旅立ち(1)
意識が浮上して、心臓の動悸が速く体がだるいことを感じる。霞のかかった視界の中で、顔までは見えないけれど誰かがそばに付き添ってくれているのが分かった。
誰なのと、聞きたくても声が出ない。
その人は、苦い何かを口元まで運んでくれた。無理やりねじ込むようにして、口に入れてくる。
その内、また微睡みの中へと意識が消えていった。
唐突に目が覚めた。頭はぼんやりとしていて、体もだるいものの、視界はしっかりとしている。
何度か意識を取り戻した気はするものの、いまいち何も覚えていない。
体調は最悪で、おまけにここがどこだかもよく分からないのだった。
周りを見渡すと今までいた娼館のように豪華ではなく、ベッドと机と椅子が一つずつあるだけの質素な部屋がだ。
何があったのだっけと、ぼんやりする頭で考える。起き上がりたくて、右手をベッドの上についた。
「い……」
激痛が走って、声を出すことも出来ない。脂汗が滲み出る。
僅かに浮かび上がらせた体をそのまま再び横にすることしか出来ない。
漫然とした記憶が映像として蘇ってくる。黒い虫の大群がやってきて、目の前のアルバート様を襲った。虫たちはどうやら、私の歌が呼び寄せたようだった。そして、知らない男。黒い中で煌めく一つの光。
「いやぁぁぁああああ!」
心臓の動悸が速い。胃の奥から何か酸っぱい物がこみ上げてくる。それなのに、起き上がる体力はなくて、私は吐しゃ物をベッドの上に垂れ流した。自分の記憶が信じられない。
かつて手があったはずの場所は気が付いた途端に痛み始めて、私を現実に戻そうとする。
それなのに、そこにはまだ手があるような感じがするのだ。
視界に入れたくない。見てしまったら、私はどうなってしまう。
まだ手がそこにあって、私は箸を持ってご飯を食べて、シャーペンを持つことも出来そうな気がする。笛を吹くことも。
調べは荒く、渦のように何度も同じ音を繰り返している。音色にこのまま身を任せてしまえば、何者でもない世界に行けるのではないだろうか。
苦しみも何もない世界に。
口を開く。
何もかもが虚ろであって、現実ではない。
何か知らない言葉が音楽に紛れて聞こえた。
その言葉に我に返る。
男が剣を私の首に突き付けていた。
その剣の先が何よりも怖いものに思えて、急に喉が働かなくなる。涙が流れて、体が小刻みに震えてしまう。
「あ……あ……」
男は私が声も出せないでいる様子を見ると、剣を下げた。そして、近づいてきて、額同士をくっつけて何事かをつぶやく。
少しだけその状態で固まったあとに男は離れた。
「なんだ、声が出るじゃないか。とんだ眉唾ものだな」
聞こえてきた言葉は今までの歪なものではなく、滑らかに日本語と同程度の水準で聞き取ることが出来た。
それがどういうことか考えるよりも、男が持っている生身の剣にばかり目が奪われる。怖いと声にもならない叫びが心の中を満たしていた。
震えが止まらず、目を閉じることも出来ず、ただ固まるばかり。男は私の視線の先を追って、剣に怯えていることに気が付くと、それを鞘の中へと閉まった。しかし、手放すことはしないで、いつでも抜けるように腰に下げたままにしている。
私は生身の剣が見えなくなった途端に息が楽になったのを感じた。
名前も知らない男はこちらを見て、ただ立っている。見覚えはあった。
「すまない。手はもう元には戻らない」
ごくりと喉が鳴る音がした。
男はそう言うと振り返り、机の上の桶の中から布を持ってきて、私の口元を拭った。そしてその二つを持って扉の向こうへと消えていく。
深呼吸をしても、涙は相変わらず流れ落ちる。私はこの男の顔を二度見たことがある。一度目はあの闇市で、二度目は虫たちが来た夜に。
今度は手に気を付けて起き上がる。体が重く、起き上がるだけなのに軽くめまいを感じた。
涙を左手で拭っても、何かが壊れてしまったかのように涙は止まらない。
壊れてしまいたいのかもしれない。
人生は諦めと妥協の連続だ。叶わない事はいつだってたくさんあって、何かを諦めて妥協して、私はそれで満足なんだと思い込もうとしていた。
好きな人も大学も、そして就職だってそう。
異世界に来て、どうすればいいのか分からなくて、娼館にまで流された。
アルバート様に抱かれてもいいと思ったのは、自分を騙すための嘘だ。私はまた一つ諦めて、これだってマシな方だと自分に言い聞かせた。頑張っても娼館からは抜け出せないのなら、少しでも自分は幸運な方だとそう思い込みたかった。
それでも、笛という拠り所だけは常に私のそばにあったのに。
この世界でだって、笛で生きていけるのではないかと思ってしまったのに。技術を持って、レーナたちのように地に足をつけて暮らし、少しずつ日本への道しるべを探したかった。もっと言葉を覚えてリアたちとお喋りしながら、ドレスで着飾ることも楽しめるようになって行きたかった。
アルバート様はどうなったんだろうなんて心配は少しも思い浮かばない。
結局私は自分が一番大切だった。
精神的優位に立ってアルバート様を見下して、自分よりも不幸な人をあざ笑って、心に余裕を持とうとしていただけなのだ。その証拠に今私は、アルバート様に私より不幸なことが降りかかればいいと願っている。あの虫たちに傷つけられてしまえばいい。
なんて醜いんだろう。だから、神様は私の右手を持っていってしまったの?
