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偽物聖女  作者: すとろん
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祈りは遠ざかる(3)

「森を抜けたら、荷物を捨てて街まで走れ」


 小声で簡潔に続く。ここではまだ襲っては来ないということなのだろう。やはり、森を抜けてからが危ないのだ。でも、私に笛を捨てて行くことなんて出来そうにはない。

 私から声を出すことも出来ずに、緊張感の中歩いていく。相手はこちらが気付いたということを分かっているのだろうか。分からないでいて欲しい。しかし、こんな森の中まで追いかけて来るような人々がそう簡単に油断するとは思えない。だいたい何人ぐらいいるのか、それすら私にはさっぱりなのだ。

 あいつらというからには、複数人ではあるはず。だからこそ、森の出口で待ち構えていたとしたら、私は本当に逃げ切れるのか。


 あれから、休憩は一回も無かった。休むなんて隙を見せたら、その時が危ないということなのだと思う。また、少しでも開けた場所には行かないようにクラエスが気を付けていた。木々が密集したところでは、剣を振り回すなんてことも出来そうにないし、比較的安全なのかもしれない。


 この森に流れる旋律を捻じ曲げて、敵へとぶつけてやることが出来ればいいのに。軽やかな音を押さえつけて、その底にある重低音を引き上げればいい。元々ある方向性を曲げるのではなく、少しだけ歪めることが出来れば。本来ないはずの流れは、森の中の敵へと覆いかぶさるだろう。


 私はなんと言うことを考えるのだ。思わず歯を噛みしめる。

 私の中に浮かんできた考えは、この森そのものを変えてしまうということになる。私ごときにそんなことが出来るはずもないと思えないこともまた、恐ろしい。

 私が無意識に歌った歌は、つまりこのようなことを仕出かしてきたのだ。湖の水が勝手に飛び出すはずもない。私の歌で、自然の流れるべき方向性を変えてしまったのだとしたら。

 人を殺す殺さない問答とは、また違う地点で遥かに恐ろしいのではないだろうか。自然を歪めて、私のしてほしいことを命令している? 違う。神々の宿る自然にそんなことを私はしたくない。でも、しているのかもしれない。確実なことは何一つ言えないのだった。もしお母さんがまだ生きていたのなら、いろいろなことを聞くことが出来た。お爺ちゃんも。でも、そんなことは仮定でしかない。皆私を置いていったのだ。


 荷物はずっしりと腰に来る重さである。周囲の景色を見る余裕や、話している余裕があったときは、そんなことは思わなかった。しかし、ただ前を見て歩くこの行軍の中では嫌でもその重さを意識させられた。この荷物の中には竜笛も入っている。私の命はこの荷物よりも遥かに重い。でも、この笛を捨てることは出来ない。祖母から母へ、そして私へ。それ以前もずっと伝えられて来ただろう流れを私で断ち切るなんて、そんな恐ろしいことはしたくない。


 森はどこまでも続いているようにしか思えない。かと言って、その終わりが見えるのも怖いのだった。

 目の前の私よりずっと大きい背中に話しかけてしまいたくなった。クラエスより恐いものが今は近くまで迫って来ているのだから。

 クラエスは一つ結びにした髪を周囲の木に引っかけてしまわないように、更に三つ編みにしている。すっきりと伸ばされている背筋で、それがゆらゆらと揺れていた。


 心なしか木々が閑散としてきている。また、クラエスの歩く速度が僅かに遅くなっていいるのだ。そのことに気が付いた途端、冷や汗が流れた。

 森の終わりが近づいている。追手が行動に移る前、森が途切れたところで走り出すのだ。荷物をしっかりと持って。

 だんだんと道が広くなり、二人で横に並んで歩ける程の幅となっていた。既に森の境目は見えている。その時、クラエスの大きい手がこちらへと延びてきて――

「走れ!」


 平らになった地面を駆ける。

 後ろにはクラエスが走る気配があった。目の前の空は曇っていて、その空を遮るように一つの黒い影が飛び下りて来る。その手には剣を下げていた。


「ひっ」


 喉から嫌な声が漏れた。私の何倍も滑らかな動きで走ってきて、影は剣を振りかぶる。その筋は銀色の光にしか見えない。


「どけ!」

「うわあっ!」


 クラエスの手に押されて、その剣の軌道から逸れるように転んだ。顔をかばって、思いっきり右腕を地面にぶつけてしまう。


「痛くない痛くない痛くないってば」


 私にしては機敏な動きで、起き上がりまた走り出す。後ろからは剣と剣のぶつかり合う硬い音が響いている。取れた包帯が白くたなびく。袖口もめくれて、醜い傷跡が丸見えになっている。


 そして、すぐ前には橋が見えた。この橋を越えれば街もすぐそこのはずだ。きっと行ける。疲れているのか疲れていないのかすらよく分からない。浅く繰り返し息をする。橋へ辿り着きそうなそのとき、土手の下から黒一色の男が現れた。構えた剣が煌めく。

 方向転換をしようにも後ろだって敵はいる。迷ったその時に、限界を迎えていた足はもつれ、私は無様にも再び転んだ。頬に痛みが走る。すぐに後ろを振り向くと、黒い男がゆっくりとした足取りで近づいて来ていた。

