花は咲く(5)
それからも何度か彼はやってきた。
初対面の時のような態度ではなく、笛を聞きながら二人で穏やかな夜を過ごす。その顔には笑みなどなくて、いつも憂鬱な表情ばかりが浮かんでいる。
キスも何もアルバート様は手を出しては来なかった。何を考えてここに来ているのだろう。具体的な値段は知らないけれど、私の一夜は決して安くないはずだ。
あのパーティの日を境に、私の笛の評判は落ちることなく、むしろうなぎのぼりで上がっている。エレオノーラ様の打ち出した神秘的なイメージとやらも功を奏しているのかもしれない。
今日は領主の館へと呼ばれているのだ。素性を伏せて、ただの演者という話になっている。もちろん知っている人は知っているのだろうけれど。
館では何度も行われているけれど、貴族だけが参加する本物の夜会など初めてだ。
いつものように華やかなドレスではなく、割合質素な白のワンピースを着ている。
これもエレオノーラ様によると、豪華にしてしまったら雰囲気が出ないからだという。かわいそうな聖女に華美さなど求めてはいないのだ。
髪はそのまま流して、アクセントとしてセロフィアの白を添えていた。
馬車の中は揺れる。あの日、馬の上に乗せられていた私がまさかこんな日を迎えるとは思ってはいなかった。もっと悲惨でどうしようもない未来が私を待っているのだと思っていた。
今なんとかなっているのは、この横笛のおかげだ。お遊びのように続けていた笛が役に立つなんて思ってはいなかった。
馬車のカーテンは閉まっていて、外の景色を伺い知ることは出来ない。楽しみにしていたのにとは思うけれど、エレオノーラ様が同じ馬車に乗っている時点でそんな余裕はあるはずもないのだ。
アルバート様のお父様の館。このセスチェールの街は、この国でも随一の繁栄を誇っているそうだ。やはり港で貿易の要となっている部分が強いらしい。
館に行くにあたっていくつかの知識を学んだものの、口がきけないのでは特に必要はないのだと思う。
アルバート様もいるのかな、なんてことを思ったのは何故だろう。幾度かの夜のせいなのだろうなと思う。会話らしい会話なんてなくて、笛を吹いているだけの空間なのに、とても心地よかった。
「知ってる? ウェンディ?」
エレオノーラ様の紅の唇が動く。半端な問いかけはいつものことだ。いいえ、と答える。
「市井にまで、噂が出回っているそうよ」
「聖女の?」
口元が弓なりに吊り上る。くすくすと笑い声がした。
「もしかしたら、本当に聖女なんじゃないかと、たまに思うの。コハルなんて名前、初めて聞いたわ」
どきりと心臓が跳ね上がる。私に怪しい点はいくらでもある。
でも、いくら勘が鋭いからと言ったって、異世界だなんて妙なことを信じるのだろうか。こちらの人の価値観は分からないからなんとも言えない。
「統一言語なのに、言葉を知らない。地理も知らない。珍しい鞄。この子はどこから来たのかって、ずっと思っていたの」
何と答えたらいいのか。
聖女だとしたら、何故娼館なんて似合わないところにいなくてはいけないのだろう。私すらも分からないことなのに、こんなにも率直に聞いてくるのか。
「私は……」
「なーんて、答えは知りたくないの。そうであるかもしれない、という可能性が、私は好き」
扇の向こうで、彼女が笑っているのが手に取るように分かる。試したのだ、私の反応を。
「今日はよろしく」
目の前の彼女を見ていたくはなくて、目を閉じた。
これだけが味方だというように笛を握る。
従者にエスコートされて入って来たここは、宵闇の館とは規模も何もかもが違っていた。もうすぐ夜だというのに、館は昼のような煌めきだ。シャンデリアと魔術の灯りが、大広間を明るく照らす。
穏やかな音楽が辺りを包み混んでいた。こんなところで演奏しろなんて、怖い。そもそも竜笛はそんなに音は響かないし、華やかな音でもない。ここまで歓迎されていることに疑問を覚える程だ。
こんな広さでは、音は途中で萎むだけで、隅にまで届かない。この穏やかな演奏の方がよっぽどこの華麗な館に似合っていると思う。
