祈りは遠ざかる(1)
「森の中を、行く?」
クラエスが頷いた。
おかしいとは思っていたのだ。少し休んで通過するはずだったテラルマ手前の街に、一泊することとなったのである。強行軍とまでは行かないけれど、それなりに急いでいた。それなのに、途中の街で泊まるなんて、とてもクラエスらしくない。
この人が私を気遣って、なんて思えるはずもなく。買い物も終わり、明日に向かって寝ようかというときに、この人は言い出したのである。
「ああ」
「……何で?」
聞けば教えてくれるということがどんどん少なくなっていった。私はこの人の同行者ではなく、荷物にでもなってしまったかのような気がする。
「森の方が安全だからだ。奴らの裏をかく」
クラエスには横にはならない。剣を抱いて、寝台の上で壁にもたれているだけだ。王都に近づくに連れ、クラエスの緊張感が高まるのが分かった。
この人は何を恐れているのか。クラエスの弱みとなりうるのなら、それを知りたいと思う。
「分かった」
奴らって誰? その一言を飲み込む。
「明日の夜明け前に出発するぞ」
「はーい」
布団を顎の下まで持ち上げて丸まる。
このままの状態で王都に着くわけにはいかない。私が持つ、クラエスに対抗できる可能性のある力は歌しかない。
だけど、全く私の意志では動いてくれないこの歌を上手く操るなんて、そんなことが出来るのかとても疑わしいと思う。それに、万が一、万が一のことをクラエスにしてしまったら。……夜は頭の中が暗くなりがちだ。
でも、王都に着く前に何か仕掛けてみるのもいいのかもしれない。
◆◆◆
森は私が思っているよりもずっと森だった。木々が密集して、太陽の光は途中で遮られ、地面はじめじめと水分を多く含んでいる。
歩きにくい上に暗く湿っていては、良い部分の一つも見つからなかった。富士の樹海ってこんな感じなのか、なんて思ってしまう。足が痛くても休む場所なんてどこにもない。少しだけでも開けた場所を目指して、歩いて歩きとおして、それしかないらしい。
無言が続く。湿地帯というべきなのか、泥が多くなり、足跡がくっきりと残るようになってしまった。
「これはダメだな」
前の背中が止まる。その言葉に答える余裕なんて、私にはない。いっそ座り込んでしまいたいけれど、泥の中でそんなことはどうやったって出来ないのだ。
振り返ると、二人分の足跡がくっきりと残っていた。随分と分かりやすい痕跡だ。
「行くぞ。下を向いて川を探せ」
「え? 川?」
「これだけ土に水が浸みているんだ。水源がどこかにあるはず」
本当にこんなところまで追ってくる人なんているだろうか。だいたい人の気配なんて感じない。鳥と鹿っぽい何かと、垣間見えるのは動物の姿ばかりだ。
しばらく行くと、本当に小川を見つけることが出来た。
「川なんて探してどうするの?」
「靴を脱げ。川の中を行くぞ」
暑い上に泥でどろどろの状態だったのでなんとも嬉しい言葉である。いそいそと靴を脱いで、なんとか荷物の中に突っ込み、水の中へと一歩踏み入れた。
川底には丸い小石が広がっているようで滑りやすい。しかし、それさえ抜かせば暑い季節に、川の中に足を入れるなんてまるで水遊びのようだ。
川を遡っていくと、流れの合流地点が見つかる。そのより細い方を登って行く。獣道が川沿いにあり、森の生き物たちがこの川を大切にしていることが分かった。時々、水を飲みに来たような生き物をも見つける。魔物とやらに見つからなくてよかったと思う。考えていたより、攻撃的な生き物ではないのかもしれない。
川の水はぬるさなど全く含んでいない。底の石を足の裏で感じながら楽しんでいたのが、そんな余裕はなくなってきた。
「冷たい」
冷たすぎる。足の指の感覚など既にない。
「我慢しろ」
我慢も何もこの背中が前に進んで行くのなら、私はついて行くしかないのだ。
「休憩はまだ?」
「もう少しこの川を上って、ちょうどいい場所があったらそこで休もう」
分かったと小さく呟いて、あとは黙々と歩き続ける。
魔術があるのなら、一瞬で目的地まで飛ぶとかそんな便利なことがあってもいいのにと考えてしまう。しかし、どうやらこの世界の魔術はそれ程便利ではないようだ。リオだって、炎の魔術とかそういう感じのゲームのような技を使うのではなく、普通に剣を使っていた。使われていた時のことを考えると恐ろしいけれど。
「この森を抜けると、王都まではどのぐらいなの?」
「王都のアーセンまでは、もう遠くない」
声は森の中には響かない。土や木々の葉が音を吸収してしまうかのようだ。
「そう、なんだ」
王都に着く前に、私はこの人を果たして信用できるのか確かめなければならない。王都に入った後に四の五の言っても仕方ないのだから。
