旅立ち(3)
「所詮見方が違うだけだ。人を殺す力も、敵を殺せば勝利へと導く力となる」
思考が暗い方に向かって行く。
この人は私にとんでもないことをやらせようとしているように思える。人を殺すなんてそんなこと出来るはずがない。
でも、もしかしたら、アルバート様は死んでしまったのだろうか。暑いぐらいの室内だったのに、体感温度が急に下がってしまったかのように感じる。
「王宮にいる聖女様は、どんな力を持っているの?」
どんな人なのだろう。私と同じ経験をした唯一の人で、もしかしたら苦労を語り合えるかもしれない。彼女だって、こんな世界に来てしまって、悩んだり困ったりしているはずだ。
「彼女の力は植物を成長させる力だ。聖女として、とても分かりやすい力だな」
「そう、なの。太陽のような人だね」
言葉で聞いているばかりでは信じられない。けれど、飢餓を知っているこの世界の人々にとっては、希望の光に見える力なのではないかと思った。
「ああ、美しい人だと思う。話し込んでしまった、夕食としよう。そこで待っていてくれ」
あんなそれこそ美しい人から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。聖女様とやらは、絶世の美女なんだろう。そしたら、民衆受けもいいに違いない。見目麗しい方が国の代表として役に立つものだ。私は残念ながら、典型的な日本人顔で二重ですらないけれど。
「ちょっと待って、クラエス! そんな力を持っている人なら、……私の腕を治すことも出来ないかな?」
ちょうど彼が扉を開けたところで、私は可能性を思いついてしまった。無くなってしまった腕を再生する技術は現代の日本にはない。でも、魔術や聖女が存在するこの世界なら、もしかしたら出来ないことだって、出来るのかもしれない。
クラエスは少し考える素振りを見せる。
「詳しくは分からない。しかし、出来るかもしれないとは思う」
「本当に、クラエス!」
ああ、と言い残して彼は外へと出て行く。
出来るかもしれないということは出来ない可能性だってあるということだけど、零ではないのだ。布団の上に両方の腕を揃えて置く。
左手は何の変哲もなく、五本指が揃っていて、手のひらもある。それなのに、右手は手首の細いところでばっさりと切られてその先には何もない。替えられたばかりの包帯でその中身は見えない。
私はいつだって現実に直視するのが怖くて、逃げてばかりいた。そして逃げた先でまた現実に追い詰められ、逃げなければこんな大事にはならなかったのにと後悔するのだ。
もうそんなことは繰り返してはならない。
手を治す可能性があるというのなら、それを逃すわけには行かない。後悔するべき時間ではないのだ。この世界で手を無くしたのなら、この世界で治してもらうのが筋というもの。
私だってもうすぐ大学生ではなくなり、モラトリアムの時間なんてとっくに過ぎ去っている。
覚悟を決めなくてはならない。
自分のすべき優先事項と、そのためなら何もかもを犠牲にして、恨まれても憎まれても前へと進む勇気を。
腕を治して、私の家に帰る。
私の望みはそれだけ。
気が付いたら寝てしまっていたようだった。暗くなりかけていた部屋ではなくなり、窓からは光が差し込んで来る。かすかに昼時のお店の呼び込みの声も聞こえた。
そういえばお腹が減ったなと、呑気なことを考える。
寝台のそばには机が寄せられていて、その上にはおかゆのような何かが器に入っていた。
クラエスはいないようだ。
これを食えってことなのだろう。
スプーンがご丁寧にも添えられている。行儀が悪いけど、と思いながら器を左手で持って布団の上に置く。まだベッドの上から起き上がるような体力はないし、他に手段はないのだから。
左手でスプーンを持って口元に持っていく。なんとも食べづらい。
右手で器を持ち上げることは出来ないから、布団を汚さないように木をつけて食べなければならない。これも右手が治るまでの我慢だと自分に言い聞かせる。
ほとんど味のないおかゆのような何かはおいしくない。病人食ってつまりこういうもののことなんだろう、と思う。入院なんてしたらこんな味気のないものを食べ続けることになるのだろうな。
覚悟を決めるということ。
昨日私が寝る直前まで考えていたことだ。レーナもエレオノーラ様もクラエスも、自分のすべきことを見定めて覚悟を決めている。それが私にとって好都合なものではなかったけれど。
