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偽物聖女  作者: すとろん
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孤独の中で

 しばらくの間、私は川岸に横たわっていた。足を掴まれる感触が忘れなかった。

 それでも、いつまでもこんなことをしているわけにはいかない。私はもうこの世界へ来たばかりの頃の、何もできない北宮小春ではないのだ。

 それに、クラエスがくれた言語もある。

 ゆっくりと起き上がった。



「すみません、お話を聞いて下さいませんか……?」

 全身ずぶ濡れどころではないのだ。頭の天辺からつま先まで泥にまみれている。だからこそ、宿屋の中に入るなんてとんでもないことだった。扉を開けて中を覗き見る。

 不安しかない。こんな姿ではどうやっても浮浪者にしか見えないだろう。それでも、王都まで向かうには食べ物がいる。食べ物を買うためにはお金がいるのだ。

 中では大勢の人々が飲み食いをしていた。店員さんは忙しそうに動き回っている。これでは誰ともしれない女の話を聞く時間なんてありそうにはない。諦めて次に行くべきかもしれない。扉を閉めよう。


「あらあら、どうしたの。そんなに泥まみれになって……」


 目の前には少しだけふくよかな女性が立っていた。


「あの! あとで、時間のあるときでいいので、お話を聞いて下さいませんか。それまでは、どこかで待ってますので。お願いします! 他に頼るところがないのです」


 勢いよく頭を下げる。この世界には頭を下げるという文化があるかどうか分からないが、誠意を示す方法なんてこれしか思いつかないのだ。


「それだったら、裏口から入ってらっしゃい。お湯を沸かしてあげる。泥を落としてすっきりして、部屋に空きがあるからそこで休んできて。話は、それから聞いてあげる」


 思わず頭を上げてしまう。こんなに親切にしてくれることが信じられなかった。いや、もしかしたら何か別の目的があるかもしれない。それでも、今はこの人に縋る以外の手段はないのだ。


「ありがとうございます」


 深々と礼をした。



「こんなに親切にしてもらって本当にいいのかな……」


 寝台には、真っ白とは言えないものの洗い立ての綺麗なシーツが敷かれていた。広くなくても、寝台と机と椅子が一つずつあるのだから十分だ。

 でも、お金も払っていないのに、こんな部屋にいていいと言われたのがなんだか怖いと思ってしまう。更には、離れにあるお風呂にまで入らせてくれたのだ。申し訳ないと思いながらも、体中の疲れがふっとんだように感じた。

 なんと、この世界に来てから初めてまともなお風呂でに入ったのである。

 着替えまで貸してもらった。水色のエプロンスカートというものだろうか。襟元には青い糸で刺繍までされていて、なんとも可愛らしい。しかも、机の上には軽食まで乗っていた。

 お腹が盛大な音を立てた。作り立ての良い香りがするせいである。


「食べちゃダメ」


 もしかしたら、睡眠薬のような薬が入っている可能性だってある。レーナたちのように人買いへ売り渡されるかもしれない。信じられる要素など一つもないのだから。

 それでも、お腹は相変わらずその存在を訴えるのだった。


 椅子に座って、机の上へと倒れ込む。皺ひとつないシーツを私なんかが使っていいのだろうか。それに、少しでも第一印象を良くしたいのだ。

 そのとき、扉をノックする音が聞こえた。


「えっと、アイナ? 起きているかしら」


 ゆったりとした声は間違いなく先ほどの女性のものだった。


「はい、起きています」


 椅子から立ち上がる。女性が二つの木のコップをもって入って来た。


「あら、寝台に横になっていてくれてよかったのに。随分疲れていたでしょう」

「私、お金なんて全然持っていないんです……だから……」


 女性が寝台に腰掛ける。どうすればいいのかと迷ったあげく、結局椅子に座るしかなかった。そして、タイミングの悪いことにお腹の音がなる。


「ケット、おいしいわよ。うちの名物だもの」


 あくまでも女性は優しげだ。茶色の瞳が心配だと言っているようにすら見える。これは好意なのだろうか。それとも、何か見返りを求めているのだとしたら。


「いえ……」

「自己紹介がまだだったわね。私は、エリエというの。アイナと呼んでもいいわよね?」

「はい」


 エリエさんが手に持った飲み物に口をつける。そして、驚いたことに私の前に置かれたコップにも口をつけたのだ。


「心配しないで、アイナ。ただの水よ」

「疑ってなんかいません!」


 何故。

 私の行動がそれだけ分かりやすかったということなのだろう。警戒心が足りなかったのだ。もっとクラエスみたいに、上手く相手の懐へ潜り込めるようにならなければこの世界では生きていけないのに。


