クラエスの面影(2)
ソフィを見てもリコを見ても困ったという表情をしていた。そして、きっと私も同じ表情になっているのだと思う。
ランプの灯りの下で、見知らぬ女の子は硬いパンを実にお上品に食べていた。小さな口でゆっくりと噛んでいて、硬すぎておいしくないはずのパンも何故だかおいしそうに見えてしまう。リコがいつも隠している食糧が活躍したのだ。
女の子はリコたちより年下か同い年ぐらいだろうと思われた。高校生、なんていう懐かしい単語が思い浮かぶ。
女の子がパンを食べ終わった頃、ソフィが口を開いた。
「お名前を聞いても、いい……えっと、よろしいですかい?」
ちょっとばかり変な敬語だ。女の子は最後のパンの欠片を飲み込む。
「大変失礼致しました。わたくしはシルヴィエと申します。今宵はご迷惑をおかけして申し訳ありません」
シルヴィエさまは座っていた椅子から立ち上がり、優雅に一礼する。黄色のドレスの裾が広がって、同時に花の香りがふんわりと広がる。この子はさっきからはみ出している金色の髪に気が付いていないのだろうか。どうすればいいか分からなくて、リコの方を見る。リコはかすかに首を横に振った。
「えっと、うちはソフィで、あっちがリコで、あっちがアイナ。ええと、シルヴィエさま……?」
「ただのシルヴィエと呼んで下さいな。迷惑をかけたのはわたくしなのですから」
「いえ、でも、シルヴィエさま……」
「シルヴィエと、そのように呼んで欲しいのです」
シルヴィエさまが悲しそうに俯いた。その白く綺麗な両手は、ドレスをぎゅっと握りしめている。
そう言われて、ソフィの瞳が泳いだのが分かった。どう見ても、身分が違うこの人を何と呼べばいいのか戸惑っているようだ。シルヴィエさまも「さま」を付けられることを受け入れてくれればいいのにと思う。そう呼んでくれと言われても、こんなに身分の高そうな人を呼び捨てにしたら、あとで何があるか分からないじゃないか。
「シルヴィエ……」
沈黙に耐えきれなくなって、思わずそのように口にした。ソフィとリコが私を見る。見事に不安そうではあるけれど、そう呼ばなければ話が進みそうにはない。
「ありがとうございます、アイナ」
「シルヴィエはこれからどうするつもりなの?」
それを聞いて、シルヴィエは困ったように唇を噛んだ。薄桃色の唇はつやつやで、毎日リップクリームを塗っていそうだなと考える。この世界にリップクリームがあるかは分からないけど、似たようなものならきっとあるはずだ。
「わたくし……、お願いがあります」
シルヴィエはゆっくりと、私、ソフィ、リコを見渡す。声を潜めて話し出した。
「明日の夕方まで、何も聞かずに、わたくしをここに匿ってください。もちろんご迷惑をかけるのですから、ただでとは言いません。銀貨を四枚ずつお支払いします。ですから、どうか……」
リコもソフィもあんぐりと口を開けてしまっている。だって、ここの給料が一日銅貨五枚。銀貨一枚で銅貨百枚の値段に値するのだから、考えるだけで頭が痛い。ざっと、考えて二月の給料と同じだ。この手でそんなお金を持ったことなんてない。リコだってソフィだってそうだろう。シルヴィエは相当な箱入り娘だ。
「シルヴィエ、お願いだから、ちょっと黙ってくれ。そ、そんなことを言ったら、清く正しく、ついでに貧しく生きて来たうちだって、目がくらんでしまいそう……。そんなにもらったら、……うちはどんなに楽になるだろう」
「それでしたら……!」
シルヴィエが金色の瞳を輝かせる。
「でも、だめだ。リコもアイナもそうだろう? お金よりうちは自分の命が大切なんだ。危ないことにはかかわりたくない」
「ソフィ。あたしは銀貨欲しいよ。それだけあれば、弟や妹が学校に通えるかもしれないじゃない……」
「……アイナはどう思うんだい?」
ソフィが私に言葉を投げかける。正直に言うと、お金は欲しい。あっても困らないし、エリエさんにお金を返すことも出来るからだ。利子をつけることさえ出来る。でも、それ以上にこの明らかに身分の高いシルヴィエと仲良くなることが出来たら、聖女さまとだってお会いできるかもしれない。その気持ちが一番強い。例え何が危険だとしても今更だ。何をしてでも、この腕を。
気が付いたら私は右腕を抑えていた。じくりと痛む。
「私は、助けたいと思う」
