クラエスの面影(4)
縄が手首に食い込む。シルヴィエの手と一緒に結ばれてしまった左手はちっとも動きそうにない。何の役にも立たない右手ばかりが自由というのはなんと言う皮肉だろう。
男に遭遇してから、今までの記憶がない。気を失っていたようだ。干し草の香りが辺りに漂っている。干した布団と同じ香り。ちくちくと手や足に当たるこれは草だろうし、おそらく倉庫か何かなのだろうと思う。
「ここは……」
背後で、もぞもぞとシルヴィエが動く。背中合わせに結ばれているから、シルヴィエの様子がちっとも分からない。
笑えてくる程に頭の中は冷静だ。剣を突きつけられていた瞬間はあんなにも取り乱していたのに。
何度も死にそうな目にあってきたけれど、私は生き延びて来た。嫌なことに怖いことは山のようにあったけれど、それでも生きて今ここにいる。だから、ここも何をしてでも生き延びてやる。私は私の命以上に大切なものは持っていないのだから。
「あ! アイナ、先ほどの怪我は……」
「全然大丈夫。さっきは取り乱してしまって、ごめんね」
「そんなことを言わないで下さい。全てはわたくしのせいなのです」
落ち込んだ声が倉庫に響く。外には見張りもいるだろう。私たちが目を覚ましたことには気が付いているはずだ。どういう会話をすればいい。相手を油断させなければ、私たちに勝ち目なんて生まれない。
そのとき、シルヴィエが小声で私に囁きかけた。どうやら相手に聞こえないようにと同じことを考えていたようだ。
「アイナは目隠しされていますか?」
「されていないけど……」
「それはまずいです。私は目隠しをされていて、アイナはされていない。もしかしたら、あの方たちは。なんてことをっ」
シルヴィエの声が一気に感情的になる。言葉を言い切らないからこそ、逆に不安が増す。
「シルヴィエ?」
「落ち着いて、聞いて下さい」
「大丈夫。もう取り乱さない」
「あの方たちは、アイナを生きて返すつもりがないのかもしれません。顔を見せるとは、そういうことです」
唇を噛んでいるシルヴィエの様子が手に取るように分かる。シルヴィエさえ生きていればいいということなのだ。私が何も知るはずないのだと、そう思っている。事実何も知らないのだけれど。
「わたくしには後ろ盾がない……。何かあっても、握りつぶせると言うのですか
思わず漏れたというような風情で、シルヴィエは呟いた。この王宮にはシルヴィエにとって、安全とは言い難いらしい。もしかしたら、クラエスも自分の命を守るために、変装してここから飛び出したのだろうか。でも、それだと何故また王宮を目指したのか分からないわけであるけれど。
「でも、アイナはわたくしが守ります。だから、……心配しないで下さい」
先ほどの不安感たっぷりの声とは違って、自信を込めた風に言う。ただ「安心して」と言うのではなくて、「心配しないで」と言ってしまうところに、不安が現れているのかもしれない。だいたい私をどうやって守るというのだろう。少しの根拠もない言葉だ。そんな言葉はいらない。
「よお、お姫さんとお嬢ちゃん。相談は済んだかい?」
「済んでないと言ったら時間を頂けるのでしょうか?」
シルヴィエが聞いたこともない冷たい声色で答える。その様子に男はまったく堪えることがなくて、無精ひげの生えたあごに手をあてて気味の悪い笑い声を上げる。
「そういうわけにはいかねえなあ、お姫さん。兄さまとやらの居場所を吐き出して貰おうか」
「アイナとわたくしを解放して頂けたら、考えないこともないですよ」
この男たちはシルヴィエの兄を狙っているのだ。
「それだったら、このお嬢ちゃんがどうなってもいいのか?」
「いや!」
男の手が私の髪を思いっきりんで引っ張る。長くて何の役にも立たないこの髪が恨めしい。
「こんなことしても、シルヴィエは何も話さないと思うけど!」
「本当にそうか?」
「残念ながら、シルヴィエと私は出会ったばかりで、絶対私よりお兄さんを取るもの。だから、私に全然意味なんてないからね」
「それでも、目の前で友達が苦しんでいるのを、お姫さんは見逃せるかな? お姫さんには手が出せなくたって、こんな女一人ならどうにたって出来るんだ」
男は髪から手を離す。
そして、懐から出したのは、光り輝く小さな剣だった。
それを見るだけで、喉が引き連れて変な音を出す。にやにやと笑っているはずのその顔すらもはっきりと見えなくなって、剣先から目が離れない。
「お嬢ちゃんは随分と短剣を怖がっているみたいだが。お姫さん」
「何をするつもりなの!」
「何をしようか。その長い髪を切り取ってもいいし、それとも左手も切り取ってやろうか? 何をしてもいい。お姫さんが話す気になるまで」