「すみません、大声を出してしまいました」


 もっとみじめに見せなければいけない。この女性が私を可哀そうだと思ってくれるように。

 右腕を持ち上げて、机の上におく。腕の先には何もないのだ。


「まあ……」


 エリエさんが声を上げた。この調子だ。クラエスが私を利用しようとしていたように、私も他人を利用すればいい。何の力もない私がこの世界で生きていくためには、そうするしかないのだ。


「私、良い義手を作る職人の方が王都にいらっしゃると聞いて、そこに行く予定だったのです。でも……、盗賊に襲われて……なんとか逃げ延びることは出来たのですが、荷物もお金も全て盗まれてしまって……」


 俯いて、か細い声で話す。貸して頂いた服に滴が落ちた。

 私はこんなにも辛い目にあっている。だから、同情して助けてくれ。気が付くと、頬を流れる涙が途切れなくなっていた。左手で拭う。泣けばいい、もっと泣いてしまえばいい。


「お願いがあります。ここで働かせてください。右手はないですけど、出来ることなら、何でも、何でもします。……もしよろしければ、王都までの食べ物を頂きたいのです」


 顔を上げて、エリエさんの目を見る。そのあとに、頭を下げた。これぐらいしか私に出来ることはない。


「うちね、あなたと同い年ぐらいの娘がいるのよ。この間嫁いでしまってね、ちょうど人手が足りなくて、困っていたの。それに、困っている人を放ってはおけないわ。この宿屋もそんなに繁盛しているわけではないけれど、娘のお下がりの服と食べ物、少しのお給金ぐらいなら出せるわ」


 ここで喜ぶな。もうひと押しだ。


「でも、私みたいな身元も分からない者は不安ではないですか」

「そうね。確かに不安ね……って言ったらどうする?」


 エリエさんがにこりと笑う。私は言葉に詰まってしまった。そういう返事を予想しての言葉ではない。頭の中がぐるぐる回る。浅はかな考えで何かをしようとしても、エリエさんの方が私の何倍も上手だ。


「すみません……」

「いいの、あなたがどこの誰でも。例え嘘を言っていても。困っている人ならば、出来るだけ助けたいと思う。娘にも、それはお母さんの我がままだって言われたことがあるのよ」


 いい人過ぎる程のいい人だ。人を助けたって見返りがあるとは限らないし、裏切られるかもしれないのに。でも、この言葉が本当のものだとは限らない。それに、どんなにいい人であっても、困れば裏切りなんて簡単にするのだ。レーナに教えてもらったじゃないか。

 だけれど、今はその言葉を頼るしかないのも真実だった。


「ありがとうございます……よろしくお願いします」


 


 風呂焚きならば片手でも出来る。

右手がない、というのは予想以上に何も出来ない。皿洗いも料理を運ぶことも野菜の皮むきだって、どうにもならないのだ。

 私でも出来ることとは、掃除や風呂焚き程度しかなかった。


「暑くない。ちっとも、暑くなんてない」


 そして、真夏の風呂焚きは予想以上に厳しい。息をするのが辛い程に暑い。でも、ようやく慣れて来た仕事だった。一日目は熱すぎると怒られ、二日目は冷たすぎると怒られたのである。竈の上にあるほんの小さな窓が開く音には、びくついてばかりだ。

 でも、三日目が過ぎて四日目の今日は、未だに何も言われていない。

 この煤だらけの小さな椅子に座って四日、つまりクラエスと別れてからもそれぐらいの時間が経っていることを示していた。


 まだ傷は癒えてくれないのだ。殺されそうになった恐怖や、冷たい川の水。そして、足首を掴まれる感触。時間が記憶を消してくれるのだと、そう思っていた。

 しかし、日に日に夢は鮮明になっていくばかりだった。私があの日見えなかったクラエスの表情まで、夢に見てしまうのだ。鬼のような形相の日もあれば、いつもと変わらない無表情の日もあった。それのどれもが、私を糾弾している。

 クラエスは私を恨んでいるだろうか。いや、恨まないはずがない。


 うちわのような物で仰ぎ、たまに急いで薪を入れる。空気を途切れさせず、かといって炎をあまり大きくもしないように気を付ける。


 考え事をする余裕が出て来たのもいけないのかもしれない。始めの頃は、とにかく必死で無心に炎の番をしていたのだから。

 でも、そろそろここにはいられない。食べ物だけを貰って、王都へと行こう。こんなに仕事がダメダメで、服や給金までもらおうとするのは申し訳ない。

 エリエさんの「人手が足りない」というのは、きっと私へ対する気遣いなのだと思う。その証拠に、私がここに来た初日に火を炊いてくれた人は、この四日間どこにも見当たらなかった。

