クラエスの面影(5)
腰にある傷がいやに疼く。でも、そんなことを考えている暇はあまりなくてすぐにまた男が帰って来た。にやにや笑いは相変わらずである。手元にはランタンを持ち、揺らめく炎が小屋を照らし出す。いろんなものの影が揺らめいては形を変え、同じ形でとどまっているものは一つもない。その中に一つぐらいお化けが混じっていても気づくことなんて到底無理そうだ。
「さあ、お姫さん、口を割る気にはなったかい?」
「教えて差し上げましょうか?」
「お? 教えてもらおうじゃねえか。もったいぶってんじゃねえぞ」
奇妙な沈黙が続く。シルヴィエは口を開かない。男は苛ついて、近くにあった何かを蹴った。派手な音がして後、硬いものが転がって行く音が響く。その音以外は全てが沈黙していた。たっぷりと間を置いて少女は口を開く。
「お兄様が、もう王都の中にいると言ったらどうします?」
そんなシルヴィエの言葉を聞いた途端、男の表情が固まった。
でも、シルヴィエには見えていない。男が焦っている様子をシルヴィエに伝えられたら。
「もう笑わないの? それとも、焦っている?」
男が舌打ちをして、私のお腹へと蹴りを入れた。頭の奥底で鐘を鳴らしたような音が鳴る。
「黙ってろ! 女!」
饐えた匂いの何かが腹の底から湧きあがる。苦しい。私ばっかり何でこんな目に合うんだろう。シルヴィエは安全で何もされていないままなのに。
「ごほっ……うぇ……」
「アイナ!」
腹が燃えるように痛い。どこへと吐き出すことも出来ずに、汚物は私の服の上に垂れ流されるだけ。シルヴィエには伝えられた。でも、痛いのは嫌いだ。何でこんな目に合わなければいけないのか。すぐに何もかも無くしてしまった方が楽なのではないか。
「お姫さんよ、さっさと本当のことを言え!」
「焦らないで下さい。そんなことをすると、わたくしは何も言わなくなってしまうかもしれませんよ」
「これでもか!」
男の蹴りがもう何発か入る。その度に何度も何度も大きな音の波がやってきた。鐘の音だ。これは私の意志なのか、それとも音の意志なのか。分からない。旋律がとても近くなっていて、ふとするとまた意識を浚われそうになってしまう。何で私はこの流れに抵抗しようとしているのだろうか。
視界がくすんで目の前がはっきり見えない。生理的な涙だ。怖いからじゃない。痛くて反射的に泣いてしまっているからであって、そういうことにしておきたい。二人の声だけをなんとか追う。意識が薄れて行ってはダメだ。何が起こっているのか分からないという前に、私自身が何を仕出かすか分からない。
「お兄様を見失ったのでしょう? しかも、王都からそう遠くないところで。だから、こんな強硬手段に出た。私の言っていること、間違っています?」
「さあな。俺はただの下っ端だから、詳しいことは知らないのさ」
男がもう一度私を蹴る。しかも、腹だ。女の腹を何だと思っているんだ。ここから子どもが生まれるんだぞ。私は何を言っているのだろう。どうでもいいことだ。
「今更わたくしのお友達を傷つけても意味はありませんよ」
「さあな?」
でも、男は蹴らなかった。男の顔を睨み付ける。ああ、この顔が恐怖に歪むのを見てみたい。私と同じように痛みを抱えて、痛みを怖がっているところを。そしたら、きっと気持ちいいに違いない。
「それに、おそらくわたくしから聞き出す意味もないのではないかしら」
「どういう意味だ?」
「あなたたちが今一番しなくてはいけないのは、私からお兄様の居場所を聞き出すのではなく、お兄様が王宮に入った場合の対策を考えることではなくて?」
「どういうことだ!」
男が懐からあの短剣を取り出した。
「本当のことを言え」
「あら、わたくしが本当のことを言っていると確かめる手段はどこにあるのかしら? あったとしても、あなたにはきちんと伝えられているの?」
