聖女と下働き(3)
風呂場での仕事は、片腕でもなんとか出来た。雑巾を使うのに両手である必要はないし、あとは一生懸命こすればいい。ただ、二十人も一斉に入れそうなこのお風呂をたった四人で掃除しなければいけないのはなかなか骨が折れた。
タワシのような掃除道具と雑巾でこの広さの掃除をしなければならないのだ。現代日本のような、すばらしい洗剤も掃除道具もここにはありはしない。ごしごしとこするばかりである。
しかもリコの言う通りに、カミラさんは厳しい。タイルの隅々までじっくりとチェックするのだ。そこまで見なくても、と思うときもあるけれど、この仕事に誇りをもっているのだと思う。ここは、皆の疲れを癒す場所なのだから。
「ねえねえ、アイナ。知ってる? 今日聖女さまが街の貧民街にまで行くんだって! 聖女さまのお姿、見てみたくない?」
カミラさんがいないときを見計らって、リコが話しかけてくる。
「本当?」
「嘘言ってどうするのさ」
胸が高鳴る。王宮に聖女さまが暮らしていることは知っていたけれど、こんなにも早く出会える機会が巡ってくるとは思わなかった。私のいるここと、聖女さまのいる場所はあまりにも違っていたから。
「もちろん見たい……けど、一体どうするの? お昼休みに抜け出す?」
「ううん。アイナ、忘れたの? 今日は私たちが食事当番だよ。だから、ごーほーてきに抜け出す!」
リコが言葉と同時に拳を握る。その様子を見て、年上の仲間がごほんと一つ咳払いをした。リコは慌てて、一生懸命こすっているふりをする。
その提案に私が嫌だというはずもない。
「ご飯当番いってきまーす!」
「いってきます」
掃除道具をあるべきところに返して、返事も聞かずに急いで出て行く。ご飯当番と言えど、時間は決められているのだ。
「こっちこっち、アイナ」
「待っててば、腰が痛いんだもの」
「そんなこと知らないよ」
痛む腰を抑えながら、走るリコの後ろに着いていく。リコが何歳かは分からないけれど、こちらはそんなに若くないのだ。最近走る機会がやたらと多かったけれど、基礎体力がないものだからどうしようもない。
リコは建物の中に入って、階段を上る。ここは使用人の住む建物だからこそ、こんなことが許されているんだろう。他にも同じような下働きや水色の衣服を着た使用人も、階段を上っていく。
三階に辿り着いたとき、窓という窓に人々がへばりついていた。リコと二人で、なんとか外が見える場所を確保する。
「ほら、あの遠くの白い道が正門に繋がる道だよ」
「あそこを聖女さまがお通りになるの?」
「間違いないと思うよ、うん、まあ、たぶん。おそらくね」
その道までは遥かに遠い。正門の両脇に並んだ人々の顔がやっと見えるという程度だ。
「リコは聖女さまって見たことある?」
「ううん、噂だけ。絶世の美女なんだって!」
下働きや使用人は、聖女さまに関する何かしらを話している。それだけ皆に好かれている証なのだろうと思う。もし、私が聖女だったら、こんなに好かれていただろうか。
「不思議な力を持っているって聞いたけど……」
「女神様から与えられた御力ね? 枯れた大地を、一面の緑色に蘇らせたそうよ。いいなあ、私の実家にも来てくれたら助かるのに」
クラエスから聞いていたことと同じだ。
「聖女さまって他にも何か出来るの?」
「さあ、そこまでは分からないけど。あ、見て、アイナ! 誰かが出てくるよ!」
目の前の正門の人たちから湧きたつ声が聞こえる。それは、ここの窓にいる人たちも同じだ。
見えてきたのは、一連の馬の列だ。何頭もの馬が連れ立って現れる。その上に跨っているのは、騎士と言っていいのかもしれない。そして、茶色の馬の間に、一頭だけ白馬が紛れていた。
「うわあ、聖女さまが馬に乗っているよ!」
白馬にまたがっていたのは、遠目でも分かるほどの美女だ。顔かたちはよく見えないけれど、真っ直ぐに伸びた背筋。腰まで流れる白銀の髪。一面の白に囲まれたその人は、清廉な光をまとっているかのように見えた。
「あれが聖女さま……」