男が短剣を近づけてくる。
「やめ……やめて……」
口が勝手に動く。本当はこんなこと言いたくないのに。何で私の目は閉じてくれないんだろう。何で冷静になれない。何で私の体は動かないの。やめて。
「お姫さんが話してくれたらやめてやるよ」
短剣が左耳に当たる。
「あーあ。このお嬢ちゃんの表情、お姫さんに見せてやりたいなあ」
冷たいその感触は耳から首までと降りてくる。右手が痛い。怖い。
「耳なんて片方だけあればいいよな?」
また短剣が上へと登ってきた。その鋭い切っ先が耳の付け根にあたっている。
「やめなさい! 蛮族が!」
怖い。怖い。シルヴィエの叫びが聞こえる。そんな叫びは何の役にも立たない。早く言ってしまえばいいのに。
耳の付け根にちりりとした痛みが襲う。生暖かい血が首筋を伝った。
そのとき、濁流のような音が押し寄せて来た。
「そんなことをしたら、わたくしは永遠に何も話さないわ」
「本当にそうか?」
二人の会話が遠ざかる。私が私ではなくなってしまうようだった。短剣の冷たさに痛み、怖さも何もかもが遠くなってしまったようで、私はただ旋律を聞いている。音だけが私の身近にあり、二人の会話は壁を隔てた向こうに聞こえるようだった。
打楽器の衝撃と力強さが混じっている楽の音。まるで私を鼓舞しているかのよう。歌えばいい。歌えば怖いものは何もかもが消えてくれるだろう。
誰かが私の髪を掴む。
嫌な音がして、私の髪が切り取られたのが分かった。その感触に現実へと引き戻される。一瞬で心地いい旋律の世界は遠ざかっていた。でも、別にいい。呼び戻すことはいつでもできる。私の心の中でその音はどくどくと勢いよく流れているのだから。
「今度は髪では済まねえぞ。よく考えなお姫さん、このお嬢ちゃんを見捨てるかどうかを、な。また来るぜ」
それだけを言い残して、男は部屋の外へと出て行った。扉が音を立てて閉まる。それでも、隙間から入ってくる温かさを含んだ風は止まなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、アイナ」
シルヴィエは泣いていた。
力強さも何もなくて、ただのか弱い少女がいるだけだ。ごめんなさいとはどのような意味なのだろう。さっき助けられなかったことに対するごめんなさいなのか、それともこれから助けられないことに関するごめんなさいなのか。
でも、どうでもいいことだろう。
「ううん、大丈夫……」
恐怖は音が一緒にどこかへと持ち去ってくれたようだった。今は何も怖くない。何かあったら、歌を歌えばいい。
私だけは助かる。他の誰もが助からないかもしれないけれど。
「これから、どうしようか?」
「アイナ、本当に大丈夫ですの? なんだか、アイナ様子が……。わたくしがどうにかします。どうにかしますから」
「シルヴィエは何か考えがあるの? シルヴィエがここにいることを知っている人はいるの?」
少女は返事をしない。誰も知っている人がいないということだ。
これは好都合だ。嫌な笑みが顔に広がる。私は今とても醜いだろう。シルヴィエと男たちに何かがあったとしても私を疑う人は誰もいない。だって、ここには誰もいなくなってしまうのだから。それにこのことを知っている人もいない。私は普通に家に帰ればいいだけなのだ。簡単なことである。
「時間を稼いで下さい」
シルヴィエが先ほどよりもずっと小さい声で話す。
「とても頼りない糸ですが、繋がっているものがあります。今は詳しいことを言えませんがどうにか、時間を稼ぐことが出来れば」
遠く近く濁流が流れる。触れようとすれば触れられる場所だ。私の心と結びついている音は、どんな糸よりも強い。
「本当に?」
かすかな希望に縋るシルヴィエは今どんな表情をしているだろうか。また前のように唇を噛みしめているのかも知れない。
シルヴィエの命とかそんな感じの小さな物事なんてどうでもいいのだ。私は誰よりも強い力を持っている。それは何かを犠牲にしなければいけないものであるのだろうけれど、それでも私の命は助かる。ならば、それ以上の贅沢は言わない。
音を聞くと不思議だ。今まで私自身を翻弄してきた様々な何かでさえ、はかなく弱いものに思える。空の上から人間の営みを見下ろしているような気分になるのだ。細かいことはどうでもいい。誰かの感情なんてもっとどうでもいい。空の上からは何でも見えるけれど、小さくて下らないことまでは見えないのだ。
「はい」
「分かったよ、シルヴィエ」
聖女さまは、私と同じような力を持っている聖女さまは、どんな気分なんだろう。