結局それほどでもないという評価に落ち着いたらどうすればいいのだろう。エレオノーラ様も、アルバート様が来なくなることも怖い。
足の先から痺れて行くような、恐怖を感じる。
それでも、声を出すことは許されなかった。笛を握る。
人々の間をかき分けるように、演奏席へと案内されていく。音が私の心臓の音に比例して大きくなっていく。旋律のせいで耳が聞こえなくなってしまいそうだ。人々の声よりも視線よりも、音ばかりが私を圧倒する。
従者が私の手を引いているのでなければ、ここがどこか分からなくなってしまいそうだった。ふわふわと足元が頼りない。
先ほど驚かされたシャンデリアなどは既に視界の中には見えなくて、こんなにも華やかな場所なのに、霧の中を歩いているように白く見えた。
まずは領主様に一礼をして、そのあと従者の合図で振り返り来客者たちに一礼する。
そんな簡単なことが出来そうにない。今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
世界が遠くなり近くなり、曲がりくねっている。緊張のせいなのだ。とてもとても、怖い。
馬車の中ではそんなことはなかった。いつも通りに笛を吹いて、皆が私に興味を持たなくなった頃に退場すればいい。所詮パーティの言い訳となる小娘なんて最後までいる必要はない。
それなのに、もう何もかもがよくわからない。
そのとき、従者の手が離れて、誰かの手が私の腕を取った。はっとして顔を上げる。そこには見慣れたアルバート様の顔があった。アルバート様の顔だけがはっきりと見えるのだ。
その口元が動いて何か話しているように見える。でも、私の耳にはいつもより激しい旋律ばかりが流れていて、聞き取れない。ぽかんと間抜けな顔で見上げることしか出来なかった。
ああ、歌いたいと思う。この溢れる程の旋律をこの広間の人たちに伝えることが出来たら。私の中でだけ暴れるような音を、好きなだけ解放してしまいたい。でも、それはしてはいけないのだとかつて母が言ったのだ。記憶の片隅に残る言葉を思い出す。
だからこそ、笛がある。音は笛に乗せて、決して直接口にしてはいけない。
柔らかな椅子の感触がする。飢えているかのように、急いで笛を口に当てた。水が低い方に流れるように、音が笛を通して人々の間へと流れて行く。
自分でも怖いほどに音が響いて、何もかもが分からなくなる。いつもそうだ。私はただの媒介でしかなく、自分の考えの入る余地なんてどこにもない。音が私に聞こえ続ける限り、私はこの音を広げる役割しか持たない。それは、私の願いでも人間の願いでも、ないのだ。
意識が戻るという言葉が正しいように思う。
今回は特にひどい。ここがどこだか分からなかった。先ほどまで笛を吹いていたはずなのに、柔らかいベッドの上で寝ているのだ。服はそのままで、竜笛もしっかりと握っていた。
そっと体を起き上がらせる。部屋は暗く、燭台が一台だけ灯っている。一人の男が本を片手に持って、その燭台の元にいたのだった。
声が出そうになるのを、ぐっと抑え込む。光に照らされたその男は、アルバート様だったからだ。
本を閉じて、彼がこちらを向く。
「笛を吹き終わったあと、倒れたんだ」
だから、運んでくれたのだろうか。あの音が溢れる空間から逃れることができて、一気に体の力が抜ける。でも、ありがとうと言うことはできないのだ。
アルバート様が立ち上がり、ベッドに腰掛けて隣り合うように座る。前科があるので少しばかりどきどきしたものの、渡されたのはただの水のようだった。無色無臭のそれを一気に飲み込む。緊張で喉がからからに乾いていた。
「君は何なんだ」
静かな空間に一言だけが響く。
どういうことなのだろう。私は私で、それ以上の価値など持っていないのに。
「本当に聖女ではないのかと思った」
私に話しかけているようで、実際話かけてなんていない。これは質問というより独り言だろう。でも、苦悩する声に言葉を返したいと思った。全てが台無しにするその行為を私はどうしても出来ない。笛という生きていく手立てを見つけた今、私は話すことは出来なくなった。
「本物は、アーセンスチアにもういるのにな」