『「いいね」の数だけ濁る水』
人は、自らが何を飲み込んでいるのかを案外知らずに生きているものである。喉の渇きを癒す透明な液体であると思い込めば、それが本当に水であるかどうかなど確かめようとはせず、ましてそれが自分の心のどこを潤し、どこを腐らせているのかなど考えもしない。だからこそ、あの水は誰にも疑われなかったのであり、疑われなかったからこそ静かに人の暮らしへ入り込み、気づけば人の命よりも深い場所に根を張っていたのだと、私は今になってようやく理解している。
最初にその広告を目にした者が誰であったのかは分からない。ただ一つ奇妙だったのは、それを見たという人間が皆、決まって「気づいたら表示されていた」としか語らず、自ら探して辿り着いたと言う者が一人もいなかったことである。午前二時二十二分、眠ることもできず親指だけを惰性で動かしながらSNSの海を漂っていると、ごく稀にタイムラインの流れを遮るように一本の動画が現れる。白いラベルも貼られていないペットボトルを一人の女が胸の高さまで掲げ、「飲むだけで、本当のあなたへ」という短い言葉を残して微笑む、それだけの十五秒ほどの映像でありながら、画面を閉じたあとも妙に記憶の底へ沈殿して離れない、不快とも魅力とも言い切れない後味だけを残して消えてしまうのである。
私はそんな話を都市伝説の一つだと笑っていた。ネットには毎日のように奇妙な噂が生まれては消え、誰も責任を負わないまま忘れられていく。それも同じ類いだろうと思っていたし、まさかそれが私の一番親しい友人を飲み込む入口になろうとは、その頃の私は夢にも思っていなかった。
「見つけちゃった。」
昼休み、彩乃は秘密を打ち明ける子どものような笑みを浮かべながら私の机へスマートフォンを滑らせ、その画面いっぱいに映る白いボトルを指で軽く叩いた。「昨日の二時二十二分に出たの。買えた人しか見られないページだったんだって」と興奮を隠そうともせず話し続ける彼女を見ながら、私はどうにも胸の奥がざわついた。理由は説明できない。ただ、白いボトルの向こう側から誰かにこちらを見返されているような、そんな錯覚だけが消えなかったのである。
彩乃という人間は、もともと誰よりも笑うことの上手な子だった。教室の窓から差し込む西日を受けながら、どうでもいい話に腹を抱えて笑い、帰り道ではコンビニの新作アイスを半分ずつ食べ、写真を撮ることさえ「思い出だから」という一言で済ませていた。けれど高校二年になった頃から、その笑顔には少しずつ目的が生まれ始めた。誰かに見てもらうための笑顔、誰かに褒められるための笑顔、誰かに羨ましがられるための笑顔であり、その変化はあまりにもゆるやかであったから、私はそれを成長なのだろうと勝手に納得してしまっていたのである。
「この前の投稿、三万いいねだったんだよ。」そう言って彼女は笑う。しかしその笑顔は、三万という数字に向けられたものであって、目の前にいる私へ向けられたものではなかった。「でも昨日のは全然伸びなくてさ、アルゴリズム変わったのかな。」そんな言葉が日常会話になってしまった頃には、彼女の生活は一日の出来事ではなく、画面の向こうにいる誰かの反応によって測られるものへ変わっていた。
それでも私は、所詮は流行りの一つだろうと思っていた。誰だって少しは承認されたいし、綺麗になりたいし、誰かに憧れられたいと思う。それ自体は罪ではない。ただ、その願いがどこまで膨らめば人は自分を見失うのか、その境界だけは誰にも分からないのである。
例の水が届いたのは、それから三日後の夕方だった。
翌朝、彩乃はまるで宝物でも持ち歩くように白いボトルを抱えて登校してきた。教室へ入るなり机の上へそれを置き、「見て、ほんとに来た。」と嬉しそうに笑う。透明なペットボトルにはラベルも製造元も成分表示もなく、ただ水だけが静かに揺れていた。その透明さは不自然なほどで、窓から差し込む光を受けても屈折することなく、まるでガラス細工の中に空気だけを閉じ込めたような冷たさを感じさせた。
「怖くないの、それ。」
私がそう尋ねると、彩乃は肩をすくめて、「今どき怪しいものなんてネットにいくらでもあるじゃん。でも本当に危ないものなら、こんなに流行るわけないでしょ。」と言って笑い、そのままキャップをひねった。
小さな音が教室の喧騒に紛れて消える。
彼女は迷うことなく口をつけ、喉を鳴らしながらゆっくりと飲み干した。
私はその横顔を見ていた。
何かが起きるような気がした。
だが何も起きなかった。
彩乃は「ただの水だね。」と笑い、机へボトルを戻しただけで、その日は何事もなく終わったのである。
だから私は安心してしまった。
あのとき無理にでも取り上げていれば、と何度考えたか分からない。怒鳴ってでも捨てさせていれば、あるいは彼女は今も、私の隣でくだらない話をして笑っていたのかもしれない。しかし人間というものは、破滅が始まる瞬間には案外何も感じない。すべてが終わってからようやく、あれが始まりだったのだと振り返ることしかできないのである。