男の持つ短剣が炎の光を反射した。沈黙したままの男は、短剣を私の首に突き付ける。
冷たい。硬い。怖い。怖い怖い怖い。痛いのか痛くないのか刺されているのか刺されていないのか。でも、この男はまだ私を殺すつもりはないはずだ。利用価値がある。
剣の冷たさが下に下って行く。素肌がさらされる感覚。
だから、そんなはずは。
かすかに漂う波が、ふわりと大きく広がった。音が私を求めている。
「ん? 何を歌っていやがるんだ?」
私の決意とか迷いとか、そんなものを旋律は浚って行った。必要のないものだから。
「アイナ?」
自分がかすかに微笑んでいるのが分かる。身分とか力とか強大で抗えない何かを越えて行く気持ちよさ。所詮人間社会の仕組みでしかない。
神様には関係がない。
「アイナ、答えて下さい」
「くっそ、手が動かねえ!? どういうことだ!」
私の奏でる旋律に空気が変わって行くのが分かる。渦巻いてとぐろを巻き、違う世界の扉が開く。
「あれは何ですの……?」
「お前は魔法を使っているのか! おい、その歌をやめろ!」
「怖いです。アイナ、お願い。止めて下さい!」
音の奔流に身をまかせると自分まで神様になったかのような気分になる。神様の力を私だけが行使することが出来る。
「ごめんね」
音はこの世界にあふれていた。歌という形で呼び出された旋律は、形を作り、私が歌うことを辞めても消えることはない。私の世界だ。いつも聞いていた音が他の人にも聞こえている。
炎が音に揺れた。少しずつその大きさを増して行く。開かれた扉から不自然な風が吹いているのだ。生温かく、この場とは違う匂いを運んできている。それは少しばかり鉄臭い。
「綺麗な音、でしょ?」
「この化け物め!」
男が私に向かって短剣を突き刺そうとする。そんなことはとても無駄なことなのに。風が躍って、短剣を奪い取った。
「何だこれは!?」
「神様の旋律だよ。皆にも伝えなくちゃ」
ふとこの旋律は何を伝えようとしているのだろうかと思った。
お母さんなら知っていたかもしれないけど、もう聞くことなんて出来ないのだし。それに、私に出来ることが何かあるとも思えない。
何かが扉へと近づいて来る。私にとってとても近しいものだ。この男と、シルヴィエにとってはそうではないかもしれないけれど。
渦巻く扉から、黒い毛に覆われた何かが出て来た。はあはあと吐息が絶えず聞こえる。あれは、狼だ。なんて気高い毛並なんだろう。漆黒の色を帯びているのに、銀色の輝きを微かに湛えている。しかも一頭ではなく、何頭もそのあとに続いている。
「来てくれたの?」
先頭にいる一番大柄の狼はどこへも見向きをせず、私の縄を歯でほどいてくれた。甘えるようにその身を押し付けてくる。とても温かい。このまま狼たちとここじゃないどこかへと行ってしまいたい。
「大好きだよ。さあ、どうしよう?」
小屋の中を見渡すと怯えて震えるシルヴィエがいた。男はこちらを睨み付けている。二人ともただの人間だ。
「お腹、空いているよね?」
人間が何かを喚いている。でも、何を言っているのかよく分からない。
「全部食べちゃっていいよ」
狼がまずは男の方に噛みついた。大きな叫びと血の匂いが辺りに充満する。狩りが行われているのであって、とても自然なことだ。
女にもじりじりと別の狼がにじり寄っていた。隣にいる狼が私の頬をぺろりと舐める。ここで何もかもを綺麗に消し去ったら、他のどこかに行こう。それでいい。
「やめろ!」
聞き覚えのある声が、小屋の扉が壊れる音と一緒に飛び込んで来た。
炎に照らされた金の色。
「お兄様!」
「やめろ、と言っている!」
長剣が意志を持って私の喉へと伸びる。何かの咀嚼する音が遠くなった。狼の温もりも。
「クラエスなの……?」