体育座りをしようとしても、右手はもうなくて触れることさえできなくて、自分で自分を慰めることすら許されない。
きっと聖女というのは、とても清い人物なのだ。自分より他人の幸せを祈り、どんな境遇であっても楽しんで生きていけるような人物。聖女だったらいいのに、なんて馬鹿なことを思ったものだ。私は違う。こんなにも人々の不幸を願っているのだから。
もう二度と笑う日なんて来ないんじゃないかという気分だ。
今は昼なのか、窓からは明るい光が机へと降り注いでいる。それなのに、寝台は暗くて一寸の光も届いては来ない。ここだけは永遠に夜だけの空間なのだ。
暗闇の中に、右手を持ち上げる。
手首から先は何もなかった。
清潔な包帯が巻いてあって、丸くなっている。手らしい名残りなんて何もない。
右手で箸を持つことはもう出来ない。
字を書くことも出来ない。
両手で荷物を持つことだって、髪を結うことだって出来ない。
笛は片手では吹けない。
そのとき、遠慮がちな音を部屋に響かせて男が部屋に入って来た。手には先ほどと変わって、清潔な包帯とお茶碗を持っている。椅子をベッドのそばへと寄せた。
あの日太陽の下で輝いているように感じた美貌ももうどうでもいい。憎しみが胸の中で渦巻く。歌で何故あんなことが起きたのかは分からないけれど、この人が私の手を切り落としたという真実だけは知っている。
「痛み止めだ。飲め」
男はスプーンに薬湯を乗せて、口を開けろと指示をする。なんと甲斐甲斐しい世話なんだろう。そのスプーンを持つ右手を私にくれればいいのに。
「いらない」
「飲まないと痛むし、熱も出るぞ」
「そんなのどうでもいい」
「今はよくても、夜が辛くなる」
「いらないって言っているの!」
場が静まりかえる、男にとってだけ。
静かな空間など、一度も体験したことはなかった。いつも音楽がそばに寄り添ってくれて、私は笛で旋律たちに答えた。いつだって共にいて、私も音の一部でいることが出来た。今は耳障りなだけだとしても。
音がどんなに私の心の中に浸出しても私の心がそれに答えたくても、もう笛は鳴らない。
「うるさい! うるさい、もうやめて! うるさいうるさい!」
片手で耳を塞いでも音は聞こえる。音はどこからやってくるのかなんて考えたことはない。
「落ち着け。何を言っているんだ」
男が、私の両手を掴む。
この人には聞こえないし、私以外の人にも聞こえない。お婆ちゃんだってお母さんだってもういないのだから。天上からの妙なる調べが、黄泉から誘いの言葉に聞こえる。
「あなたは何も聞こえないから、そんなことが言えるんだ!」
音はいつだって焦燥を呼ぶ。民衆へ音を伝えろと言うのは、旋律なのかそれとも私の本能なのか。
「息を深く吸うんだ」
「そんなことが何の役に立つの! もう私は笛を吹けない。竜笛は私の自信だった。何も出来ない私でも、竜笛があるから、自分に自信を持つことが出来た。でも、もう私には本当の本当に、何もない。何も私は出来ない」
「落ち着け」
男は私を抱きしめた。その行動に驚いて、声が出ない。音は相変わらず聞こえるけれど、それとは違う男の心臓の音が聞こえた。
「お前に死なれては困る」
そのままの状態で男は話す。心臓の音が耳に心地いい。
「お前は聖女なのだから」