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偽物聖女  作者: すとろん
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湖の畔にて(2)

 フードを深くかぶって、足元に気を付けながら一段一段下って行く。笛を持っていくか悩んだけれど、結局は辞めておいた。水の涼やかな響きを奏でてみたいとは思うけれど、実現できないのならみじめなだけだ。


 階下は何人かテーブルについて談笑している。もうすぐ昼時らしいから、これから混んでくるのかもしれない。店内を少し見渡して、厨房の方に少女の影を見つける。


「あの、すみません、湖ってどう行けばいいですか?」


 そんなに遠くなければいいのだけれど、と思う。


「湖は遠くないわ。店の目の前の道を、左に曲がってずっとまっすぐ行くと、そのうち見えてくるよ」


 少女は私の様子を怪しむこともなく、ほがらかに答えてくれる。きっとこの宿の看板娘を務めているに違いない。彼女に礼を言ってそのまま店を出る。

 ずっと馬車に座っていて体は疲れていたのだ。それなのに、太陽の下で足を動かしていると、どこまでも行けそうな気分になってしまう。体を自由に動かせることとは、こんなにも心地がいい。

 くるりと一回転したくなる。道は緩やかな下りになっていて、駆け出してしまえたら風が気持ち良さそうだ。

 石畳は小気味のいい音が鳴って、まるで一つの旋律を奏でている気分がする。誰かが誰かを呼ぶ声がして、誰かが何かを落とした音が聞こえた。笑い声も。


 道をしばらく行くと、水場が近い独特の匂いがした。水源から流れ出た水は、何故この場に留まろうとしたのだろう。

 周囲の緑も多くなり、子供のはしゃぐ声と水で遊ぶ音が聞こえる。そっと、フードを持ち上げて、辺りを見渡した。


「うわあ……!」


 広がる湖は、その対岸は決して見えない。どこまでも続いているのに潮の香りはあるはずもなくて、ただ水の爽やかさが漂う。太陽の光を跳ね返す銀色が透明度の高い青に混じって踊っていた。


 子供たちが遊んでいる近辺には何艘かの木船が止まっていて、これで漁をするのだろう。

 ボードは見たことがあっても、木をくり抜いただけの船など見たのは初めてだ。何艘かはまだ漁の最中なのだろうか。父母の仕事道具だろう船を子供たちは完全に遊び道具としていて、それなのに粗雑な扱いは決してしなかった。やがては自分も船を持ちたいという羨望と、家計を支えている故の尊敬の気持ちがあるのかもしれない。


 もう少し湖岸沿いを歩いていこう。

 予想以上に私は浮かれているのだと思う。白い砂の道は曲がりくねりながらどこまでも続いていて、その先の風景はどうなっているのだろうと考えると胸が躍るのだ。

 先ほどの船着き場に木々はほとんど見られなかったけれど、歩いていくとまばらな緑の姿が見え始める。多種多様な緑色が、優しく吹く風を受けて揺れていた。

 砂が土に変わった頃、小さな入り江を見つけた。そこにはまだ砂の名残があって、ちょうどいい子供の遊び場となっていそうなのに、誰もいないのだった。


「ちょっとだけ、いいかなーなんて」


 木と皮で出来た靴を脱いで、一緒にコートも畳んで置いておく。押しこめた長い髪を解放すると、首に涼しい風があたって気持ちがいい。ズボンを短く折ると、恐る恐る水の中に入って行く。


「冷たい!」


 僅かにある波がくるぶしまで包み込み、そしてまた帰って行く。湖の中に一歩一歩入って行き、やがて水はひざ下までを覆う。遥か遠くでは水色の空と青色の水との間に一本の線だけが横たわっていて、他には何もなかった。


「余裕だねえ」


 男の声が聞こえて後ろを振り向く。そこには馬車で乗り合わせた商人のお兄さんの姿があった。

 何か言葉をかけたいのに、声が出ない。お兄さんの様子は馬車の中とはあまりにもかけ離れていた。にこにこと人好きのする笑顔はそこにはなくて、斜に構えた笑みがその顔に張り付いている。


「えっと……」


 思わず一歩後ずさる。砂の感触がした。


「誰?」


 引きずり込まれそうな紺色の瞳だ。枯葉色の髪は風にざわめいて、軽薄さを感じさせた。


「名前も覚えてくれなかったの? リオと申します。どうぞ、よろしく」


 男はわざとらしい程に、大げさにお辞儀をした。

 私の黒髪が背中を流れる感触がする。心臓がどきどきと大げさに音を立てて、直感が追手だと告げていた。

 それでも、逃げ場はこの広大な湖にしかない。


「私、そろそろ帰るから……」


 言い訳がましいことを口にしても、足を動かすことはちっとも出来なかった。リオというこの男の雰囲気に呑まれてしまい、どのように行動すべきかちっとも思い浮かばないのだ。


