聖女と下働き(1)
暗くなるまで歩き、夜明け前にまた歩き出す。
何日歩いているのかよく分からなかった。エリエさんが投げた荷物の中には、一揃えの衣服と何食分かの食事、そして銀貨が二枚入っていた。銀貨はレーナから貰った小袋の中へと入れた。こんな形で役に立つとは思っていなかったけれど。
私はなんて馬鹿だったのだろう。エリエさんは本当にいい人であったのだ。それなのに、私は盗みを働こうとした上に、ひどい言葉を投げつけた。ずっと、ずっと疑っていたのだ。エリエさんは信じてもいい人だった。
信じていい人と、信じてはいけない人をどのように見分ければいいというのだ。私には分からない。
道中は思っていたより安全だった。
何よりも、クラエスがいないことによって、追手もいなくなったことが大きい。堂々と王都への道を歩いていても危ないことなどないのだ。
そして、荷物もほとんどない、フードを深くかぶった怪しい人物に話しかける人もいなかった。
足元がふらつく。ご飯を食べたのは、いつのことだったろう。クラエスのこともエリエさんのことも考えたくなかった。
王都らしいざわめきはすぐそこまで迫っていた。
音と色と匂いが溢れる雑多な街へと足を踏み入れる。煩わしいフードを取って周りを見渡す。これほど人で溢れかえっているのだから、黒髪の女一人ぐらい目立たないはずだ。
赤いレンガの建物が所狭しと並んでいた。遠くには白い塔が垣間見える。あれは王宮だろうか。街角には花や木々が植えられており、ここが豊かな都であることが見て取れる。歩く人々の衣服は今まで見たどの街よりも色鮮やかだ。落ち込んでいた心を少しだけ動かされる。ずっと目指していた場所にようやく着いたのだから。
何の身分もない女がすぐに聖女へと会えるはずもない。仕事を探して、お金を貯めて銀貨二枚と利子ぐらいは返せるようにしよう。そうではなければ、あまりにも申し訳ないではないか。後悔するのはいつでもできるけれど、行動を伴わない後悔などただの時間の無駄だ。
そう考えると、やっとご飯を食べる気分になってきた。まだ朝早いのだから、朝ごはんを食べてから仕事を探しても遅くじゃないはずだ。
「なんだい、その不吉な髪の色は。食べさせるもんなんてないよ、出て行きな」
断られたのはこれで二件目だった。
「な、意味わかんない。クラエスは不吉とか、そんなこと言ってなかったのに……」
もちろんエリエさんもそのようには言ってなかった。珍しいと言われることがあっても、不吉だなんてそんな風に言われるとは全く思わなかった。
どうしよう。この王都中の人たちがそのように感じるのだとしたら、困る。
「ひどいな。ま、そう思う人も少なくないけどな。どうだ、うちで飯食っていくか?」
私に話しかけたのは、だらしない恰好をして、煙管のようなものを燻らせているおじさんである。その笑顔は妙に人懐っこい。
「あ、はい」
「ほい、その隣のところだから」
おじさんは隣の店へと入る。
「あの、ありがとうございます。ところで、黒髪ってそんなに不吉なのですか? 遠くから来たもので」
「ここは王のお膝元だからなあ、昔から住んでいる者はそう思っても仕方がねえ」
店の中には何人かのお客さんが入っていた。繁盛しているとは言えないけれど、お昼も過ぎているのだからこんなものだろう。
店主の言葉に思わず首を傾げる。何かしらの常識があるようだ。
「お嬢ちゃん、どこから来たの。この国の風習は有名じゃないか。王族は皆金の髪を持っていて、色が薄ければ薄いほど身分が高いんだってことは。だから、反対に黒髪なんてとんでもないんだよ」
店主の言葉に驚くしかない。クラエスは金色の髪を隠していた。考えても分からなかったその意味が、この国の者にとっては当たり前の知識だったのだ。
食べたはずなのに、結局味なんてよく分からなかった。
だって、水に濡れたクラエスの髪は金色だった。どういうことだ。あいつは本当に何者なのだ。
クラエスについて一つ知ったと思ったら、また一つ分からなくなる。金の髪を持つということは、あの人は王族なのだろうか。レオが様をつけて呼んでいたし、同時に殺そうともしていたけれど。
クラエスはどれだけの厄介ごとを背負っていたというのか。そして、その厄介ごとに私を巻き込もうとしていたことも間違いない。それに、王族なのだとしたら、クラエスを川の中に蹴り落としたことを知られるのはまずい気がする。でも、あの場所にはクラエスと私、そしてクラエスを狙っていた者たち以外はいなかったはずだ。
クラエスと一緒にいても、別れても、問題は消えてくれない。新しいことを知る度に、問題も増えて行く。
銀貨一枚を銅貨へと両替して店を出る。このお金は今度こそ盗まれるわけにはいかない。ずっしりと重くなった財布を荷物の底へとしまいこみ、再び歩き出した。
眼前に広がるのは白い壁、それだけだ。
門番らしき兵士が、鋭い目つきであちこちを見まわす。その視線が私で止まったところで、壁沿いに歩き出した。白亜のお城は一目も見えない。街中ではまだ塔の先が見えたのに、近づいてしまうと全くもって見えないなんて何と言う皮肉なんだろう。聖女様の元に辿り着くのは骨が折れそうだと思ってしまう。でも、もともと正門になんて用はない。こんな見るからに庶民を壁の中へと入れてくれるはずなんてないもの。