風向きが変わるのをはっきりと感じられた。
卑怯かもしれないけれど。
「リコもアイナも本気? 何があるかなんて分からないんだよ! ……危ないことなんでしょ。うちらを巻き込もうとしているのは」
ソフィがシルヴィエを睨み付ける。
それでも彼女は怯まない。
「……安全ではありません。あなた方を巻き込むというのも正しいです。でも、私はこれ以外にどうしようもないのです。銀貨を五枚ずつ、ではいかがでしょうか。ですから、お願いします」
その決意の現れは、箱入り娘という評価を取り消すべきかもしれないと思った。シルヴィエは理由があって私たちを利用するのだし、私は聖女さまに会うために、リコは銀貨を貰うためにシルヴィエを利用しているに過ぎない。そして、お互いを利用するという点において、私たちは平等な立場にあるのだ。
ソフィは私とリコの表情を見た。そして、決意が鈍らないのを感じ取って、はあとため息を吐く。
「お金は大切だけど、うちは安全の方が好きなんだ。でも、二人がそう言うんだったら仕方ない」
「ごめんね、ソフィ」
「ソフィ、ありがとう」
唯一乗り気じゃなかったソフィに申し訳ない。私がソフィのために出来ることは何かないだろうか。
「本当ですか! ソフィ。ごめんなさいとは言いません。ありがとうございます」
シルヴィエはいきなりソフィのかさついた両手を握った。白くて細いその手に少しの戸惑いも見えない。ソフィの鳶色の瞳が揺れる。シルヴィエはどう見たっていい子なのだ。その身分の高さをちっとも鼻にかけることはない。だからこそ、ソフィも最後には折れたのだと思う。
「リコも、アイナもありがとう。わたくしのわがままを聞いて頂いて、本当に……」
「シルヴィエ、もう少し声小さくしてよ。あなたがどんなところで暮らしているのか聞かないけれど、ここは絶対にそこよりも壁が薄いんだからね」
リコが腰に手をあてて、シルヴィエに注意する。
「はい」
その神妙な表情を見て、思わず笑いがこみ上げて来た。
「ちょっとアイナ、皆が真剣なのに何で笑ってるの! ひじょーしきよ、ひじょーしき!」
「ごめんってば。だって、ちょっとどきどきしない?」
「アイナってば、一番年上なのに、子どもっぽーい」
「とかって言っても、リコだってわくわくしてるんでしょ」
「……ちょっとだけね、本当にちょっとだけ」
はあ、とどこからかため息が聞こえてきた。
「遊びじゃないんだってば」
「ソフィって随分としっかりしているんですね」
ついにはシルヴィエまでがくすくす笑い出す。もちろん声を抑えたままで。
「こんな子たちの面倒を見なくちゃいけないってわけ」
そう言うソフィの目もいたずら小僧のように黒々と輝いていた。
「でも、具体的にはどうしようか。匿うって言っても、うーん」
リコとソフィも悩んでいる。
「確かに、あたしたちのこの狭い小屋に籠っているわけにも行かないよね。ソフィはどう思う?」
「……予定通り市に出かけちゃうってのはどう?」
「本気?」
ソフィの提案にリコがいぶかしげな表情になる。
「さすがに厳しいんじゃないかな。だって、あんなに人がいるし……どんな事情は知らないにしても」
リコはシルヴィエを見る。これからどうすべきかシルヴィエも考え込んでいるようだった。白い頬がランプの光に照らされて、オレンジ色に染まっている。ふと、その表情が誰かに似ている気がした。
「分かりません。でも、もしかしたら人の多いところにいた方が安全かもしれない……とは、思います」
「シルヴィエは市に行ってみたいと思う?」
私の言葉に、金色の瞳が輝いたように思った。
「行きたい……です。市なんて、兄様と行った以来なんです」
「それなら、他に方法も思いつかないし、市に行くことにする?」
「まあ、ここにいるよりはいいのかも」
最終的にはリコも賛成した。
「でもね、最後に一つ問題があるのをソフィもアイナも気が付いていないでしょ」
リコが眉間にしわを寄せて、腰に手をあてて言う。ソフィと私は何のことだか分からなかった。もちろんシルヴィエも。
「ほらね、やっぱり。……ベッドが三つしかないの。あたしたちは四人もいるのに。ここは公平にじゃんけんをするべきね」
幸運なことにじゃんけんは何故だか日本と共通しているようで、そして不運なことに言いだしっぺのリコがシルヴィエと一緒に寝ることになるのだった。