花は咲く(6)
アーセンスチアとは、隣国のはずだ。
そこに聖女はいるというのか。体の中に積みあがっていた期待が一気に崩れ落ち、喪失感が広がる。私はきっと違うと思いながら、期待もまたしていた。
だって、聖女っていい響きじゃないか。私だけに与えられた特別な役割があれば、とてもとても嬉しかったのに。使命を果たせば、地球にだって帰れるのかもしれない。居場所が見つからなくて、右往左往しているような小娘ではなくなる。
この人は私が聖女ではないことを確信しているのだ。
そんなことを考えてしまって、馬鹿だなと自嘲する。周りからの聖女かもしれない、という言葉を本気にしていたのか。言葉に踊らされて、まるで子供だ。
「この国は、もうすぐ戦争になる。お前はどうなるんだろうな」
アルバート様が口を開いた。新しい情報が目いっぱいで、私は今までどれだけ外の世界に接して来なかったのだろうと思ってしまう。
戦争なんてどういうことだろう。戦いなんてものは物語の中でしか知らないのだ。
「父はもう、だめだ。こんな夜会などしている場合ではないのに」
彼の手元にあるのは、いつも通りの琥珀色の酒だ。弱い酒ではないのだろう。アルバート様はいつでもこの酒を飲んでいる。
俯いて、小さくなっている。私に心の内を吐き出したって、相槌することでさえ出来ないのに。この弱気になっている人を抱きしめたら、慰めになるだろうか。
「僕でもだめだ。そんな力はない」
アルバート様がこちらを向く。悲しそうに微笑んだ。
「君が本当に聖女だったら、よかったのに」
手が伸びてきて、私の頬を撫でる。
「兄たちはぼんくらで、僕もぼんくら。もうこの街に救いなんて、ないんだよ」
手がひどく冷たい。アルバート様がセロフィアの花束を摘み取る。ひどく丁寧な仕草で、一つ一つの花を抜き取って床に落とした。その花を硬い靴底で踏みつける。
「この花は、僕みたいだ。ひどく臆病者で、こんな花は嫌いだ」
彼は、かみつくような口づけをする。このまま流されてしまってもいいんじゃないかなと思う。何の抵抗も出来なかった。この人の悲しみを知ってしまった。
道化の面を脱ぎ捨てると、私と同じような途方にくれた素顔が現れる。居場所を見失い、迷子のように戸惑っていて、でも泣き出しても誰も助けには来てくれない。
一人っきりだった。二人っきりになれるなら、それも悪くないかもしれない。
あの時のように、慰めたいと思った。そうすると穏やかに流れていた音が力強く、旋律を奏で出す。音はこの人を癒してくれるのだろうか。
先ほどのように抗う必要はない。セロフィアの花のように、白く純粋な慈愛の祈りが込められている。これは、私の祈りだ。私と同じように疲れ果て、誰かに癒して欲しいと願っているこの人への。
旋律が流れだす。
笛はただの道具だ。
私の口から、歌詞をもたない音が零れ落ちる。このメロディーで私は何を伝えることが出来るのだろう。アルバート様が変な表情をしている。
音がこの一室に広がり、私を支配する。気持ちがよかった。何の手順もなしに、私が私の好きなように音を紡ぐことが出来る。笛なんて面倒なものを通さなくても、私の身体はそこにあるだけで音を作り出せるのだ。久しく忘れていた。
何で忘れていたのだろう。音は次々と世界にあふれて、変質する。
竜笛はどこに行ってしまったのか既に思い出せない。
口からこぼれる音は止まらない。自分が何を見ているのかも定かではない。アルバート様はどこに行ってしまったのか。一人で震えていた彼を、私は。
それにしても、何故そんな男のことを気にするのだろう。私の世界には音楽があって、それ以外の何かなんて必要としない。音がいつだって全てを教えてくれる。
耳元で、虫の羽ばたきのような嫌な音がした。
血の中に受け継いできたものが、今溢れ出す。代々巫女の家系だった。神の言葉を聞き、それを民衆へと伝える。託宣とは歌の形で現れるのだという。生まれたときから死ぬときまで、北宮家の女性には絶えず歌が聞こえる。日本には神様があまりにも多すぎる。
お母さんとお父さんは、どこに行ってしまったの、と幼い私は祖父に聞いたのだ。祖父は忘れてしまいなさい、と静かに言った。
音の奔流があまりにも大きすぎて、一体何が起こっているのか聞き取れない。
目の前の男の名前は何だったのか。思い出せない。もし、私が本当に聖女だとするならば、この人はこんなに恐怖の表情を見せなかっただろうと思う。
背後から、黒い風が吹く。私を避けて、その人のところへと虫たちは向かって行く。歌の流れと虫の大群が一緒に男を襲う。扉の方から荒々しい音がした。
虫たちは旋回して、あちこちへと飛び去って行く。
視界は反転していつの間にか天井と知らない男の顔を見上げていた。知っているのかもしれない。でも、よく見えない。全てが曖昧だ。
力があるのだと思う。私という存在には力があって、この人々を、世界をどうにでも扱えるのだ。歌が私を呼び、私は歌を呼ぶ。この力は誰にも、制御出来ない。
天井は真っ白だ。
男は何かを叫んでいるようなのだけれど、ぼんやりと水の向こうにいるかのように歪んで見えるばかり。
右手に燃え上がるような痛みを感じた。それでも、歌を止めることは許されない。ゆるやかに密やかに、私とこの世界を侵食していく。
痛みは止まない。赤い血が空を舞う。これは誰の血なのだろう。痛みの方へと目を向ける。
それは、私の右手だ。血が吹き上がっている。
悲鳴を上げたいのに、私の口は旋律ばかりを紡ぐ。違う。私のしたいことはこんなことじゃない。違う。何もかもがおかしい。私の右手は、笛を吹く大切な手なのに。やめて、手が使えなくなったら私はお払い箱になってしまう。生きていけない。私の大切な笛は、吹くからこそ意味があるのに。生きて行く方法も元の世界をつなぐものも、この竜笛なのに。笛を吹けなくなったら、私は今度こそ何の取りえももたないただの北宮小春になる。もうウェンディではいられない。やめて。私の希望を消さないで。やっと見つけ出したただ一つの希望を、取らないで。
違う。何もかもが違う。
歌が聞こえる。
真っ赤な手の上に白銀の剣が煌めいて、手首に落とされていく。
歌は名残も残さず、悲鳴に散らされた。