祈りは遠ざかる(2)
「湿地ではなくなったようだな。川を出るぞ」
残念なことに話はここで打ち切りらしい。
クラエスが示した場所には、丈の短い草が多く生えていた。降り立って、足を乾かしてから靴を履く。そこで休めるはずもなく、クラエスはすぐに森の中へと入って行く。文句を言っても意味がないのだ。着いて行くことしかできない。
目の高さにある邪魔なツタでも、クラエスは薙ぎ払うなんてことはしない。足元にも慎重に、石の一つをひっくり返すことすらしなかった。私はそんなに上手くは歩けないのだ。あちこちに服を引っかけたりして、既にぼろぼろである。
「今日はそろそろ休もう」
クラエスがそう言い出したのは、薄暗い森の中にも夕日の色が差し込んできた頃だった。途中で一端休憩を挟んだだけだったので、相当森の奥へと入って来ているはずだ。今はぐれるなんてことがあったら、二度と森の外へ出られないような気さえする。
一本の大きな木の周りに乾いた地面が広がっている。眠ることは出来なくても、座って休憩できるなら十分だ。日本にいた時より、私は何倍も逞しくなっている。どんな環境にだって、人間は慣れることが出来るのかもしれない。どんなにあり得ないと思った環境でも、だ。
「ツロと干し肉を炙っても……、なんて、森の中で火は無理だよね?」
座り込んで、荷物の中を漁る。食糧はすぐに出て来たものの、ツロと呼ばれる保存用に作られた硬いビスケットも干し肉も食べたくなんてない。特に干し肉は、歯が取れるんじゃないかと思いたくなる程には硬いのだから。ツロなら、火で炙れば柔らかくなって、ほんのりとした穀物の甘さを味わえる。また干し肉でスープを作ることも出来れば、十分な夕食にはなるのだ。しかし、ここではどちらも諦めるしかない。
「諦めろ。ところで、木には登れるか?」
クラエスが見上げたのは、目の前の多くの葉が茂っている木であった。その言葉にとんでもなく嫌な予感がする。
「登れないこともないとは思うけれど、この大きさは厳しいかな……?」
一番下の枝でさえ、私の身長の二倍近くはありそうだ。木登りなんてやんちゃなことは、小さい頃にちょっとしたことがあるだけである。高いところが特別苦手なわけではないけれど、この高さの木を易々と登れる女の子は少ないだろう。
まさか見つからないために、この上で野宿をするとかそんなことを言い出すのではあるまい。そんなことは無謀の一言だ。眠らなくてもその内バランスを崩して、見事に落下をする自信がある。
私の顔色を見たのか、クラエスは他の木を物色し出した。確かに他の木の方が低いけれど、そのような問題でもない。木の上は寝るとか休むとかする場所ではなくて、私にとったらアスレチックなのだ。
「木を登ることは出来ても、その上で休むなんて絶対無理だから」
クラエスはあからさまにため息を一つ吐く。
「そこで休んでもいいけどな、お前を囮にするってことだぞ。それに、夜には追手だけじゃない。夜行性の動物だっているんだ」
つまり、この男はどこかの木の上で休むつもりなのだろう。どんだけ器用なのだ。そして、その言葉にどきりとしてしまう。囮なんて怖いに決まっている。それに、狼みたいな獣に襲われる可能性もあるということなのだろうか。
「夜行性の動物って?」
「ここらへんは、木の密度が濃いからそんなに大型の動物はいない。でも、万が一ということもある」
追手も獣も万が一ばかりだ。木の上に登って骨折をする方の可能性が高いのではないだろうか。私にとっては、確実に危険の一つだ。
「じゃあ、それでいいよ。本当に、木の上なんて無理だもの」
「そうか。分かった。一応見張ってはいるが、何かあったら知らせろ。明日の夜明け前には出発する」
どうやって知らせるっていうんだ、などという時間もなく、クラエスはどこかの木の上へと消えていった。
「薄情者め」
聞こえてませんようにと願うのも忘れない。それぞれ目的があって一緒の道を辿っているのだから、これぐらいの淡泊さは当たり前だ。もしかしたら隣にいてくれないかな、なんて思ったのは気のせいなのだ。
