かみさま(1)
「んー! んーんー!」
どうしようもない状況には慣れている。でも、それにしたって少しぐらい休憩をくれたっていいと思うんだ。
変な人たちに捕まって、それで助かったと思ったら、次はこれだ。手を後ろに結ばれて、更に口にはさるぐつわを噛まされている。
もしかしなくても助かってなんかいなくて、更にわけの分からないことになっているのかもしれない。
歌を歌ったのだと思う。でも、そのときの記憶があまりにも曖昧だった。何でも出来るような気分になっていたのは覚えている。でも、その他のこと、例えばシルヴィエがどうなったとか、にやにや笑うあの男がどうなったとかはあまり覚えていない。
だけれど、記憶が途切れるその前にクラエスに会ったのは間違いないはずだ。
誰かが私に状況説明してくれればいいのだけれど、残念ながらここには私しかいない。
石の扉はあまりにも堅固だった。隙間からかび臭い空気は流れ込んで来るのに、その向こうに人がいるとかそんな気配は全くもって分からない。
扉に肩を押し付けてみる。ひんやりと冷たい。ぎゅうと少しずつ力を込める。実は鍵がかけられてなくて、開いたりしないかななんて希望を込めて。しかし、そんなはずはもちろんなくて、石の扉は動かない。
距離を開けて、思いっきり体をぶつけてみようか。一歩後ろに下がる。でも、石に肩をぶつけるなんて絶対に痛いに違いないから、結局のところ試そうとしただけで終わってしまった。壁に背中を預けてずるずると座り込む。
こちらに来てから、いや、ずっと私の人生、流されっぱなしだ。どうしようもないと嘆いて、行きたくない方向へと流されていく。それは私が本気で抵抗をしていないからなのかもしれないと思う。
どんな状況でも頑張れる人はいる。でも、私は頑張れない。そういう質なんだ。結局現実はどうしようもない程に壁がそびえ立っている。
部屋の中には一つのベッドと一揃えの机と椅子がある。そんなに質素な出来というわけではなくて、ベッドはふかふかでシーツも真っ白だ。物入れもあるし、更に言うと灯りがあるのだ。これは魔術なのだろう。炎の光のようにゆらゆらと揺れているわけではなくて、蛍光灯と同じように安定している。
でも、それだけなのだ。部屋には少しの窓もない。今が朝なのか夜なのかすら分からないのだった。
奥の部屋というか、石壁に隔てられた向こうには、大きな水瓶と備蓄食料もある。とても屈辱的ではあるけれど、トイレ代わりの壺もあるし、生きていける準備はある。このさるぐつわさえなければ! 話すことどころか水でさえ飲めないじゃないか。
そして、部屋を囲む石壁は綺麗な程に組み込まれている。石と石との間に爪がかすかに入り込むだけ。取り外すなんてことは出来ない。
どこかの牢屋だろうか。だとすると、私は何で放り込まれたんだ。男が今までの方針を変えたとか。まさかお城の人にシルヴィエの誘拐犯と勘違いされてここに入れられたなんていうことは……。嫌な想像ばかりが駆け巡る。
このまま放置されることはないとは思うけれど、誰かが来てくれたとして、私はどうなるんだろう。
ため息を吐きたい気分だ。
シルヴィエはどうなったのだっけ。所詮は他人事なので、そんなに心配はしていない。少しばかりむなしい気分にもなるのだけれど、こんな状況で他の人の心配が出来る程お人よしではない。
助けて、って言えなくて逆によかったのかな。誰に助けてと言えばいいのだろう。今更クラエスを呼ぶことも誰を呼ぶことも出来ない。私は誰も大切に思うことなんて出来ないから、私を大切に思ってくれる人だっていないんだろう。
心が枯れて行く。
日本にいたときはそれなりに友達もいて、彼氏も人並みにいて、何かがあったら手伝っていた。手伝われてもいた。それは、心に余裕があったからだ。
私は永遠にエリエさんにはなれない。心の中の暗い部分がこんなにも簡単に姿を現すんだもの。
冷たい床から立ち上がって、ベッドに思いっきり体を投げ出す。ふかふかだから怪我なんてしないのだ。リコたちと一緒に暮らしていたときより、よっぽどいい環境である。だって、あそこのベッドは木の板みたいに硬かったんだもの。
