03-02
→ふと、図書室に行こうと思った
決して充実しているとは言えない高校の図書室へ向かいながら、湊は先ほど理人が言っていた、あちらへ紛れていたという本に思いを馳せていた。図書委員ではない湊はどんな本が入るのかは知らなかったが、もしリクエストに出していた本であったら、と思うと確認せずにいられなかった。
けれどその浮き立った気分は図書室の扉をあけた瞬間見事にしぼみ、咄嗟に扉を閉めて見なかったことにした。
「やあ湊、奇遇ですね」
見なかったことにした、否、したかった対象がからりと扉を開け、湊をみとめてほほ笑んだ。どうあっても幻覚になってはくれないらしい理人に招かれ、現実拒否を諦めた湊は図書室の扉を潜った。
「…あの、にこやかにスキップしないでください」
「せっかく二人きりなのですから遠慮なさらず。さあ」
何がせっかくなのか全く理解できなかったが、理人が引いた椅子に促されるまま座って室内を見回した。見る限り室内には本当に湊と理人の二人だけのようで、理人の奇行が人目に触れずに済んだことにひとまず安堵する。
こちらを見てほほ笑みながら隣に腰を下ろした理人へ向けて、気になっていたことを訊ねた。
「どうしてここにいるんですか?あなたの職場はここじゃないですよ」
「ああ、もうじき掃出祭があるでしょう。出し物の準備がなかなか大変なようで、この時期は大学側から一人手伝いに来るのが慣例なんですよ」
今年は俺が引き受けることになりました、と本人は言うが、にこやかに立候補する理人が容易に想像できた湊は乾いた笑いを零した。今ここに理人がいると言うことは、掃出祭というあんまりな名の卒業生を送る行事が終わるまでこの状況が続くのだろう。ますます登校時の別行動を徹底しなければ、と決意を新たにする。
「ところで湊、本日はどんなご用でここに?探しものなら手取り足取りお手伝いしますよ」
「消えてくれませんか変態」
伸びてきた手が肩に触れる前に椅子から立ち上がった湊は、勝手知ったる図書室内の料理の関連コーナーへ向かった。背後から聞こえてきた不届きな呟きは湊の精神衛生上なかったことにして静寂を保った。
二人きりの広い空間に聞こえるのは湊がページをめくる音、どこかでふざけ合っているのだろう生徒達のざわめき。そして時折背の高い樹を挟んだ向こうからも微かに笑い声が響いてきた。
そんなありふれた日常の穏やかさに浸りながら、湊は興味をひかれたページを熱心に読み始めた。
「いいですねえ、おいしそうです」
「うわっ!」
突然後ろから声をかけられ、半ばその存在を忘れていた湊は盛大に心臓を暴れさせた。
驚きに目を見開いた湊を見返す理人の顔にも、珍しく笑顔ではなく驚いた色が強く現れている。
「どうしました?挟まって潰れた蜘蛛でも見てしまいましたか?」
あれは気持ち悪いですからね、と明後日の方向ながら実感を込めて言う理人に不注意を詫び、湊はあわてて場の空気を繕うように話題を戻した。
「ビーフシチュー好きなんですか?和食の方が好きなんだと思ってました」
少々早口になってしまった湊に一度だけ瞬いた理人は、それ以上何を言うでもなく湊の問いにいつものように笑みを浮かべて返してくれた。
「ええ、和食が一番好みではあるんですが。煮込み料理なら大抵は好きですね」
湊の挙動不審に気付かないわけがないだろうに黙って話を合わせてくれた理人に、今まではあまり抱くことの無かった照れくささと少々の感謝からか、湊は自然と顔に笑みが浮かべた。それを見た理人の笑みもいつものものより柔らかくなったように感じた湊は自然と柔らかく言葉を紡いだ。
「なるほど。そう言えば肉じゃがなんかも嬉しそうに食べてくれますもんね」
「ええ。湊の料理はどれもおいしいけど、あれは格別ですね。自分好みに仕上がるまでじっくり煮込まれるのを待つ時間もいいエッセンスにもなりますし」
「…?料理、するんですっけ?」
最後の言葉が引っ掛かって訊いた湊へ、理人はいつもの様に笑んで返すだけだった。
「ところで、今日の夕ご飯は何でしょう?」
何か釈然としないものを感じながらそれが何かも分からない湊は、とりあえずはと考えていた献立を口にした。途端嬉しそうに顔をほころばせ、楽しみにしていますと返す理人に、くすぶる疑問はさておいて湊も同じような笑みを返したのだった。
いつになく湊にとって穏やかに過ぎた時間に不思議な充足感を味わっていたが、時計を見れば休み時間はもう残りわずかだった。湊が手にしていた一冊の貸し出し作業を頼むと、しかし理人はニンマリと笑みながら何故か両手を横に広げた。唐突に過ぎるそれへ首を傾げた湊に、理人はさも当然のようにこう言った。
「どうぞ飛び込んでらしてください。その愛、余さず受け止めさせていただきます」
「お断りします」
「何故です、愛し合う二人なら当然でしょう?」
咄嗟に返した湊へさらに間髪入れずに重ねられた変態独自曲解論に開いた口がふさがらない。
いつも以上にわけのわからないそれへ抗議せずにはいられなかった。
「発想も切り返しも明らかになんか普通じゃないんですが!」
「いいじゃないですかそんなこと。さあ遠慮せずに飛び込んでくれてかまいませんよ、湊」
「お願いだから遠慮させてください!」
再び咄嗟にそう返したものの、そうじゃないと思いなおす。
「じゃなくて、何をどうしたらそんな考えになるんですか」
「今の流れ上自然なことだと思ったのですが。残念です」
「私にはあなたの頭の方が残念です!」
駄々っ子を前にしたかのように落とされる無念そうな溜め息に、湊の方こそ諸々に対し残念だと言い返したい。これでは変態が本性を現して以降初めて味わった穏やかな空気が台無しだ。
そんな非常に言葉にしがたい空気の中響き渡った間の抜けたチャイムに促されるまま、ゲンナリと肩を落として湊は教室へ戻っていった。