花は咲く(4)
部屋にはリアが一人戻ってきた。
「叩かれたのはどっち?」
「右……」
「そう」
そう言うと、軽く左の頬を叩く。
「自分が何したか分かっている?」
無言で頷く。視界に笛が入る。笛を聞きに来た人に笛を聞かせず、怒らせてしまった。こんなことになるなんて思ってもいなかった。笛でさえ、思い通りに動かせない。
「よくやったわ。あの人はあなたの客になるでしょうね。今のは、上客を取られた私の恨みの分」
リアの言葉に思わず顔を上げる。
「どうして?」
行こう、とリアが手を差し伸べてくれる。リアの言っていることの意味が分からない。
「絶対また来るわ。アルバート様」
今ここでようやく男の名前を知った。
リアの後ろを歩いていく。どうやらもう分館に帰るみたいだった。エレオノーラ様に何か言われたのかもしれない。悪いことにはなっていないみたいだけれど、と思う。
私には、もう一度来る要素なんて見つけられない。この世界では私の常識が通用せず、予想外のことばかりが起こる。
二人して布団に入る前に、食堂で一杯だけ酒を貰ってきた。
窓辺で静かに飲む。白いネグリジェを着て、足を組んで飲むリアはかっこいい。その反対に私は小さくなってあまり得意ではない酒を少しずつ飲むのだった。
「あの人は、笛ではなくてあなたを見にきたの」
リアが口を開いた。
「よく分からない」
正直な感想を口にする。薄いピンク色の酒がほんのりと心地よい酔いを与えてくれる。
「拒絶された方が、嬉しい人もいるのよ」
言葉と一緒に手酌でグラスに酒を注ぐ。強い酒だ。
「ここは、難しい」
「でしょうね。アドバイスを上げる。次に会うときも、セロフィアの花を挿していた方がいい」
また来ると断言した言い方になんと返していいのか思いつかず、酒を口に含んだ。そのまま会話は途切れて、月の光ばかりがちらついていた。
夜会を何度も繰り返して、それでもまだ誰とも体を合わせることはなかった。さすがにこれが異常事態なのは分かる。しかし、同じ娼婦から嫌がらせや陰口などはなくて、ただ聖女という言葉ばかりが大きくなっていく。
どうやら私の背景は不透明なことや、この近辺では珍しい黒髪も噂を招いている原因らしい。
聖女とやらの正体が判明しないので、エレオノーラ様に直接話を聞いた。リアが詳しく知らないというからだ。エレオノーラ様は珍しく考え込む様子を見せたあとで、口を開く。
「聖女は、国が危機に陥ったときに、王宮付きの魔術師が、違う世界から召喚するそうよ」
そして、この国を救うの、と言葉は続いた。
違う世界という言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る。私はここを違う世界だと認識していて、私がここに来たときには多くの死体が散らばっていた。あの人たちが魔術師だとして、もし私が聖女としてこの世界に召喚されたのだとしたら。
でも、それなら何故私はこんなところにいるのだろう。召喚を行った人は死体で、私を導く人も現れず、売られて今は娼婦となっている。
それならば、ここではしょっちゅう他の世界から人が紛れ込むことがあるのだろうか。実は私の他にも地球からきた人がいて、私はそれに気が付いていないだけかもしれない。
「聖女は、特別な力を持っているのよ。先代は、傷を癒す力があったと聞くわ」
「聖女って、そんなにいるんですか?」
女主人は頷く。
「ええ。聖女は戦争や飢饉、その度に召喚されているの。先代は、三十年前だったかしら」
迷惑な話だと思う。それでも胸がどきどきしたのは期待感からだ。
「その聖女は、元の世界に戻れたのですか?」
知らないとだけ彼女は言った。
自室への道を歩く。謎は謎を呼ぶばかりだ。笛の妙なる調べがこの世の調べではないように思えるのよ、とエレオノーラ様は言っていた。
それでも人を癒す力はないし、どんな人を助ける力もない。人々はただ面白がって、噂しているだけなのだ。私が聖女だなんて本当に思っている人はいない。
それでも、私が異なる世界から来たという事実を私は知っているのだ。
もしかしたら、ここに来たことは無意味ではなかったのかもしれない。聖女なのだとしたら、多くの人が私に希望を願っている可能性でもある。その思いと同時に、もし事実だとしたらなんて迷惑なんだろうという思いも胸をかすめる。
エレオノーラ様には、異世界から来たなどという事実は明かせなかった。お金のためにどのように利用されるか分からなかったからだ。私の有利になるように事が進むとは思えない。あの人は、金貨のためならどんなことでもしてみせる。