「また、これで髪を隠して?」


 リオがどこからかナイフを取り出して、そのナイフの刃を下に向けたまま私のコートの上に落とす。ざくりと嫌な音がして、それは直立不動に突き刺さったのだった。

私はその煌めきに視線を奪われていた。銀色の光に、右手の痛みがぶり返したような気さえする。あの鋭い磨かれた刃が怖い。


「大丈夫、……じゃないか、お嬢ちゃん?」


 男はいつの間にか後ろに回り込んでいて、私の首にナイフを当てていた。呼吸が浅くなって、手が震える。自分の身体ではなくなってしまったようだ。


「出て来たら? クラエス様」


 クラエスという言葉ばかりが大きく聞こえた。目を前方に向ける。すると、そこにはいつも通りのクラエスが立っていた。


「ご、ごめんなさい……」


 消え入るような声だと自分でも思う。クラエスはあれだけ油断するなと言っていたのに、私が何も聞かずに出歩いたからこのようなことになっているのだ。でも、後悔をする余裕もない。首元のひんやりとした冷たさが、私にあの夜を思い出させるのだ。


「ほら、女の子がこんなにかわいいこと言っているんだよ? 武器を捨てるってのが、男ってもんじゃない?」


 湖の冷たい水が足を撫でていく。さらさらとした水が私を大丈夫だと慰めてくれた気がした。


「その女よりは俺の命の方が大切だからな」


 クラエスの言葉は紛れもなく彼の本心だろう。私だって、何があったとしても私自身の命を優先する。それだというのに、クラエスがこの男に立ち向かってくれるのは私に利用価値があるからだ。


「じゃあ、この子がどうなっても、いいんだ?」


 首に痛みが走る。鉄臭い匂いがした。私の血だ。

 銀色が少しずつ私の肉を切り裂いて、その中の血管までたどり着く様子を考えてしまう。目の前が真っ赤に見える。私はここで死ぬのだろうか。

 クラエスの口が動いて何かを叫んでいるように見えるのに、音は聞こえない。


 世界から私だけが隔絶された気分だ。先ほどの緊迫した雰囲気は、ふとした瞬間に消えていて、水の囁く声ばかりが聞こえる。

 この水は、遥かなる北の山からやって来たのだ。大地から湧き出た彼女たちは出会いと別れを繰り返して、少しずつ流れを太くしてこの地までやってきた。運ばれた栄養は田畑に辿り着き、やがて作物となる。魚たちの揺りかごとして、昼も夜も風とともに流れ続けた。

 しかし、常には穏やかな彼女たちでも、ときに怒りと悲しみをその身に込める。水は生命を生み出すのと同時に、生命を奪うのだ。


 旋律が聞こえる。

 痛みも現実も既に遠ざかっていて、私は水になっていた。自由にどこまでも泳いでいくことが出来る。銀色の背びれを持つ魚に道を聞いて、漂う水草を頼りに底へと向かう。水泡が私とは逆に水面を目指していき、やがては光と同化した。水底は暗く、私自身の身体さえ認識できなくなっていく。闇が何もかもを包み込んで、光の屈折による差異を消しているのだ。水も魚も私も何の違いもない。その時、闇自身がとぐろを巻き、蠢き始めた。闇と更に濃い闇が優美な形を作り、しなやかに上へと昇っていく。湖に暮らす神が目を覚ましたのだ。

 旋律とは音であり、音は神に通ずる神楽となった。




 意識が蘇る。

 私の両肩には、クラエスの手が置かれていた。


「クラエス……」


 目の前のクラエスはぼうっと遠くを見たままで、こちらに視線をやろうともしない。周囲を見渡す。先ほどの剣呑けんのんな雰囲気はなく、またリオもいなかった。


「水の蛇が……、魔術なのか? いや、聞いたこともない」

「クラエス? 何が起こったの?」


 私は全身水をかぶったようにずぶ濡れになっていた。記憶がとても曖昧だけれど、私が歌を歌ったのだということは分かった。音を奏でろという旋律はひどく小さくなっていて、同時に胸を押さえつける圧迫感もなく、開放感が全身を包み込んでいる。しかし、恐れも感じた。


「私は何をしたの?」


 クラエスの目の焦点が私に合わさる。彼もまた全身ずぶ濡れになっていた。髪の毛がまだら色になっていて、金に輝く一筋が頬に張り付いている。


「……水で出来た蛇が、あいつに絡み付いてさらっていった。お前の歌はなんなのだ」

「分からないよ。私だって、知りたいのに」


 首の傷がじくじくと痛みだす。場所が悪かったのか、血が止まらない。しかし、それ程大きな傷でもなく手当をきちんとすれば、問題は無いはずだ。それだけが今この場で起きたことの証拠であり、他は何事もなかったかのように凪いでいた。


 クラエスの髪から水が一筋落ちた。


「クラエス、帰ろう。……ごめんなさい」

「ああ、そうだな」


 クラエスが湖の中から出て行く。

 後ろの一面に広がる湖を振り返る。太陽の位置が変化した他には何の違いもなく、静かに穏やかに佇んでいる自然があるだけだった。


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