クラエスの面影(3)
リコの薄っぺらい薄紅色のお出かけ服を着ても、金色の巻き毛がふわりと広がると一気に豪華に見えるのだった。白いリボンを腰にぎゅっと巻くと、その細さが強調される。美人とはこういうことなのだろう。
「いいな。あたしもそんな色だったら……」
リコはうっとりと言う。自分のパサついた毛先を見て、はあとため息を吐いた、シルヴィエはそれにどう答えればいいのか、困ったように笑っている。
「はいはい。あんなのは置いといて。スカーフをちょちょいっと」
ソフィが自前のスカーフをシルヴィエにかぶせた。顔周りにあるふわふわとした髪も一筋残らずスカーフの中へと押し込んでしまう。
「……まあ、見えないことが大切だし。ちょっとださいけど……。うん、ほんの少しださいけど。うちの田舎から出て来た妹ということにしようか。北の方は暗い色の髪を持つ人が多いから、それを隠していることにすればいい」
「本当になんとお礼を言っていいのか……。ありがとうございます」
シルヴィエが丁寧にお辞儀をした。その様子を見ても、「田舎から出て来た妹」という設定には無理がある気がする。品の良さがあふれ出していて、貧しい農家の娘らしくない。ソフィも同じことを考えてしまったのか、腕を組んで唸っている。
でも、他にいい方法を思い浮かばないのも真実だった。
「でも、良家のお嬢様だったら、普通は私たちとかかわる機会がないと思うし、なんとかなるんじゃない、かな」
「そうだといいんだけど。うちにこんな上品な妹がいたら、怖くて頭なんて叩けやしないよ」
「今更そんなこと言ってもどうしよーもないでしょ」
リコが腰に手をあてて、偉そうに言い切る。
「リコの言う通りだよ。ソフィ」
「それもそうだな。リコの思い切りの良さが今は羨ましいよ」
「じゃあ、早く行こう! ね、ソフィ、アイナ!」
そのとき、急に胸が締め付けられるような苦しみがこみ上げてきた。リコたちにとっての私はアイナなのだ。ここに北宮小春はいなくて、アイナという何の身寄りもない偽物だけがここにいる。私であることに変わりはないはずなのに、一枚の布を隔てているようで、僅かに遠い。クラエスは偽名を使っていたとき、どんな気分だったのだろうか。本当の自分には関係がない人たちなのだからと割り切っていられたのか。今となっては何も分からない。
そもそも、クラエスという名前は偽名じゃないと信じていいかも分からない。
「アイナ、どうかなされましたか? やはり、これからのこと心配ですか?」
慌てて、ううんと首を振る。
「ごめんね、行こう」
「そーしましょ」
「全く、リコは調子だけ良いんだから」
市に着くと、シルヴィエが歓声を漏らした。どこも全部が珍しいというように、あちこち首をめぐらす。
「とても賑やかですのね」
「そりゃあ、この市はさわがしくないときなんてないのさ!」
鈴のような声は雑踏にかき消されることもない。ソフィが自慢げに声を大きくして言った。
さすがに王都の市というだけあって、クラエスと一緒に散策したあの市の規模よりずっと大きい。人が多すぎて真っ直ぐ歩けない程だ。今度ははぐれないように祈るしかない。
「あ、リィンだ」
毒々しいピンクと黄色のすいかが山のように並べてあった。
「リィンは今が旬だから。あたしの実家でたくさん作っているの」
「リコの家の畑にあれがたくさん生っているの?」
あの人工的な色合いが緑色と土色の間に見え隠れするなんて、どうやっても似合わない気がする。
「見てみたいです!」
シルヴィエが目を輝かせる。
「何で? 面白いことなんて何もないのに。リィン畑なんてどこにでもあるじゃん」
「それは、ソフィが見慣れているからですよ。わたくしは見たことないんですもの。見てみたいです。私の知らないいろんなたくさんのことを。兄様がいつも言っていました。世界は自分の周りにだけあるわけじゃない、見ようとしなければ知ることも出来ない多くのことがあるのだと。……わたくしは見てみたい」
「それなら見ればいいじゃん」
シルヴィエがはっと、虚を突かれたような顔になる。私には、そのときのシルヴィエの気持ちが分かる気がした。とても難しく考えていたのに、簡単にその本質を言い当てられてしまう。そして、自分の中の言い訳までも見透かされているような、そんな気分。行動しないのは行動するのがとても面倒だからであって、きっと行動出来ないわけではない。しようと思えば、出来ることはある。
「そう、ですね」
シルヴィエが小声でつぶやいた。その声は隣にいた私にしか、聞こえなかったのかもしれない。
「ここを抜けて、布市の方に行こうよ。ここで食材を見てても、面白いことなんてちっともないし」
リコが提案する。そうしよう、と口々に呟いて方向を変えた。シルヴィエだけはまだ名残惜しそうにしていたけれど。
「ここはさっきとはまた雰囲気が違います」
「そうでしょ。布を見繕うのは女ばかりだし、皆じっくりと選んでいるからね」
騒がしさは変わらないけれども、慌ただしさは減っている。皆自分のお気に入りの一枚を見つけるために夢中だ。リコもさっさと近くの店に覗きに行く。どの店も自慢の一品を店頭に所せましと並べていて、なんとも色鮮やかだ。真っ赤な色に、空色の布、刺繍のついている布、幾何学模様の布、世界中の色が一か所に集められているようだ。