私はいつも口ばかり達者だ。希望的観測を口にしては、結局達成できない。
でも、今回は達成するしかない。達成できなかったら、私の腕はずっとこのままで、家に帰れても社会人になれない。なりたくは、ないけど。
聖女様とやらは、地球に帰りたいのだろうか。
私と聖女様の持つ力は正反対だ。人を生かす力と人を殺す力。
誰かをお腹いっぱいにすることが出来るというのは、間違いなく幸福な力であって、それに対して私の力は本当に禍々しい。
黒い虫を呼び出す力なのだろうか。聖女というより魔女の方がふさわしい気がする。
そして、何よりクラエス。今はこの人からしか情報を得られない状態だ。
何もかも信じるわけには行かないと思うけれど、この人が聖女関連の情報を多く持つことも確かだ。この世界で聖女様に会いたいと願うのなら、彼と共に行くのが近道なように思う。
私の意思がどうあれ、彼は私の両足を切り落としてだって連れて行くのだと明言しているのだけれど。
でも、これで私にだって彼に着いて行く理由が出来た。だけれど、一体どこに行くつもりなのだろう。
それに、彼に着いて行くということは、私は人を殺さなければいけないのだろうか。私の力は誰かの助けになるようなことは出来なくて、その代わり誰かを襲うことなら出来る。
アルバート様の言っていて、戦争という言葉が頭に染みついて離れない。
少しずつ考えて行くしかない。
怯えてばかりいるわけにも行かないし、私の判断が正しいかどうかなんて、どうせ今の私には分からない。
おかゆを食べ終わって、お椀に入った痛み止めを飲む。とても苦い。そのそばに、飴のような包みを見つけた。粗雑な色紙を開けると中には、琥珀色のかたまりが入っている。クラエスが用意したのだろうから、きっと悪いものではないはずと思って、口を開ける。
「あ、これ、べっこう飴だ」
懐かしくて素朴な味がする。これを舐め終わったら、水を飲んでもう少し寝よう。体力はまだまだ戻っていないのだから。
再び目覚めたときには、目の前にクラエスがいた。何か荷造りをしている。
「おはよう、クラエス」
「もうそろそろ昼だぞ」
そうでしょうとも。眩しい光に照らされた鼻梁がとても美しいです。これで動かなかったら、古代ギリシャの彫刻のような造形だ。彫が深くてまつ毛がばさばさで、男らしく薄い唇はセクシーだ。芸能人か、なんて考えている私の脳はきっと寝ぼけている。
数日前の慌ただしさが嘘のような、平凡な目覚めだ。
「どこか行くの?」
「そうだな、お前が体力を取り戻したら、そろそろ出発する」
そのための荷物なのだと改めて気が付き、目が覚める。
「どこに?」
「アーセンスチアの王宮に」
聖女様は王宮にいるという。この人と私の目的はこんなにも重なっているのだ。でも、私が何を考えているか知らせるわけにはいかない。クラエスが本当は何を考えているかなんて、私には分からないのだもの。
「どれぐらいかかるの?」
「一月ぐらいだ。まずは、隣のリースまで馬車で向かう。体の調子はどうだ?」
「えっと……、一月ってどれぐらいなのかな?」
クラエスが冷たい目で見てくるので、少し萎縮してしまう。知らないものは知らないのだ。
「一月とは、月が満月から再び満月になるまでの期間を言うのだ。四十日程で一回りして、それを十回繰り返せば一年となる。もうすぐ満月になるから、王都に着くのも満月の前後だろう」
「そうなんだ、ありがとう」
「知らないのは当然だったな、すまない」
荷物の方を向いたままで、彼は謝罪をする。素直なのか素直じゃないのか、分かりづらい人だ。
「ううん、そんなことないよ。体はまだ全然本調子じゃない、と思う」
「それはそうだな。こんなに早く回復するはずもない。でも、時間もないんだ」
五日も寝ていて、しかも腕が無くて熱も出ていたのだ。この数日でよくここまで回復したものだと思う。そのことはクラエスも分かっているのだ。
クラエスが近づいてくる。椅子に座って、私の額に手を当てた。
「熱は少しあるな。あと何日か様子を見て、少し街で散歩もしよう。急がなければいけないが、体力が戻らないのでは何かがあったとき、大変になる」
窓からの風が、クラエスの淡い茶の髪をそよがせる。まるで一枚の絵のようだ。
「ねえ、クラエス。私お腹が空いたよ」