03-01
→教室へ続く廊下へと向かった
週末の午後、一時間だけある授業は教科学習ではなく学活のみだ。
年度もそろそろ終わるこの時期に話題に上るのは、第二の文化祭とも言える通称«掃出祭»の出し物について。何度聞いても酷いネーミングのこれは、最上級を除く全校一体となって卒業生を追い出す、もとい送り出す送別会だ。文化祭と違うのは一般参加の不可と非常に低予算なこと、生徒だけでなく教員も参加することだろうか。
比較的自由な催しが許されているせいか、文化祭時より若干ではあるが級内の意思疎通はスムーズだ。この様子なら一人くらい傍観していても大丈夫だろうと窓の外を見ているうちに眠り込んでいた湊は、気付けば給仕役を割り当てられていた。クラスの出し物は闇鍋喫茶という、提供する側もされる側も微妙な気持ちになる企画だった。
憂鬱な気分のまま給仕役の話し合いを終えた湊は手早く帰り支度を終え教室を出た。向かうのは先程外から眺めていた図書室だ。
兄との生活で家事全般を担っていた湊だが、現在の同居人の好みに合わせた料理の勉強をし直しているのだ。非常に認めがたいが紆余曲折の末理人に養ってもらっている以上、こちらもそれなりの対応をしなければ居心地が悪いと始めたのだが、意外に嗜好に合ったそれを今では進んで本を読みあさっていた。
図書室への最後の角を曲ろうとして、聞き覚えのある声がすることに気付いて足を止める。そっと覗うと、変態大学司書と朝から湊を疲れさせてくれた級友が立ち話をしていた。どうしてここに、何故二人が。疑問は尽きないが、目下問題は二人を挟んだ先に湊の目的地への扉があることだ。関わりたくない二人の横を、何食わぬ顔で素通りするのはあまりに不自然だろう。
しばらく考えリスク回避を優先した湊は静かに踵を返した。しかし。
「奇遇ですね、湊」
計ったようなタイミングでかけられた声に思わず渋面になる。無視しようとも思ったがその後のことを考え渋々振り返った視線の先には、にこやかに笑む男が一人。
「こんなところで何してるんです?あなたの職場はここじゃないですよ」
「やっぱり湊は可愛らしいですねぇ」
「その笑顔、怪しすぎです。引っ込めてください」
「照れ屋さんなところも素敵ですよ」
いつものことながら成り立たない会話に長い息が零れる。そんな湊を見て理人はいつものように目を細めた。
「そう言えば、彼は?」
「彼?」
「図書館で知り合ったみたく聞いたんですが、違いました?」
ああ、と思い当たった様子の理人は、けれどきょとんとする湊に、これまたいつものようにニンマリと口元を緩めて見せた。
「いやだな湊。覗かれたいなんていけない人ですね」
「どこをどう聞き間違えたんですか!」
憤懣やるかたない湊へ心の声が聞こえましたと平然とのたまい追い打ちをかけるが、もはや言葉もない湊に笑みを改める。
「彼はこれから部活だそうですよ。この廊下は部室への近道だとか」
「…そうですか」
やっと得た返答にようやく一言返しそのまま理人へ背を向けると、不思議そうな声がかかった。
「ちょっと疲れたんで先に帰ります」
振り返りもせずそれだけ行って足を進める湊へ、寸間置いて再度理人の呼び声がかかる。今度は何かと緩慢に振り返りかけた額に、小気味よい音を立てて何かが当たった。
「すみません、大丈夫ですか?」
慌てて駆け寄って本心からすまなさそうに謝られ、湊は出かかった不平を喉へ押し戻す。自分のものより大きな掌が前髪をよけて額をさするのを手を掴んでやめさせた。
「大事な湊の額が。キズモノにした責任はきっと取りますから」
「…もういいですから」
意識しいて作った笑みは固かったのですぐに伏せ、落ちた何かを探す視界はけれど先程まで湊の額に触れていた掌に遮られる。
そこにはファンシーな装飾紙にくるまった飴玉が一つ。
「はい。疲れた時には甘い物ですよ、と言うつもりだったんですが」
そう言って珍しく苦笑する男を見やりながら、湊は差し出された飴を包み紙を解いて口に入れる。ほんのり広がる甘みと少しの苦味を感じながら、もう一度目の前の苦笑を見上げる。<食べ物を投げるな、とか、疲れさせているのは誰だ、と言ってやりたいことは多々あったが、笑顔ににじむ反省を読み取った湊はそれらを礼と一緒に呑み込んだ。
「…鶏の煮物は好きですか?」
「はい?」
「鶏です。夕ご飯、さっぱり煮にしようと思って」
突飛過ぎただろうかと、理人の反応の無さにそう思い始めるも、思考は唐突に回された彼の腕に寸断された。
「な、なんですか…!」
「転んだら危ないと思って支えていたんです」
「…はあ」
明らかに意味のわからない言い分に、せめて一体どちらを支えていたつもりなのか突っ込むべきか逡巡する。けれど。
「ありがとう。大好きですよ、湊」
普段の…比較的まともな時の理人の声音が静かに降ってくるのを聞き、意図がきちんと伝わったことを悟ると、目の前の布地に触れるか触れないかのところで黙ったまま頷いて返した。
いつも同じような言葉や手段でからかわれてはストレスをためているものの、決定的に理人を嫌いにならない理由はこんな些細なところだ。些細で、どこか兄とも通じるような決め切れない不器用さに、ついほだされてしまう、とでも言うのだろうか。
いつもなら理人の前では決して見せない笑みを、どうせ見えないだろうと気を弛めたせいか湊は無意識にか小さな作りの顔に浮かべていた。
「ああ本当に、食べてしまいたい」
ぼそっと呟かれた言葉にそれまでの緩やかな空気が凍りつく。
その後大音量で響いた怒声を聞きつけた教員が再び説教を始めるのを、元凶となった男は困ったように眺めていた。