アネモネに思いを寄せて(2)
パンを作る穀物の粉は水車小屋で引いていて、それからパンを作るのだけれど、水車小屋の管理もパンの作成も全部専門職の人が行っている。ここでは、各家庭に台所がないのだ。台所は外に専用の竈やらなんやらが何か所か拵えられていて、日が暮れる前に皆がここで夕食を作る。
外を歩いていると、何人もの女性や子供たちが手を振ってくる。外で駆け回って遊んでいる子供なんているはずもなくて、皆朝からお手伝いをしている。ここは、子供や数少ない老人も立派な労働力であると考える世界なのだ。働かなくては、食べてはいけない。
学校はこの村にはないので、学校に通っている子供もいない。そもそも、字の読み書きに科学や関数なんて必要ないのだ。簡単な算数が出来て、作物を作る知恵を受け継いで、あとは丈夫な体があればいい。
日に焼けた肌と、武骨な手をこの人たちは嫌がらない。働き者であることが大切なのだ。
そんな体力自慢の村人たちに、私立文系大学生として安穏と暮らしていた私が叶うわけがない。得意なことは、図書館での文献漁りだ。古い資料独特の香りが懐かしい。何冊もの分厚い本を積み上げて、滑らかな紙を指で辿っていく。もちろん、畑仕事も井戸からの水組みも初体験だ。
「コハル、おはよう」
髪を可愛らしくリボンで二つに結んだ女の子が話しかけてくる。ユリアだ。
梨や瓜のような果物をかごに入れて持っていて、同じようにこれからパンを貰いに行くのだろう。
ユリアの家は、この村でも貴重な果物を作っているのだそうだ。管理が難しくて取れる量も少ないけれど、数少ない甘味は貴重でとても人気がある。
「元気?」
私の感覚で言うとまだ中学生くらいなのに、とても大人っぽくて落ち着きがある。それもそのはずだ。この村での結婚適齢期は、十五歳から。ユリアはもうすぐ十三になるのだという。ユリアの母は体が弱くて、兄弟がいなかったのが寂しかったそうで、将来子供をたくさん産んで大家族にするのが夢なのだと語っていた。
思わず感心してしまった。私は、結婚より就職が何よりの一大事である。それを、ユリアに話したら、働くなんて体一つあれば簡単じゃない、と笑われた。それはそうだけど、と説明出来ない自分が悔しい。
赤毛に似合う橙色のリボンは彼女のお父さんからのプレゼントなのだという。
ここの村人たちの服装は皆一様に生成りの服を着ている。染めむらのない布なんて、どう考えたって高価だ。
しかし、この村では女性や子供、老人にしか会ったことがなく、ユリアのお父さんになんてあったことがない。そのことを不思議に思っていると、彼女は茶色の瞳を空の彼方へと向けて、口を開いた。
この村で一人前と認められた男は皆出稼ぎに行くのだ。村の中で自給自足を行っているとは言えども限界があり、外貨がどうしても必要になる。
砂糖や塩、布に、糸、魚の塩漬けやたまの贅沢品など、冬は雪で閉ざされるこの地で、生きていくために買わなければいけない。
塩がないと保存食も作れないのだという。寂しげに話してくれた後に、夏になる前に帰ってくるはずなんだよと笑ったユリアは、とっても可愛く見えた。
「うん。優しい。レーナ、にありがとう」
「言葉、上手」
片言だけれど、自分の意思を伝えるだけなら、問題ない。
「ユリア、ありがとう」
「コハル、約束」
「うん、夕ご飯の後、広場で」
「約束。コハルの笛、ね?」
どうやらレーナが森の奥まで来たのは、私の竜笛のおかげらしい。
そのことを知ったのは、二、三日前で、私の理解力が追いつくのを待って話してくれた。
私のいた場所は、打ち捨てられた異教の教会だった。
不気味なのであまり近づかないようにしていたのだけれど、薬草を取りに仕方なく近くまで寄ったのだという。そうしたら、不思議な調べが聞こえたので、教会まで向かったのだ。村からそれ程離れていない場所なので、何かあったときに、すぐにでも皆で逃げ出せるように。
そこでは、血まみれのリクルートスーツを着た私が横笛を吹いていた。
あまりにも不気味なので、最初は警戒して、魔術師の類だと考えたらしい。魔術師なんて物語の中の登場人物で、実際に見たことなんてなかったそうだけれど。私だってそんな意味の分からない場面に出くわしたら、警戒するに決まっている。
それでも助けてくれたのは、笛の音があまりにも素晴らしかったから、だそうだ。悪い何かではないと判断して、私を助けてくれた。
この村の人々を本当に優しい。
ユリアを始め、その場にいなかった人々は、私の笛が一体どんな笛なのか気になっているみたいだ。 時々村のはずれで笛を吹いていたのが、更に好奇心をかきたてたらしい。
特に子供たちは、聞かせてと結構うるさい。数少ない娯楽がやってきた、という感覚なのかもしれない。
小屋の煙突からは、煙が一筋出ている。マルカおばさんは誰よりも早起きして、パンを焼くのだ。
「マルカおばさん、パンを7枚下さいな」
「おはようございます。私は、6枚下さい」
「はいよ」
マルカおばさんは、そう言うと火の前から移動して窯の中を覗き込んだ。
