プロローグ
嫌だな、嫌だな、嫌だな。
私の両親は馬鹿だった。母は馬鹿で、これまたとんでもない馬鹿を婿に貰ってしまったのだって。おじいちゃんはいつも寂しそうにぽつりと呟く。
五月七日は我が北宮小春の誕生日だ。私の両親は春生まれだから春の字をつけたらしい。でも、小春日和は残念ながら冬の季語だってことを小学生の時に知った。
そんな両親はもういない。私が五歳になるかならないかというときに、ぽっくり二人揃って死んだという。だから、私は大のおじいちゃん子だ。
二十二度目の五月七日がやってきた。
大学4回生、内定はなし、選考の進んでいる企業もなし。
誕生日だというのに、この暑い日に新宿まで来て説明会とやらがある。戦いは序盤の序盤だ。別に特に興味があるわけでもない。よく耳にする企業名だから来てみただけだ。
この炎天下のコンクリートジャングルでリクルートスーツを着て、就活鞄を片手に持っている。このスタイルを見たら、誰だって就活生だって一目で分かる無個性さだ。今日は私の誕生日だってことも、何も関係ない。
無駄に量のある黒髪が恨めしい。ポニーテールにしたって、背中の真ん中程まで長さがある。じりじりと照りつく太陽なのに、私以外の道を行き交う人々は無表情で忙しなく足を動かしている。
逃げ出したいと思う。こんなところで働きたくない。どんなところで働きたいのかと聞かれても、それはそれで答えに詰まるけど。
結局のところ、私は人生に詰まっているのだ。どん詰まりもいいところで、どこに行けばいいのか答えが見つからない。
目の前には朱色が剥げかけた小さな鳥居があって、思わず足を止めた。奥まで細い道が続いていて、社は見えない。木々たちがざわめいて、おいでと私を誘っている。
ふらふらと惹きつけられていく。神社は幼い頃から好きで、最近はもっと好きになった。
あそこだけは、何者でもない自分をそのまま許してくれる寛大さがあるのだ。都会のビル群も次々と内定を決めていく友達もいなくて、そこだけは非日常だと感じる。聞き慣れたメロディーを思わず、小声で口ずさむ。誰にも聞こえないように、密やかに。
鳥居をくぐれば、きっと世界が変わる。
◆◆◆
世界が変わるって、そんなことを願った気がする。
でも、いくらなんでも、変わり過ぎだろう。
「ひ、どこ、ここ……」
妙に上ずった声が響く。目を覚ましたばかりの喉はうまく機能してくれない。
私は上体を起こした。先ほど朱塗りの鳥居を通り抜けた私は、何故か陰鬱な広間のような場所にいるのだった。灯りは、入り口から夕暮れのオレンジ色が差し込むだけ。それも外までは遠いのか、かすかな光が差し込んでいるだけだ。暗闇に慣れない目は何も見えない。
「意味わかんない、し」
相も変わらず、私は就活スーツを着ていた。窮屈なパンプスまでもそのままで、押しこめられた足が悲鳴を上げている。
「あ!」
周りを手でまさぐって、急いで就活カバンを探す。あの中には大切なものが入っている。すぐに、硬い鞄の感触がして、中を開けた。ファイルの中の履歴書でも化粧道具でも携帯電話でもなく、古い布の包みを闇の中で探す。
「あったぁ! よかった……」
細長いそれを思わず抱きしめる。代々受け継がれてきたものだ。家族も同然で、これを無くしてしまったら、私は履歴書と同じものになってしまう。文章上ではない、私であることを表すもの。
またすぐに鞄に戻す。これがあれば、私はきっと大丈夫。
暗闇に慣れてきた過程で、手に赤黒い何かが付着していることに気が付いた。べっとりとして鉄臭い。
今にも飛び出しそうな程に心臓がうるさい。私はこんなことを知らない。経験したことがない。
就活スーツを着て就活鞄を持って、いつもの日常の中にいるはずだった。合同説明会。面接。エントリーシート。神社。おじいちゃん。おじいちゃん。
私の手には血がついていて、私の先ほどまで横たわっていた床には血が広がっていた。そして、ゴムのような生気のない手。足。腕。胴体。顔。頭。目が慣れて来ると同時に見たくないものまで視界の中に飛び込んで来た。
知りたくなどない情報なのに、目が逸らせない。何かに取りつかれたように凝視してしまう。苦悶の表情をしている。口から鼻から血が溢れ出ている。
いくつもの人形が散らばっていて、でも血の匂いがそれは人形であるということを否定する。暗闇でよかったと一瞬だけ頭を過った。