異変は、その翌日から静かに、けれど誰の目にも分かるほど鮮やかに現れ始めた。教室へ入ってきた彩乃を見た瞬間、誰かが思わず息を呑み、「え、彩乃……なんかすごく綺麗になってない?」と呟いた。その一言をきっかけに教室中の視線が彼女へ集まり、肌は陶器のように滑らかで、髪は朝日に濡れた絹糸のような艶を帯び、眠そうだった瞳にさえ不思議な輝きが宿っていることを誰もが認めざるを得なかった。
その日の放課後、彩乃は何気なく一枚の自撮りを投稿した。
それが、すべての始まりだった
その日を境に、彩乃という人間は「生きる」のではなく、「見られる」ために存在するものへと変わってしまった。
一枚の自撮りは一晩で何十万という「いいね」を集め、翌日には知らない芸能人がその投稿を引用し、企業から案件の依頼が届き、フォロワーは雪崩を打つような勢いで増え続けた。教室では誰もが彼女の名を口にし、廊下を歩けば知らない生徒から写真を求められ、教師でさえ「有名人だな」と笑っていた。しかし、その喧騒の中心に立つ彩乃だけは、誰よりも幸福そうでありながら、誰よりも空虚な目をしていた。
私はある日、彼女の机の上へ置かれたあのボトルに目を留めた。
最初は光の加減だと思ったのである。けれど、透明だったはずの水は底の方から墨を一滴落としたように灰色へ変わり、それは日を追うごとに濃くなり、やがて泥水と見紛うほどの黒へ沈んでいた。それなのに彩乃は何のためらいもなくそれを飲み、「最近こっちの方がおいしく感じるんだよね」と笑ったのである。その笑みにはもはや照れも冗談もなく、飢えた獣が餌を見つけたときのような、ぞっとするほど純粋な歓喜だけが宿っていた。
やがて彼女は学校へ来なくなった。
連絡をしても既読はつく。しかし返事はない。タイムラインには一日に何十枚という自撮りだけが投稿され続け、それぞれが何十万もの「いいね」を集めているにもかかわらず、写真の瞳だけは日に日に濁り、笑顔だけが不自然に貼りついていた。
私は堪えきれず、放課後に彼女の家を訪ねた。
玄関の鍵は開いていた。
呼びかけても返事はない。
靴を脱いで廊下を進むにつれ、生臭い湿気が肺の奥へまとわりつき、どこか排水溝の底を思わせる匂いが鼻腔を満たしていく。私は嫌な予感を振り払うように歩みを速め、半ば開いた部屋の扉へ手をかけた。
そして、その向こうの光景を見た瞬間、自分の足が床へ縫いつけられたように動かなくなった。
部屋中にペットボトルが転がっていた。
何十本、いや百本はあっただろうか。
そのすべてが黒く濁った水で満たされ、積み重なり、倒れ、床を埋め尽くしている。窓は厚いカーテンで閉ざされ、昼間であるはずの室内は薄暗く、スマートフォンの白い光だけが異様なほど鮮明に浮かび上がっていた。
その中央で、彩乃は座っていた。
頬は病的なほど痩せ、肌だけが不気味なほど美しく、血走った目はスマートフォンから一瞬たりとも離れない。通知音が鳴るたびに肩が震え、口元には笑みとも痙攣ともつかぬ歪みが走る。
そして彼女は足元の一本を掴み、蓋を外すと、泥のように濁った水を喉へ流し込んだ。
ごく、ごく、ごく、と喉が鳴る。
そのたびに画面の数字が増えていく。
「いいね」が一つ増える。
また一つ増える。
彩乃は恍惚とした表情で笑った。
「もっと……。」
掠れた声だった。
「もっと、見て……。」
私は震える手でボトルを取り上げようとした。
その瞬間だった。
彩乃は獣のような叫び声を上げ、私の腕へ爪を立てた。
「返して!」
それは友達の声ではなかった。
喉の奥から泥が逆流してくるような濁った声であり、その口から零れ落ちた黒い雫は床へ落ちると、水ではなく墨のように広がっていった。
私は恐怖のまま部屋を飛び出した。
後ろからは通知音が鳴り続けている。
ピコン。
ピコン。
ピコン。
まるで心臓の鼓動のように。
翌日、彩乃のアカウントは突然消えた。
ニュースにもならなかった。
学校では「転校したらしい」と誰かが言い、「芸能事務所へ入ったらしい」と別の誰かが笑った。
部屋にあった大量のボトルも、彩乃という存在も、まるで最初からそこになかったかのように忘れられていった。
けれど、私は忘れられなかった。
あの濁った水の色も、スマートフォンだけを見つめ続ける瞳も、最後に聞いた「もっと見て」という声も。
それから半年ほど経ったある夜、眠れずにSNSを眺めていた。
時計を見る。
二時二十二分。
その瞬間だった。
画面が一度だけ暗転し、見覚えのある白いボトルが静かに映し出される。
ラベルはない。
ただ一行だけ、新しい文章が添えられていた。
『前回のお客様のご紹介により、あなたにも購入資格が与えられました。』
思わずスマートフォンを落とした。
床へ転がった画面には、なおも広告が流れている。
そして、そのボトルの中の水は、最初から透明ではなかった。
真っ黒に濁った水面へ、画面を覗き込む私の顔だけが、静かに映っていた。