そのとき、聖女さまがこちらを向いた。それに合わせて、馬の歩みが止まる。
ありえないはずなのに、真っ直ぐ私を射ぬいているかのように見えた。淡い色の二つの瞳。思わず左手で胸を押さえる。
聖女さまが白い衣に包まれた手を高く掲げて、こちらに向かって大きく振った。思いもよらなかった下働きたちは、皆頬を紅潮させて手を振りかえす。口々に聖女さまと叫んでいる。
その中で私は一歩下がった。リコは相変わらず大きく手を振っている。私は自分の中に嫉妬の気持ちが宿っていることに気が付いてしまったのだ。私自身が目を逸らしたかった感情に。
あの聖女さまは私のような苦労をしていないはずだ。綺麗な衣を着て、皆に求められてあそこにいる。それに引き換えて私は、自分が生きるためならば何でもする覚悟でここまでやってきた。エリエさんのことが頭を過る。
あの人はなんと恵まれているのだろう。神様に祝福されているのが聖女さまだとするのならば、私は神さまに呪われているんじゃないかと思う散々っぷりだ。
「アイナ、どうしたの?」
リコが窓から視線を離す。
「あ、ううん。なんでもないよ。聖女さまは?」
「聖女さまはもう行っちゃった。何でもないようには見えないけど……。すごい汗」
その言葉の通りに、窓から人々が離れ始めた。しかし、興奮の名残りはまだあるようで、皆さっきのことを話している。
「ええっと、何でもないってば」
「もしかして、走り過ぎて気持ち悪くなっちゃった?」
「あー、バレた?」
体力ないなアイナは、とリコは笑う。でも、私の手を引いてゆっくり階段を降りようとしていて、嬉しくなった。それと同時に私の中で罪悪感が湧きあがる。
リコはこんなにも優しいのに、私は差別をしている。
リコは学も何もない。豊かな暮らしも知らない。農村でたくさんの兄弟がいて、全員を食わせてはいけないから、リコが王宮まで出稼ぎへと来たのだそうだ。他の人々も同じような境遇の者が多いと言っていた。
私はそんな下働きの者たちとは違う。この世界で聖女さまと最も近い境遇なのは私で、彼女と直接会話を交わしたならここからすぐに出せてもらえるはずだと、そう考えている。傲慢であり、あまりにも愚かだ。
でも、聖女さまと私自身を対等な立場で比べて嫉妬をしているというのは、そういうことだ。そして、聖女さまに対して嫉妬心すらない、この人たちを見下している。
心臓がさっきよりずっと激しい調子で、早鐘を打ち始めた。
私のどうしようもない感情にリコが気付いていたらどうしよう。
聖女さまはこんなことを考えるだろうか。中身も聖女と言うに足るべき人物なのか。少なくとも、私の中身は聖女として相応しくないということは分かった。これでは、悪女と言った方がいい。北宮小春は、こんなにも汚くてちっぽけな人間だったというの。
「ねえ、アイナってば。聞いてる?」
「え、聞いてる聞いてる! 今日の昼食どうしようか?」
「聞いてなかったな」
リコの声が一段と低くなる。
「あはは、ごめん」
リコは学はないけれど、きっと愚かではない。明るくて優しくて、気遣いの出来る子だ。嫌われたくない。
「ごめんね、リコ」
「そこまで怒ってないよ。でも、人の話はちゃんと聞くように!」
「はーい」
リコがくすくすと笑う。
「それでさあ、聖女さまがこちらにもお手を振って下さったんだよ。私感動しちゃった。あんな雲の上の上の上の人が、下働きまで気遣ってくれるなんて、本当にお優しい方」
「上」に特に力を込めて言う。
「確かに、すっごく綺麗な人だった」
「あたし、聖女さまのことを大好きになってしまいそう!」
「もう既に大好きになってます、の間違いではなくて?」
うーん、そうかも、とリコは悩み始めた。
リコのことを好ましく思う感情で、どす黒い思いを塗りつぶしてくれればいいのにと思った。何で私は、こんなにも馬鹿なのだろう。
笛を吹きたくなった。好きなだけ音を響かせて、好きなだけ旋律に乗せて。でも、クラエスと一緒に流された竜笛は、もうどこにもないだろう。
「私はリコのことが大好きだよ」
これは保険だ。私の嫌な感情を押さえつけるための。