「今日はおばさんの大好物の、ミリエリャを持ってきたよ」
ユリアは籠の中の果物を、机の上の籠に移していく。ミリエリャは、小ぶりのリンゴのような果物だ。杏より一回り大きいくらいの大きさで、味は酸っぱさの中に少し甘さが垣間見える程度。甘味としての役割は果たせているのか疑問に思う。
でも、村の人々はこの果物が大好きなのだそうだ。
「野菜、です。食べて下さい」
野菜の名前なんて、なかなか覚えられなくて、そうとしか言えなかった。
「コハル、慣れた?」
マルカおばさんの笑顔は太陽のようだと思う。この村の主食を担っていることもあって、誰もがおばさんには頭が上がらない。
「皆さん、とても親切、で、マルカおばさんの、パン、おいしい」
「よかった。ありがとう、コハル」
皆私に合わせて、簡単な言葉でゆっくり話してくれる。聞き取れない部分もまだたくさんあるけれど、随分と成長した。
どん底のそのまたどん底で、私は希望の光を見つけることが出来たのかもしれない。
私の家には帰ることが出来るのか、どうやって帰ればいいのか。
気になることも知らなければいけないこともたくさんあるけれど、私の一歩はとても小さくて、しかも迷ってばかりだ。
それでも、確実に前に進んでいるのはきっと間違いないのだから。
「レーナ、パン、貰ってきた」
パンと言っても、ナンに近いような平べったい食べ物である。大きくて、とにかく固い。食パンのようなふわふわなんて投げ捨てたような品物だけど、よく噛むと穀物の味がしておいしい。日持ちを重視しているのだと思う。
「ありがとう。朝食にしようか、このスープ、マリーヤがコハルに、って」
レーナは豆と根菜の入ったスープを持っていた。この根菜の見た目は長芋のようでいて、味はじゃがいもだ。茎に毒を持っているから、野生動物が近寄らず、この村ではよく作られている。
「本当? とっても、おいしそう。私、お腹空いた」
椅子を引いて座った。テーブルには二つの椅子がある。レーナは夫と二人暮らしをしているのだそう。私って晩婚だったの、と笑うレーナはなんと二十一だ。私より一つ年下である。長く綺麗な赤毛と、知的な光が宿る茶色の瞳。目鼻立ちは高くて、典型的な醤油顔の私には羨ましく思える。
そして、私が年上だと知ったとき、レーナは大げさ過ぎる程に驚いた。東洋人の悲しい性である。
「実は、コハルに話があるの」
レーナが木で出来たスプーンを置く。
「どうしたの?」
「あのね、コハルは、ここではなくて、もっと都会に行く。コハルは自分の家に帰りたい、って言ってた。でしょ?」
こくり、と頷く。日本に、家に帰ること。それ以上の望みも目標も必要ない。そして、そのためにはここを出なければいけない。当たり前だ。そうでなくても、ずっとここにいていいわけがない。
「うん、私も、そう思う」
「だから、夫たちが、帰ってくる。また、都会に出稼ぎに行く。コハルも一緒に行く。どう?」
私の目を見て、ゆっくりと話す。この国について話してくれたときもそうだった。赤の他人で全然関係なくて、この村だって豊かだとは言えないのにこんなにも親切にしてくれる。涙が出そうだった。
「うん、うん。都会、行く。レーナ、ありがとう」
朝ごはんが冷めちゃう、とレーナはスープを進めてくれた。日本にいたときの食事より薄味で素朴で、それなのに何倍もおいしく感じた。
レーナが席を立つ。
「お皿、私が洗っておくね」
「分かった。コハル、夕方、楽しみにしてる」
午前中の涼しい時間帯には、レーナはいつも畑仕事をする。昔からそうやって暮らしてきたのだ。これからも、きっと。
私は何のためにここにいるのだろう。
そんなことを今日に至るまで繰り返し何度も考えた。
私が日本で読んだ物語の主人公たちの多くは、何かの使命を帯びていた。それは魔王退治の勇者であったり、世界の秘密を握っていたりした。異世界に降り立ったその場所には、誰か手助けしてくれる人がいるものだ。
時たま、変則的に何のために来たのか分からない主人公だっているけど、最終的には自分のすべきことを見つけ出していた。
だてに文学少女を二十二年も続けてはいない。外国のおとぎ話も日本の神隠しも、さまざまな本を読んできた。
でも、それは他人の物語だ。私の物語じゃない。
私の物語はどうなるのだろうか。
そもそも、ここにいることの意味ってあるのだろうか。
就活を始めたときにも考えたことだった。これから働いて行くことの意味。天涯孤独になってしまった私の生きて行く理由。人間は、理由がなければ立ち上がることも出来ない。
だから、幸せになるために私は生きて行くのだと思った。新しい家族が欲しい。楽しいと思える明日にしたい。
では、私がこの世界にいる理由とは何なのか。理由があるのならば、知りたい。
調べなければいけないとしたら、私が降り立った場所ではないのかと思う。異教徒の教会であるあの場所にもう一度行くのだ。
それがどんなに恐ろしくても、私は確かめなければいけない。そこに何があるのか、何がないのかを。