壁は高いだけではなく、どこまでも続いていた。もしかしたら、反対側にあるのかもしれないと諦めかけること数回。それでも、諦めなくてよかったと思う。私とそう変わらない身なりの者が出入りしている門を見つけたのだ。そこにも兵士はいるけれど、正門の兵に比べると明らかに呑気だ。出入りの者と話をしていたり、あくびなんてしていたりする。 下働き用の門であるはずだ。
落ち着け、と自分に言い聞かす。だって、聖女様に会いたい上にお金も欲しいのならば、これが一番じゃないか。今となってはクラエスがどのように王宮に入るつもりだったのか分からないけれど、私にはこれが精一杯だ。
「あの、すみません」
「ん、なんだ」
門番へと話しかける。面倒くさそうに振り返ったその男は、私の黒髪を見たせいか顔をしかめた。これはまずいかもしれない。
「王宮で下働きとして働きたいのです。中に入れて下さい。お願いします」
思い切り頭を下げる。仕事にさえありつけるのならば、誠意なんて切り売り大安売りだ。
「帰れ帰れ、お前みたいなもんを相手にしている時間なんてないんだ」
さっきはあくびをしていたくせに。嘘つけと心の中でだけ毒づく。
「お願いします! 他に雇ってもらえるところも見つけられなくて……」
「無理だ。人手は足りているんだからよ」
「なんとか、中の者に話だけでも通してもらえないでしょうか」
「無理無理」
門番は手を顔の前でひらひらさせちゃって、ろくにこちらを見ようとすらしない。ここで引き下がるわけにも行かないのだけれど、どうすれば入れてくれるというのだろう。
「トマス、誰が、いつ、人手が足りているなんて言っていたんだ。聞かせてもらおうじゃねえか」
トマスと呼ばれた門番の肩に手をかけたのは、なんとも厳つい顔つきをした男だった。鷹のような目つきで、下がった口角が上がるところなんて想像もできない。門番は恐る恐るといった調子で振り返った。
「ひっ、グスタフ……」
「それとも、今日の夕飯はトマスだけ特別仕様にしてやろうか」
よく見るとその男は、ところどころ汚れているエプロンをつけている。それが全くもって似合わないのだけれど、どうやらコックさんというところか。
「じょ、冗談はやめてくれよ。だいたいこんな身元のわからん奴を王宮に入れるわけにはいかないじゃないか!」
「それは俺の決めることだ。入んな、お嬢ちゃん」
グスタフというその男が天からの助けに見えた。
「ありがとうございます」
「おい、ちょっと待てよ。それだったら、最低限荷物の検査ぐらいはさせてもらわないと!」
門番が慌てて言う。
このチャンスを逃してしまう手はない。荷物の口を広げる。中には服と一つの小汚い財布が入っているだけだ。ダメ押しで衣服も大きく広げる。そうすると、門番は文句のつけどころがなくなってしまったのか、しぶしぶながらも道を開けてくれた。
門の中に飛び込んで、さっさと歩き出したグスタフさんの後を小走りで追う。後ろを振り返ったら、門番に睨み付けられてしまった。でも、そんなのはもうどうだっていい。仕事を見つけられればそれでいいのだから。
グスタフさんに連れて来られたのは、食堂のような場所だった。しかし、食事時ではないためか人はまばらにいるだけだ。その中の一つの椅子を引いて、彼は座る。ぎしりという音がした。この男の体格がいいせいだけではなく、相当な年期ものなのだろう。見た目にも傷が多くついていた。
「お前も座れ。俺はここの料理長をしているグスタフだ。お前は何という」
向かい側の椅子を引く。間近で見ると、眉間にしわを寄せていて尚更怖そうだ。
「私はアイナです。先ほどはありがとうございました」
「礼なんぞいい。人が足りないのは本当なんだ。どこの出身で何をしにここまで来たんだ。俺も暇なわけじゃねえ」
余計な言葉なんて必要ないというわけだ。
「はい。私はリースの出身です。家業の手伝いをしていたのですが、事故にあってしまって……」
右手の跡を料理長に見せる。グスタフさんは全く顔色を変えない。これで同情してもらえればいいと思っていたのに、計画が狂ってしまう。
「ええと、それで、……聖女さまに一目お会いしたくて、もしかしたら、治るんじゃないかななんて……」
ふわふわとした理由で、しかも目の前には厳めしい男がいて、これではだめなのではないか。グスタフさんは、髭のないあごに手をやる。お願い、と祈りを込めた。
「ふむ。その行動力は認めてやらんものでもないな。他にも似たような理由で聖女に会いたいという奴を見たことはあるが、大抵は門の前で騒ぐだけだ。だが、そんな手で何が出来るんだ。ここでは役に立たない奴はいらないんだよ。それに、聖女に会えるなんて保障もない」
「前にいたところでは、風呂焚きをしていました。それに、少しでも希望があるのなら、私はここにいたいのです。帰っても役に立ちませんから……」
「厨房では使えんわけだな」
はい、と小さく呟く。この人は厨房の手が足りないと言っていたのだ。厨房でも出来ることがあるならやりたい。でも、この手では、ジャガイモの皮むきすら出来ない気がする。皿洗いも同じ。私には何が出来るのだろう。
短い沈黙のあと、グスタフさんは再び口を開く。
「一応、風呂係のとこには話を通してやるよ」
「ありがとうございます!」
道が少しずつ開けて行くようだ。立ち止まるときになってから後悔しよう。今クラエスのことを考えてしまうのは辛いから、ちょっとの間忘れていたい。