リアにだって言えるはずもなく、自分の中に密やかにしまうしかない。もし本当に聖女だとしたら私にはどのような手段が取れるのか。自分から聖女だと言いふらして、お城からの迎えを待つ? でも、信じてもらえなかったり、実際お城へ行っても偽物だと判断されたりしたら困ったことになってしまう。
何をすればいいかは、もう少し情報を集めなければいけない。このままでは、何も判断は下せないのだ。
エレオノーラ様やお客様から貰ったドレスや装飾品の数が多くなってきても相変わらず着せ替え人形となっていた。エレオノーラ様は私を完璧にプロデュースしたいのだ。
私はお金になるらしい。
寝なくても、笛を聞かせるだけでお客様はお金を落とし、贈り物まで頂ける。この現状に女主人が文句を言うこともなく、彼女はなんとも私に甘かった。
あの人はお金を生み出さない人には厳しい。
お金にならない娼婦は気が付いたら消えている。彼女たちの行方は、リアにも尋ねてはいない。だいたい想像できるからだ。
今は自分の番ではないけれど、自分の笛の評判が下火になったとき、お客様はどうなるか分からない。
そもそも娼婦なんて若い内だけの職業で、自分を買い戻すなんて不可能を実現させるか、誰かに買い取ってもらうという幸運を掴む必要がある。そうでなければ、不幸一直線だ。
今日もまた何着かの衣装が用意されていた。見つからない谷間を作り出す技術は素晴らしいし、ドレスは豪華絢爛なものばかりで見ていて楽しい。でも、実際着るととても苦しいし、それに着慣れないために恥ずかしい。
周囲がどんなに持て囃しても結局私自身は何も変わっていなくて、何事にも自信が持てないのだ。
「今日は、アルバート様がいらしてるわ。……あなたに会いに」
いつも衣装を整えてくれる女性が口を開いた。リアの予言が本当に当たって驚く。拒絶をしてしまったのに、何を求めてまた来るのだろうか。分からないけれど、リアの言葉の通りにセロフィアの花を再びお願いした。
「やあ、久しぶり」
部屋に呼ばれて入ると、アルバート様がただ一人部屋の中でお酒を共にくつろいでいた。最上階の部屋は広くはないけれど、高そうな家具が配置されている。前回の人たちはどうしたのだろうか。
紺色のドレスをつまんで一礼する。アルバート様は同じテーブルの椅子を進めてくれた。遠慮がちに座る。今日私は何をすればいいのだろう。甘い空気など皆無で、気まずいだけだ。
アルバート様は琥珀色のお酒を飲みながら、窓の外を見てばかりだ。リボンで一つに結ばれた髪が、夕焼けによって金色に見えた。
私の手元の笛を垣間見て、今度は私と視線を合わせた。笛の音をご所望なのだ。こないだはあんなに饒舌でどうでもいいことばかりを言っていた人なのに、今日は雰囲気が違う。表情も笑顔の一欠けらもない。
張りつめていて、何かを考えこんでいるようだった。友達と明るく遊びたい気分ではないのかもしれない。
望まれた通りに笛を吹くことしか私には出来ないだろう。
癒しになる優しい音を与えたいと思った。燃えるような夕焼けではなく、闇に溶けていくような紺碧で眠りに誘う音を。
笛の穴に指を置く。いつもなら周りの旋律に流されてばかりだけれど、少しだけ私の気持ちを込めて音の流れを変えて行く。
夕焼けの色が見えなくなった頃、笛の調べを止めた。目の前にはうたた寝をしているアルバート様がいた。肘掛に肘をついて、目覚める様子はない。
こんな時だからと、変な好奇心を持って近づいて見る。にやにやと笑っているときのような憎らしさはなく、寝顔は可愛くすら思える。悔しい程にまつ毛が長くて、羨ましくなってしまった。日本にいたときはまつ毛美容液を使っていたのに、長さなんて目立った変化はなかったのだ。
お客様が寝てしまった場合ってどうすればいいのだろう。ずっとこのまま眺めているわけにもいかない。私の夜はこの人に買われているわけだから、この場を離れるわけにもいかない。かと言って他にどうすればいいのかも分からない。
とりあえず、バルコニーの扉を閉める。暗くなった中庭は既に何も見えないし、寝ている人に風はよくない。
この館に来てから、馴染みのないことばかりだった。女性たちと距離を開けたままでいられるのは、嬉しいと同時に寂しかった。レーナの二の舞が怖いのだ。金銭的な貧しさも精神的な貧しさも人を必死にさせる。巻き込まれて、利用されたくなんてない。
リアはとても優しいのに、いつか私を裏切るんじゃないかと思ってしまう。彼女の言葉に耳を傾けることは出来ても、自分の言葉を言うことは出来なかった。
優しい夜の調べに瞼が降りてくる。この旋律は妖精たちが奏でているのだろうか。その正体を私は未だに知らない。お母さんなら知っていたのかな。音は遠ざかっていく。