旅立ち(2)
先ほどまでの痴態が恥ずかしい。水と布で顔周りを拭いて、一先ずは落ち着いたのだった。
男は、私の右手の包帯を解きにかかっている。解いた包帯の中身を直視することが出来ずに、顔を背けてしまう。男は何も言わなかった。
「私はコハル。あなたの名前は?」
壁の方を見ながら男に問いかける。
「クラエスと呼んでくれ、コハル」
落ち着いた今となっては疑問が次々と湧き上がっていた。
「クラエス……、何で私はいきなり言葉が分かるようになったの? ずっと分からなくて、困っていたのに」
「魔術だ。意志の疎通をはかる魔術を使わせてもらった」
自身に魔術とやらが使われたのは初めてだ。というか、そんな簡単なことで言葉が通じるようになるなら、私の苦労は何だったのだろう。
「あと、ここはどこ? 娼館ではなさそうだけど」
「五日前の騒ぎに乗じて、セスチェールからアーセンスチア国まで抜けさせてもらった。ここは、セスチェールとテリエ川を挟んだ街だ。ニカリアという」
カタカナの言葉ばかりが出てきて覚えきれない。テリエ川というのは唯一聞き覚えがあった。海が近いために川幅がとても大きく、そしてその川こそがアーセンスチアとの国境なのだという。随分と遠くまで来てしまったようだ。
新しい包帯を手に巻かれる感触がする。
「あんなことがあっては、そこにはいられないからな。無事に抜け出せてよかった」
「ねえ、アルバート様は?」
「アルバートのことはまだよく分かっていない。向こうも何故あんなことになってしまったのか、調査中なんだろう。でも、その内追手がかかるかもしれない」
罪悪感が頭をもたげ始めた。アルバート様は私と関わらなければこんな意味の分からないことには巻き込まれなかったはずだ。間違いなく私が加害者であり、でも加害者のはずの私も何が起きたのかは理解できていない。
「よし。これで完成だ」
その言葉にクラエスの方を振り返る。クラエスの服装は一般的なズボンと上着と腰に布を巻いた格好なのに、それがやけに似合わない。キラキラと輝きを放つ美貌が異彩を放つ。
本人はとても真面目な性格のようで、ここまでにろくな表情の変化を見たことがない。それが少しばかり怖い。
「クラエス、聞かせて欲しいの。この前の夜のこと、……それに聖女というのは、どういうことなの?」
クラエスは立ち上がり、窓のそばへと行く。光が夕方の色を帯び始めていた。
「あの夜のことは、よく分からない。まずは、聖女について説明しよう。聖女とは何か知っているか?」
「簡単になら。国の危機に、魔術師が異世界から召喚するのだと。そして、聖女は不思議な力を持っていて……」
だんだん声が小さくなる。改めて口に出すと、まるでおとぎ話であるかのような話だった。
「その通りだ。既に聖女は召喚されていて、今はアーセンスチアの王宮にいる。でも、今回の召喚の儀式はあまりにも異例で、歪だった。だから、召喚の地をこの目で見て置きたかったんだ」
「異例で、歪?」
「召喚を行った人々が、異教の者たちだったのだ。どのように儀式を行ったのかは分からないが、聖女は発見されたときには虫の息で、しかも周りには死体が散らばっていたのだという」
冷や汗が流れる。なんだかその状況は知っているというか、私がこちらの世界で目覚めたとき、まさにそのような状況ではなかったか。でも、私以外の全員が死んでいて、聖女以前に生きている人間すらいなかった。
「ええと、それでも召喚は成功したんだよね?」
なんと言えばいいのか、この人に私が異世界から来たということを伝えてもいいのだろうか。
「聖女は召喚されたのだから、成功なんだろう。発見した部隊は、聖女の安全を確保するため、調査もそこそこにすぐに離れたらしいが」
もしかして、私が黒いリクルートスーツを着ていたから、魔術師たちの衣装と紛れて発見されなかったなんて、そんな腹立たしい可能性があるということなのか。これ以上は考えてはいけない気がする。そのせいでこの苦難が続いたとするならば、どうしようもなく間抜け過ぎる。悲しくて喚きだしたいぐらいなのに、笑うしかないような馬鹿らしさじゃないか。
「そして、俺はあの事件に遭遇した」
外を眺めていたクラエスが振り返る。じっとこちらを見つめる目は、まるで私が何者か探っているようだ。
「お前は異世界から来たんだろう? この世界は統一言語で、読み書きは出来なくても話せない人はまずいない。先ほどの魔術だって、聖女用だ」
何て答えるのかを試されているような気がする。まるで宝石のように輝いている翡翠色の瞳は、私だけを見ている。この人は何故こんなにも聖女に詳しくて、聖女用の魔術とやらも使えるのだろう。