時間が過ぎるに連れて、焦りの気持ちが解けて行く。どうしようもなくて、そして温かいベッドもあって、そして疲れてだっているんだもの。だけれど、その途端にお腹の痛みがぶり返して来た。そういえば、殴られたり刺されたり散々なことをされたのだっけ。目を覚ましたらすぐにこんなことになっているもんだから、痛みもどこかに吹っ飛んでいってしまったのだ。
うつ伏せになっていると痣になっているだろうお腹が痛くて、向きを変える。仰向けになったら、その途端刺された傷が痛くなった。横向きになることで、どうにか落ち着く。このまま一眠りしてしまおうか。出来ることなら水を飲みたいけれど、それは出来ないかな。
机の四足が、優雅な曲線を描いているのが見えた。こういう形は猫足という名前だったはず。実家ではこたつ族だったので、西洋的な家具には縁がない。高そうだなと思う。牢屋っぽいのに何でこんなに高そうな家具が使われているんだろう。でも、どんなに高そうでもこれよりこたつが一つあるだけで私は幸せになれるのにな。ああ、でもみかんも欲しい。
そのとき、ぎいと低く重たい音が部屋に響いた。
私が起きてから、初めて聞いた音だ。ベッドから飛び起きる。背中の傷が引きつれて痛んだけれど、それでさえ気にならない。
重たい扉がゆっくりと開く。ああ、心臓が飛び出してきそう。
扉の隙間から滑り込んできたのは、騎士然とした男と、シルヴィエだった。
驚き過ぎて言葉も出ない。どういうことなのか。シルヴィエも囚われているのか。でも、申し訳なさそうな表情をしている彼女が囚われているようには見えない。
騎士のような男はどちらかというとシルヴィエを気遣っているようだし、まるでお姫様とそれに付き従う騎士のような……。でも、何故かシルヴィエは食事を乗せたお盆を持っている。
「アイナ、いいえ。コハル。ごめんなさい」
言葉も出ない。何故私の名前を知っているのだろうか。
「歌を歌わないと約束して下さい。そうでないとそれを外すことは出来ません」
よく分からないけれど、とりあえず首を縦に一生懸命振っておく。
「シルヴィエさま。口約束だけでは危険です。私に剣を抜く許可を下さい」
「だめだと言ったでしょう。どんな立場になったとしても、コハルは私の友達なのです」
「本当の名前ですら、あなた様に告げなかった者ですよ」
「そんなことは、どうでもいいことなのです」
シルヴィエは軽く首を左右に振る。お盆を机の上に置く。騎士は鞘に手をかけていつでも剣を抜くことの出来る体制だ。そんな彼を制して、シルヴィエが私に近づく。
その手が私の方へ伸びて、思わず目を瞑る。
「本当にごめんなさい。怖がらないでくれるとうれしいです」
それだけを言うと、頭の後ろで結ばれていたさるぐつわの結び目を解く。口の中はすっきりしたけれど、顎の骨の違和感が取れない。
「み、水を……」
「はい」
シルヴィエがコップを取ってくれる。それを見た途端に欲しくてたまらなくなってしまった。シルヴィエが傾けてくれるのに従って、ごくごくと一気に飲む。ほのかに柑橘類の爽やかな香りがした。
「食事も持ってきました。食べられますか?」
「そんなことより、これはどういうことなの? あのあと、何があったの? 何で、私は閉じ込められているの?」
知りたいことが次々と口を次いで出てくる。
シルヴィエは苦しそうに眉間に皺を作った。ああ、誰かに似ている。
「コハルは、あの日のことを覚えていないのです?」
そこを聞かれて、ぐっと言葉に詰まる。完全に覚えていないわけではない。
私は歌を歌ったのだ。でも、それを説明したくない。シルヴィエは何もかもを知っているのだと思う。だって、さっき歌のことについて言っていたのだから。かと言って、躊躇いが消えるわけじゃない。
「歌を歌っていました。覚えていないのです?」
念押しのような確認のような。シルヴィエらしくない強い語調だ。
「………歌を歌ったことは覚えている。でも、そのあとのことはあまり覚えていない」
前に歌ったときより強い力が働いた気がする。自分が自分ではなくなってしまったかのような、そんな気分だ。
「異国のような歌でしたが、どこか懐かしい気もしました。聞いたこともない程に美しくて、神々しい旋律でした。恐ろしいくらいに」
シルヴィエが言葉を切る。鞘が鳴る。
「コハル、あなたは何者なのです?」