまう。嘘を吐くのは得意じゃない。神社の娘のくせに、宗教とか信仰とかそういうのは苦手だ。もっと自由でいいのにと思う。
「ならば、何故魔物を神と呼ぶ。あれは神ではない」
私には神様だと思えた。だからそう言ったはずなのだ。今となっては曖昧にしか思い出せないけれど、それでも、この感覚を他の人に押し付けられたくはない。何が神か誰が神か、同じように考える必要はどこにもないだろう。だけれど、ここでその通りですと答えた方がいいと私の理性が言っている。
石が全ての音を吸い込んでしまったかのような沈黙が訪れた。二人には聞こえない僅かな旋律だけは途絶えることなく続いている。神様はこんなにも近くにいるというのに。
答えたくない。答えなければならない。
「ごめんなさい。本当はこのようなことを言いに来たわけではないのです」
シルヴィエが口を開く。ぐるぐる回っていた思考が動きを止めた。助け舟を出してくれたのだ。ほっとしたけれど、表情には出さないように気を付ける。
「じゃあ、何で来たの?」
「食事を持ってきただけなのです。お腹が空いているでしょう?」
それだけのはずがない。つい口を開いてしまう。薄々分かっている。
「クラエスに、つまり、お兄様から様子を見に来るように言われて?」
もはや間違うはずがないのだった。金の髪に金の瞳。そして、あそこに現れたクラエス。彼が死んでいなくて、本当にあの場に現れたのだとするのならば。
シルヴィエがふわりと微笑む。柔らかく、優しく、本当に天使のようにかわいい。または、聖女のようにと言えばいいのか。
「お兄様からコハルとの道のりを聞きました」
「クラエス、生きていたんだ……」
あんなことをしたのは私なのに、ほっとしている自分がいる。まだ良心というものがあったらしい。それとも、自分が殺人をしていなかったことに安心したのか。何もかもが今更だけど。
「はい、生きていました」
クラエスはどこまで話したのだろう。シルヴィエの笑みを見ながら思う。穏やかとは言えない旅路だった。なんというか、特に別れる直前は。
「……怒らないの?」
「いろんなことがあり過ぎて、もうそれどころではなくなってしまいました。無事ならもうそれでいいのです」
シルヴィエはそれだけ言うと、私の背後に回る。ドレスの帯の間から取り出したのは、まさかの短剣である。
「じっとしていてくださいね」
「ええ?」
その鋭そうな刃で、私の両手を結んでいた縄に切り込む。思わずエトガルの様子を伺ってしまった。そして、睨まれる。予定になかった行動なんだろう。
自由になった左手の手首を見ると、見事に縄の跡で赤く染まっている。一体どれだけ長く縛られていたのかも分からない。
「でも、いいの?」
「いいんです。わたくしはコハルを信じていますから」
信じるとは難しいことなのだとこの旅で知った。また、はっきりとした理由がなくても信頼を示してくれる人がいることを知った。私はこの言葉をこの通りに受け取りたい。誰かを信じてしまいたい。
「だから、知っていることを教えてください。何でも、どんな些細なことでも。もう取り乱しません」
「シルヴィエは何の為に知りたいの? 私を利用するの?」
「……利用するかもしれません。しないかもしれません。どうしようもないけれど、どうにかしなくてはいけない事情があります。でも、コハルを悪いようにはしません」
「その事情って?」
「今はまだお話することが出来ません。信じて下さい、としか言えないのです」
「そんなの、詐欺師の手口だ」
鯉口を切る音がした。視線がエトガルに集まる。銀に輝く刃の色が見えた。
「姫様は甘い」
「今度は脅しということ?」
剣は苦手だ。表情が強張って行くのが分かる。
「やめて! エトガル、その剣をしまいなさい」
エトガルはシルヴィエを見ない。
「お前が歌を歌おうとしても、その前に左手を切り落とすことぐらい出来るさ」
「やめなさい、エトガル!」
「姫様は甘い。そのようでは、どんなことも成し遂げることは出来ませんよ」
エトガルの視線は私に向かったままだ。喉が動くその一瞬まで見て取ろうとしているかのように思える。
「……お兄様は、エトガルのその行動を望んではいない。脅したって、コハルは更に心を閉ざすだけよ。それが分からないの?」
お兄様という言葉に、エトガルはにわかに反応した。
「姫様の言う通りかもしれませんね」
少しの間逡巡してから、結局剣を鞘に戻す。さっきまでの強情ぶりが嘘のようだ。かちりという音をきっかけにして、高まっていた緊張感が静まった。
「コハル。先ほど、わたくしに権力などほとんどないと言いました。守護騎士ですら、わたくし自身の命令の元に動いているわけではないのですよ。お兄様の影響力はとても大きい。そんなこと、知っているのです」
エトガルはクラエスの命令の元に動いているのだ。シルヴィエを危険なことから遠ざけるためなのだと思う。しかし、それはシルヴィエを信頼していないという意味でもある。彼女はクラエスの仲間ではない。守られるだけのか弱いお姫様なのだ。
エトガルは何も言わない。事実であることを否定する必要もないのだろう。
「わたくしには利用されるだけの価値もない。少しだけ、コハルが羨ましい。こんなことを言うと、コハルは怒ってしまうでしょうか」
私は静かに首を振った。
私とシルヴィエは立場があまりにも違う。持っている力も何もかも。それでも、どこか似通っている部分があるのだと思った。でも、違う部分もある。
シルヴィエは信じることを諦めていない。何度裏切られても、信頼に答えてくれることがなくても、相手を信じて、自分の行動に意味があることを信じている。
「わたくしたち、今日は帰ります。また、来ますね」
「うん。また」
もっとシルヴィエと話してみたいと思った。
二人は石の扉を開けて、向こう側に帰って行く。部屋の中には冷めてしまったご飯と私だけが残された。