 それに、毎日朝が怖いのだ。起きたら、宿なんてどこにもなくて目の前には人買いがいて、私は両手を縛られている。お前は売られたんだ。どうしても頭にこびりついて離れない。限界だった。


 閉店後の調理場の掃除はエリエさんと私の役目だ。床を拭き終わったあと、台所にいるエリエさんを呼び止める。


「あの、エリエさん、私そろそろ行こうと思うんです」

「そんなに早く? まだいてくれると思っていたのに」

「はい。……他の方の仕事を取ってしまうわけにも行きませんから」

「そんなことを気にしていたの?」


 エリエさんはくすくすとおかしそうに笑い出した。


「ヤンなら休みが貰えると聞いた途端に、喜んで家に帰ってしまったのよ。またすぐに仕事だ、って呼び戻されたらがっかりすると思うわ」


 本当なのか嘘なのかは判断がつかない。でも、そのように言ってもらえる気遣いが嬉しいと思う。


「いえ、……もう行かないと」

「急ぐのね」


 はい、と頷く。エリエさんは何も聞かない。


「いつ出発するの?」

「エリエさんに聞いてから、出来るだけ早く出発するつもりでした」

「そう……それなら、あさってでもいいかしら? ヤンにいきなり明日から仕事よ、っていうわけにも行かないもの」


 エリエさんの言葉にどきりと心臓が跳ねる。

 なんてことのない、当たり前の言葉のはずだ。それなのに、レーナを思い出してしまう。この一日の猶予で、エリエさんが人買いにでも連絡をつけるつもりなのだとしたら、どうすればいい。私はまた裏切られてしまうのだろうか。


「はい、分かりました」


 無理に笑顔を作る。

 裏切られる前に裏切ればいい。私は覚悟をしたはずだ。


「また、帰りにでも寄ってちょうだい。アイナともっとお話がしたいわ」

「はい、このご恩は忘れません。また、来ます」


 上手く笑えたはずだ。



 夜も更けた頃に、部屋で準備をする。準備と言っても、持ち物は服ぐらいしかないのだからすぐに終わってしまう。エプロンドレスは丁寧に畳んで、寝台の上へと置いた。

 食べ物の置いてある場所も裏口の鍵がいつも開いているということも知っている。調理場で果物やツロを盗んで、そのまま裏口から街道に出ればいい。王都までの道のりが一本道だということも確認済みだ。何も不安な要素なんてない。

 それでも、足が動かない。扉を開けて階下に下りれば、すぐに終わる。


 そう、全て終わってしまうことが私は悲しいのだ。この何日か笑い合った関係が、一瞬で崩れ落ちる。そうだとしても、明日の朝を待つことはできない。

 扉を開けた。木の階段は年数が経っているにもかかわらず、きしむことがない。こんなときに有難いと考えてしまうなんてとんだ皮肉だ。エリエさん一家は宿屋の一階に住んでいる。気付かれたら面倒なことになってしまうのだから、慎重に行わなければならない。

 落ち着いて、走らずに調理場へと向かう。食堂は暗闇に満たされていた。しかし、闇に慣れた目にはなんてこともない。

 腰までの簡素な扉を開けて調理場へと潜り込む。

 戸棚の場所を確認しようとして振り返る。

 そこにはエリエさんがいた。


 驚きで声が出そうになるのを両手で塞ぐ。


 どうして。


「なんとなくね、なんとなく、今日出て行くんじゃないかな、って思ってしまったのよ」


 相変わらずゆったりとエリエさんは話す。こんなときでも、いつもと同じように笑顔を浮かべている。


「何で。私を騙したの」


 外には人買いがいるのだろうか。私は王都までたどり着けずに、ここで死んでしまう?クラエスと同じように。


「あなたがどんな辛い目にあったのか私には分からないわ。ただ、ご飯と服とお金、持って行き損ねたら可哀そうだと思ってしまって」

「嘘。本当は外に人買いがいるんでしょう。私を売り渡すために」

「信じて、とは言わない。でも、これを持っていって」


 エリエさんが布袋を軽く投げる。それは見事に私の腕の中に納まった。


「こっちに来ないで」

「また、アイナに会いたいと思っているのは本当よ」

「うるさい。私を騙したくせに」


 ゆっくりと後ずさる。扉を開けたら、走って逃げる以外の選択肢はない。


「今度はゆっくり一緒にご飯でも食べましょうね」


 背中が扉にぶつかる。勢いよく扉を開けて飛び出した。外には食堂よりも更に濃い闇が広がっている。周囲を確かめている余裕なんてない。ひたすらに街道を目指して走る。死にたくない。売られたくもない。私は生きたい。

 私の他には誰もいないことに気付いたのは、街道へと出てからである。

 目の前には闇だけが広がっていた。


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