「この色は派手過ぎるかな?」
リコが手に取っているのは、なんとも眩しいオレンジ色だ。みかんの色をそのまま映したような鮮やかさである。
「うーん、これをどうするってのさ。ね、シルヴィエ?」
「そうですね。とても綺麗な色なのですが、ドレスにするには派手になり過ぎてしまうかもしれません。これを小物にするというのはどうでしょうか。差し色として使うのがかわいいかなと」
「いやー、お嬢ちゃん、目が高いね! あたしも同じことを言おうとしていたんだ。さあ、その色はここにしかないとっておきだよ!」
店主のおばちゃんが適当なことを適当に言う。そんなことなんて絶対に思っていない。
「ひえー。シルヴィエすごい。そんなことなんて全然思いつかなかった。でも、小物なんて難しそう。作れるかなー」
「そんなに難しいこともないですよ。リボンにするだけでも十分にかわいいですし、襟に飾りとして縫い付けるのもいいかと思います」
「シルヴィエってこういうことが得意なんだね」
「そんなことはないですよ。ただ、見聞きする機会が多くて……」
お貴族様はやっぱりオーダーメイドばかりなのだろうか。それなら、詳しくなるのも分かる気がする。でも、私にはオーダーメイドする程の財力なんてあるわけないし、リコやソフィのように自作できるわけもない。既製品の服は縫製とかいろいろ怪しい気もするし、納得の一品を探すのは大変そうだ。しばらく服を買う機会もないだろうし、別にいいのだけれど。
リコが別の店も見ようと立ち上がる。おばちゃんは既に他の客の相手をしていて、引き止められることもなかった。
「小物もいいけれど、やっぱり服用に布が欲しいな。それも古くなってきたし」
リコがシルヴィエの着ている自分の服を見ながら言う。確かに腰に白のリボンを巻くにも、そこに大きなほつれがあるせいだった。
「それだったら、もう少し色の薄い布を見てみた方がいいんじゃないの? 模様のあるのもかわいいと思うよ」
「でも、それだと高いじゃない」
リコが財布とのお相談をしながら、布を見て行く。ソフィと一緒に値下げ交渉に夢中だ。店主と共にどんどん白熱していく。私もあんな風に上手に値下げをしてみたいな、と思う。
「シルヴィエは楽しい?」
「ええ。とっても。ソフィたちはすごいです。私の知らないことをたくさん知っています。私がいると、うまく値下げ交渉できないから、って追い出されちゃいました」
シルヴィエがくすりと笑う。確かにお嬢様然としたシルヴィエがいたら、リコの望んでいる価格まで下げて貰うのは無理かもしれない。
「前にお兄様と一緒に来たときは、こんな身近に感じられませんでした。なんというか、人々の暮らしを周りから覗きこんでいるような……。今日のことをお兄様が知ったら、羨ましいと言われてしまいそうです」
「シルヴィエはお兄さんが大好きなんだね」
「はい」
シルヴィエは満面の笑顔で答える。
「どんな人なの?」
「とても物知りなんです。何でも知っていて、そして自分が何をすべきかをいつも考えています。立ち止まることがない人なので、尊敬はしているんですけど、少しだけ寂しいな、なんて思うこともあったり……」
「それじゃあ、そのお兄様とやらの居場所を教えてもらおうか」
男の低い声が耳元で聞こえる。同時に腰に何か硬いものが当たっている感覚がした。シルヴィエの表情が一気に凍り付く。
「叫ぼうとでもするなら、この女が死ぬぜ? シルヴィエ様」
肉を抉られるような痛みを感じて、それが何なのかすぐに分かった。
剣だ。鋭い切っ先を持っている。そう思うと、一気に体に震えが走る。あの日、私に向けられた剣の刃がそこにあるのだ。何故かもうない腕の先まで痛みが走る気がする。今シルヴィエはどんな風に私を見ているのだろう。嫌な感覚が消えてはくれない。
「わたくしが目的なのでしょう。その短剣を離しなさい。そうすれば、あなた方と共に行きましょう」
かすかにシルヴィエの声が聞こえてくる。何で誰も気が付いてくれないんだろう。こんなにも人がいるのに、誰もかれもがこちらを振り向かない。ソフィとリコさえ振り返ってくれればいいのに。全てが遠ざかって行く。お願い、気が付いて。
「ダメ。ダメだよ、そんなの」
「わたくしのせいなのです。ごめんなさい。アイナ」
「それじゃあ、来てもらうぜ、お姫さんよ」
シルヴィエの表情が青ざめるのが分かった。その綺麗な唇を噛んでいるのが痛々しい。知らない男の手がその腕をしっかりとつかんでいる。
「おおっと、女。お前にも来てもらうぜ。お前がいなくなると、この姫さんが何を仕出かすのかわからんからなあ」
「誰が……」
叫びかけたその声が、私の漏らした小さな悲鳴によってとだえてしまう。
この人たちは、容赦がない。短剣の切っ先が私の背中に埋まるのが、よく分かる。それ程の怪我ではない。それでも、怖い。
「や、やめて」
絞り出すような声が精一杯だ。
「俺たちはこの女を殺すことになっても、全く構いやしねーんだ」
男の笑い声がくつくつと響く。耳に染みつきそうな嫌な声だ。
「あなた……」
「お兄様の言ってた、知らない世界とやらをお姫さんに見せてやろうじゃねーか」
見慣れた世界が遠ざかって行く。霞んだ視界の中にリコもソフィもどこにもいなくて、背中の傷ばかりがじくじくと痛む。