 クラエスはどこにいるのだろう。こんな男を見ていても始まらない。上手く命令を聞いてくれない足を無理やり動かして、立ち上がろうとする。クラエスは後方で、三人の男を相手に戦っていた。これでは、クラエスの元に向かうわけにもいかない。

 黒い男はすぐそこまで迫り、剣を顔の上まで振り上げた。

 次の瞬間、腕に熱い痛みを感じた。大丈夫死んでない。焦らないで落ち着け私。

 その代わり勢いよく避けたせいで、またもや地面に転がる。上からは先ほどと同じ剣が迫って来ていた。このシチュエーションには見覚えがあった。でも、こんなことで正気を失っていては、これからだって生きてはいけない。慌てて、横へと転がる。

 そして、その横には川があって、私は見事に土手を転がり落ちる。


「うわああああ!」


 その勢いで僅かな岸に留まれるはずもなく、濁流の中へと落ちる。全身が水に浸かって、凍えそうな程には冷たい。苦い水が口の中へと入る。慌てて橋を支える柱を掴む。橋の近くでよかった。他には掴めそうな石すらない。

 水に浚われそうになる中、柱を全力で抱きしめる。岸の方へと目を向けると、そこでは黒い男が手を伸ばしていた。しかし、私の死体が必要だとかそういうことなのではないか。だって、確実にあの男は私の息の根を止めようとしていたのだから。

 あの手を取ることは出来ない。かと言って、このままでは私が死ぬ。衣服は水に濡れて重りになっていて、それは荷物も同じだ。


「ごめんなさい」


 迷っている暇なんてあるはずがない。布の袋を川へと流した。茶色の水に飲まれて、その姿はすぐに消えてしまった。もちろん竜笛も共に。竜笛だって、私の命よりは重くない。

 黒服の男が川の中に入って来ようとしている。


「来ないで! 来たら、手を離すから!」


 いっそこの手を離した方が生き残る確率は高いのではないだろうか。水の冷たさが体力を奪っていく。でも、あの手を取ったらどうやったって生き残れない。


「うぐっ……」


 漏れるような悲鳴は私のものではなく、この黒服の男だ。その腹からは、剣の先が見えている。血が一筋流れ落ちた。その状態で男はゆっくりと振り返る。そこにはクラエスが垣間見えた。

 助けに来てくれたのだ。しかし、黒服の男も最後の悪あがきとばかりにその剣をクラエスの脇腹へと薙ぐ。それに気が付いたクラエスは身をひねるが、足場が悪く川の方角へと倒れ込む。もつれるようにして倒れた二人は、川の中へまで転がり込んだ。濁っていた水に赤いものが混じり、黒服が流れて行く。しかし、同時にクラエスもまた濁流の力には適わない。

 クラエスが掴んだものは、私の足だ。でも、この状態でどうしろというんだろう。一人ですら流されそうなのに、大の男一人の体重なんて支えられるはずもない。このままでは、二人そろってお陀仏だ。

 振り返ると、水の中で溺れる人影が目に入った。

 このままでは二人とも死ぬ運命なのだとしたら。

 それに私は自由になれる。

 心臓がどきどきした。恐怖も罪悪感もないまぜになる。でも、迷っている暇はない。迷っていたら私も死ぬ。

 もう一本の足で、クラエスの手を全力で蹴る。今クラエスはどんな気持ちだろう。レーナに裏切られたときの私と同じなのかもしれない。ごめんなさい、クラエス。力を緩めないで繰り返し、その手の指を狙う。次の瞬間、足が一気に軽くなった。でも、今のは私の仕業ではない。クラエスが自分で手を離したのだ……



「違う、違う。私がクラエスを殺したんじゃない……そんなはずあるわけないじゃん……」


 川岸で大の字に寝転がる。空にはいつの間にか暗雲が垂れ込めていた。でも、起き上がれそうにはない。水に浚われそうな体を、なんとか岸へと寄せたばかりだ。邪魔な黒服の男も足を掴むクラエスもいなくなれば、存外簡単だった。体力のほとんどは奪われてしまったとしても、命は助かった。


「生きている、かも。川に流されたって、どこかにさ掴まってさ……あんなしぶとい男が死ぬはずないよ」


 ぽつりと一粒滴が零れ落ちた。これから雨になるのだろう。

 左手を目の上へと乗せる。何もかもが流されて、あるのは体一つだけだった。


「だって、どうしようもなかったじゃん。私に何が出来るのさ。あのままじゃ、二人とも死んでいたんだ」


 悲しむ必要なんてあるはずもなかった。クラエスだって、私を利用しようとしていたのであり、私の存在価値がなくなってしまったら、容赦なく切り捨てていただろう。クラエスに殺される可能性もあった。それを私が先に実行しただけだ。


 私はあの瞬間、クラエスを殺す気だった。

 それは、どうやっても否定は出来ないのだ。私の命とクラエスの命だったら、私の命の方が大切だ。それに、これからあいつに何をやらされるかも分かったものではない。自由を取り戻して、私が私であるためには、ああするしかなかった。


「でも、クラエス、あの人、最後に、自分で手を離したんだよ……」


 土砂降りの雨が降り始めた。


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