腹の奥底から酸っぱいものがこみ上げる。空っぽになるまで全てを吐き出した。これ以上は耐えられない。そもそも何に耐えるというのだ。
「家に帰りたい、帰りたい……」
就活鞄を引っ掴んで、光の差し込んでいるところへ向かう。どんなところか知らないが、死体の転がっている場所よりは絶対にいいところだ。最悪の目覚めで、最悪の誕生日だ。真っ直ぐ歩いてくれない足が恨めしい。
どん底以下のどん底なんてないはずだ。
夕暮れの光は先ほどより暗くなっていて、それでも私には希望の光に見えた。階段を上がって行く。そこはきっと神社だ。何かの猟奇的事件に巻き込まれたのだ。ここを出たら、警察に行こう。このスーツはもう着られないから、新しいのを買わなくちゃいけない。また費用がかさむ。夕ご飯はどうしよう。家に帰ろう。
震えを抑えて、一歩一歩進む。光の元に行くに連れ、私は全身血まみれであることが分かった。
階段を上がり切ると、そこには一面の木々が広がっていた。木々が闇を孕んで蠢き、まるで悪魔のように思える。
しかし、それ以上に絶望的なのは、月が二つあること。
どん底以下のどん底って、もしかしたら存在するのかもしれない。
胃の中にはもう何もないのに、絶望感とはこうも体をめちゃくちゃにするのか。胃が痛んでも、私が吐き出せるのは胃液だけ。饐えた匂い。嫌な音。こんな経験は二度目だ。
足が立つことを拒否する。這いつくばっても、前にはもう進めない。
頭の中も体も限界であると感じた。それなのに、星を見えなくする明るい光はそこに顕在していて、私の目はそれを認識する。
大きい。見慣れたどの日の月よりはるかに大きくて、近く見えた。月が二つ。ここは、プラネタリウムの中ではなくて、目に映る景色も肌に感じる空気も、ここは外だということを示している。
思わず頬を抓ってみても、痛むだけ。
今更思いだしたかのように、涙が一筋こぼれ出した。それをきっかけにして、涙があふれ出てもう止まらない。おじいちゃんが死んだときに枯れるほど泣いたのに、こんなにたくさんの水分はどこに溜まっていたのだろう。
涙が次々と生成されて、ダムが決壊して、私は一体どうなってしまったのだ。血まみれの二十二の女が、何をやっているのだ。
おじいちゃんがいなくなって、ただでさえ広い家がもっと広く思えた。地元の氏子さんたちだけがお参りに来る神社の手入れも大変で、一人でこれからどうやって生きていけばいいのか分からなかった。だいたい、私は神主資格を持っていない。おじいちゃんとお母さんとお父さんの思い出の詰まったこの神社も、もう最後なのだ。
家に帰るのが嫌になった。維持して行くことが出来なくて、神様にも氏子の方たちにも申し訳なく思った。
それでも、私の帰る家は一つだけなのに。
私はこれからどうなるのだろう。だって、日本から見える月は一つだけで、そこは地球上のどこでも同じだろう。では、ここは地球ではないのか。地球ではないのならここはどこなのだろう。
迷子になってしまったのだ。足は動きそうにない。助けを待つとしても、助けがどこからやってくるというのだ。名前を呼ぶ人もいない。おじいちゃんが亡くなった日から、私は一人になった。
鞄から包みを取り出す。おばあちゃんの手から母の手に渡されて、私の元にたどり着いた竜笛だ。おじいちゃんは、笙を嗜む。音が伸び上って、一つに溶け込む瞬間が好きだった。
笛を唇に当てる。草のざわめき。風の音。虫が囁く。音を楽しんでと私に教えてくれたのは母だ。おじいちゃんじゃなくて、お母さんの数少ない言葉が蘇る。私たちは音を楽しむために生まれて来たのだという。
適当に指を動かして、周囲との共感点を探る。少しずつ寄り添う。草のように、風のように、虫のように、自分もまたこの世界の一部分であることを確認する。八百万の神様はどこにでもいて、今この瞬間の音を愛でているに違いない。例え、ここがどこだとしても私の中に流れる血が音に沸き立つ。
最後の吐息を吹き入れて、目を開ける。
目の前にかごをもった、若い女の人が立っていた。目を大きく開けて驚いたようにこちらを見ている。口を開けて何事かを話しかけてくるようだが、何を話しているのかが分からない。きっと英語でも、中国語でもない。意味の分からない音の羅列は、全く親しみの持てない言語だ。
何を期待していたのだろう。瞼が重くてもう開けていられそうにない。