「異世界から来たのだと、思う。私はずっと日本という国で生まれ育って、アーセンスチアなんて国名は聞いたこともない。暮らしも何もかもがこことは全然違っていて、魔術なんて物語の中にしかなかった」
「……巻き込まれたのかもしれないな」
ぼそりとクラエスが言う。その言葉を私は聞き逃さなかった。
「巻き込まれた?」
「聖女が二人やって来たなんて記録は見たことがない。もしかしたら、コハルは召喚の儀に巻き込まれたのか、それとも……いや、何でもない」
耳を疑うような言葉だ。嘘であって欲しい。私の苦しみは何の意味もなくて、ただの事故のせいだとでも言うのか。
「私は、私の右手はあなたたちの事情に巻き込まれて、き、切られたってこと? ふざけないで!」
「ふざけてなどいるか。今回のことはあまりにも特殊で分からないことが多いんだ。だいたい召喚の儀式は難しいが危険は少なく、召喚を行った魔術師が皆死んでいるなんて、本来ならばあり得ない」
「でも、あなたたちが召喚さえしなければ、私はこんなにも苦しむ必要はなかったのに。何で自分の世界のことなのに自分たちで解決しようとしないの? 違う世界から誰か呼ぶなんて、呼ばれた方にとっては大迷惑だよ!」
「弁明のしようもない。それでも、他に手段はない。召喚によって、問題が解決するのならば、例え誰かから故郷を奪うのだとしても、その非難を背負う覚悟は出来ている」
この人は目的を成し遂げるための覚悟を既にしているのだ。唇を噛む。血の味がした。
「だから、手を切り落としたことはすまないと思うが、必要なことだった。俺のことを恨んでも憎んでもいい。それでも、俺について来てもらうぞ。暴れるのなら、その両足も切る」
クラエスは何でもない日常会話であるかのようにそう言い切った。目は私の足を見ているように思える。この人にとっても、私は所詮道具でしかないのだ。レーナやエレオノーラ様のように、私を利用することに何の躊躇いもない。例え良心が痛んだとしても、他のもっと大事なことを成し遂げるために、私はどうなってもいいのだ。
「あんたなんか死ねばいいのに」
「どうとでも言ってくれ。お前にはそう言う権利がある」
「何で私が必要なの? 私が聖女とはどういうこと? 聖女は一人だけなんでしょ?」
睨み付けても、男は何の動揺も見せない。当たり前だ。私みたいな小娘には、睨み付けることしか出来ないのだから。
「聖女なんて、そんなのは勝者の言い分だ。敗者は偽物となるだけ」
「私に、偽の聖女になれということ?」
「理解が早くて助かる。それに偽物になれと言っているわけではない。案外あちらが偽物の可能性もあるのだから。早く発見されたか、遅く発見されたか、それだけの違いだ」
「あなたは……、何をするつもりなの」
戦争という単語が頭を過る。私の問いにクラエスは黙り込み、再び窓の外に視線を向けた。
「コハル、お前の力は何なのだ?」
音は今もこの場に流れていて、この音の説明なんてどのようにすればいいのだろう。口で説明出来る物事ではないように思えた。
頭を左右に振る。
「お前の歌が、魔物を操っていた。部屋に飛び込んだ時には、黒い虫の大群がアルバートに襲いかかり、そして、お前が歌うのを止めると、虫たちはどこかに消えていった。一体何をした」
母親の記憶はいつも曖昧で、具体的な思い出なんてほとんど覚えていない。でも、あの瞬間お母さんの歌を歌ってはいけないという言葉が頭に思い浮かんだ。母は、歌うことによってあのようになることを知っていたのか。
「……私の一族には力があるの。なんて説明すればいいのか。あなたは今、この場は私たちの話し声以外には何も聞こえないよね?」
「ああ。それがどうかしたか?」
クラエスが私を見て、首を傾げる。窓からの光は暗くなってきて、随分と長い間この話をしているのだと思った。
「私には生まれたときから、ずっと音楽が聞こえる。旋律が私に、この音を人々に伝えてと叫ぶの」
「なんと……」
下を向くと、私の不揃いな両手が見えた。白い包帯ばかりが暗がりの中で目立っている。
「でも、決して歌を歌ってはいけないと言われていた。それが何故なのかは知らない。でも、今回のことで、少し分かった気がする」
クラエスの腰には剣が佩かれたままであって、気を許していないのだと分かる。もし私が今この場で歌い出したのなら、それこそ両足だって切り落とされてしまうのだろう。
「人を殺す力か。聖女にしては何とも禍々しいな。でも、好都合だ」
クラエスが笑った気がしたが、暗い部屋の中では表情なんて見えなかった。