一人寂しく干し肉を噛む。噛めば噛む程味わい深いけれど、なかなか切れない。空腹を抱えるよりはましなのだからと、水でなんとかツロと干し肉を流し込んだ。最後に少量のドライフルーツで口直しをする。どこの世界でも、干された果物は甘さが凝縮していておいしい。
荷物を横に置いて、コートをかけてあとは眠りの世界に入るだけだ。
これは夢だ。直感的にそう思う。
森は森なのに、今までいた森ではない。目の前の開けた場所には小さな泉がある。泉の周りには苔が群生していた。木々がこの場所を囲んで綺麗な円形を作っている。そして、その泉の中で見たことがない程大きな鳥が水浴びをしていた。雉のようだけれど、何倍も大きい。体全体は真っ黒なのに、頭にある冠のような羽は燃え立つ夕日の色だ。それと同じ色を尻尾にも持っている。
「森の主みたい」
水をまとう姿はきらきらと輝いていて、神々しいという言葉が似合う。そして、その鳥は水浴びをするのをやめると、まっすぐに私を見つめて来た。
何故この森にいるのか、と問われているように思えた。鳥なのだから、意志疎通など出来やしないのに、何かを話さなくてはならない、そんな焦りが生まれる。鳥の視線が逸れることはない。
でも、来たくてきたわけではないのだ。寝る前にさっさと消えて行ったクラエスの姿を思い出す。
「知りません、そんなの。自分の意志ではないことだけは確かです」
私の一言をきっかけにして、その鳥は私の方へと近づいて来た。何か言葉を間違えただろうか。背筋が冷たくなる。鳥は私の顔に視線を注いだあと、可愛らしく頭を傾けた。そして、少しずつそばに寄ってくる様子は神社に居座っていた猫たちを思い出させる。
「こ、こう?」
手を伸ばして、その橙色の羽が乗る頭を撫でてみた。猫なら顎の下を撫でると喜ぶのは分かっているけれど、鳥はいまいち分からない。先ほどまでの緊張感は、清々しい程にどこかへとすっ飛んでった。
羽を少しだけ浮かしてみるのを繰り返していて、なんとなく喜んでいるのかななんて思う。濡れたように黒い瞳には、もう何の感情も見えない。その内、だんだんと意識が薄れていき、景色も溶けたように消えた。
「夢を見たよなあ」
結局夜には何もなかった。夜がうっすらと明け始めたらしい。クラエスがそういうのだから、そうなのだろう。薄暗い森の中では何も見えないのだった。こんな中を移動する方が危ないのではないかと思ってしまう。
「おかしい。昨日は何であんなにも動物の気配がしなかったんだ?」
「鳥を撫でて……、それ以外にも何かあった気がするんだけど」
あれほどよく眠れたのは久しぶりだ。こんなところでもしっかり眠れる程、疲れ果てていたのだろう。おかげで、昨日の運動の量の割には体はすっきりしていた。筋肉痛の痛みもそれ程ではない。
「今日中にはこの森を抜けることが出来るの?」
「抜けられなければ、獣の餌だな」
つまりは、追手に見つかるだろうということなのか? 私には感じ取れない何かをクラエスは感じ取っているのかもしれない。今朝も、どこかへと偵察しに行った様子だった。喋っている場合ではないのだ。少しでも速く、また慎重に歩かなければならない。
やがて太陽が上へと登り、日の光がようやく森の奥まで届くようになった。
沈黙が続くと、緊張感まで芽生えて来てしまう。もしかして、実は背後に敵が潜んでいるのではないだろうか。気が付いていないのは私だけで、今も追手はチャンスを狙っている――
そんなことはないと言い切りたい。また歌うことになってしまうのならば、命を失うよりはいい。人を殺しても、自分だけは生き残りたい。
弓なんて使われたらどうすればいいのか分からない。向こうは戦いに慣れている人なのに対し、私はただの素人だ。クラエスが守ってくれるとしても、背後から射かけられてしまったら。
昨日ののんびりした空気が嘘のようだ。前を歩くクラエスが、気配を伺うように時々立ち止まるのも原因だ。クラエスは今までで一番緊張している。
「見つかった」
死刑宣告のような言葉だ。風の音に紛れた小さな呟きが、私の心臓を掴む。