「これからどういう風に行くの? せめて少しは知らないと、いざというとき怖いし」
クラエスが一瞬黙る。どこまで話していいのか考えているに違いない。
「……森を抜けるまで、あと丸一日程度かかるはずだ。そして、森を抜けてすぐ一つ橋がある。その橋を渡らなければいけないが……、そこが難しい。おそらく、そこでまた襲撃を受けるかもしれない。あいつらが、間抜けにも全員街道の方へ行ったなんてありえないからな」
「全員……」
この男はどれだけの人数に追いかけられているのだろう。しかも、確実に襲撃があると言い切るなんて。ならば、ここまで気を付けて来たのも時間稼ぎでしかなかったということになってしまう。
「その橋で襲撃を受けない可能性はないの?」
「この森の中でうまくまくことが出来れば問題ない。俺一人なら行けるが、森の道に慣れない者は痕跡を残しやすい。あいつらは、それを見逃さないだろう」
学校行事で山登りぐらいは行ったことがあるけれど、こんな本格的な森の中に立ち行ったことはない。あっても獣道ぐらいしかないのだから、地元の人ですらあまりこの中へは入らないのではないだろうか。ならば、クラエスは何故この深い森について詳しく知っているのか。謎ばかりだ。
「痕跡、そんなに残しているかなあ……。なら、話していても大丈夫なの?」
「声が聞こえる範囲に誰かがいるのなら、それはもう手遅れだ。そうでなくとも、俺が気付く」
クラエスが背後からでも分かるように、自らの剣を示す。赤茶けた色の地味な鞘だ。それでも、それを見るとあの日のことを思い出す。右腕が少し痛んだ気がして、目を逸らした。
「最悪、私が歌えばいいのか。ここは、旋律の音がとても大きいし、歌おうと思えばすぐに歌えるのだろうな」
最も、いつだって歌の中に引きずり込まれそうなのだ。この場所だって例外ではない。小鳥のさえずりとも違う、心を浮き立たせるような音楽が鳴っている。この旋律たちは、自然が多い場所ではより生き生きとした表情を見せるのだ。
「歌いたいのか?」
「歌いたいはずないじゃない」
「なら、歌うな。俺の剣で十分だ」
「うん……」
俺の身が危なくなったら歌え、なんて言われなくてよかったと思う。そんなことは言うはずもないと分かっていたけれど。口では何と言っていても、私が有用である限り守ってくれるのだ、この人は。
「ここは、その、音とやらが、そんなに大きく鳴るのか?」
「人が大勢いる場所より、自然が多い場所の方が音は大きいの。昔からそうだった。湖のそばや森の中の方がよく聞こえる。でも、私の感情、怒りとか悲しみとか、そういうものによっても音の大きさは違うんだ。他の人の感情に影響されるときもあって……、でも、小さい頃はそれが普通だと思ってた。というか、ごく最近まで」
話していると、足の冷たさが紛れる。クラエスはこの冷たさなんてどうとも思ってないのだろうか。同じ人間なら体の仕組みだって同じはずなのに。ふとレーナたちのことを思い出した。村の人々は、私の何倍も働くことが出来た。頑張っているはずなのに、体力が追いつかなくて悔しい思いをしたのを覚えている。生きていた環境の違いなのだ。
クラエスはどのように生きて来たんだろう。私の想像もつかないような人生を過ごしてきたのかもしれない。ずっと追われるような生活をしていたのだとしたら。そんなことを考えてしまうと、クラエスに同情しそうになる。この人がどのように生きて来たかとかそんなことに、今は何の関係もない。それに、私からの同情なんてこの人は鼻で笑い飛ばしそうだ。いや、あくまでも例えで、この人がそんな風に感情を表すとは思えないけれども。
「やはり分からないな。鳥の鳴き声や、風に木の葉がこすれる音というのは聞こえるが、それが楽団の奏でる音楽のようにまとまった旋律には聞こえない」
「旋律は、どんな楽器の演奏する音とも違うの。それこそ、鳥の鳴き声や木の葉の音、波の音とか、そっちの方が近いと思う。それが一つの方向性を持って、綺麗に重なり合う。ううん、やっぱり言葉では説明出来そうにないや。むしろ、聞こえない方が不思議だなあって思っちゃうんだよな……」
王宮にいるという聖女はどのように力を使っているかが気になった。彼女なら私と同じような感覚を持っている可能性だって大きいに違いない。
「これは、聖女の力であるのだろうか。代々聖女は力を持つ。聖女だから力を持つのか、それとも力を持つ故に聖女になったのか。今までの彼女たちがどのような力を持っていたのか、調べてみた方がいいかもしれないな」
クラエスにしては珍しく饒舌だと言えた。それだけ、私の力に関することが彼の中で重大な意味を持つのかもしれない。この調子でこれからの目的についても話してくれれば、私は大変助かるというのに。