神島のお誘い
結局。
あの後、一睡もできないまま朝を迎えた。
昨夜の出来事が夢だったとも言えない状況だ。寝ていないのだから。
神島がどんな態度で接してくるのか、俺はどんな態度をすればいいのか分からないまま、始業時間を迎えてしまった。
神島さんは……。
とにかく、怖いとか言ってられない、せめて昨日のことを確かめなければと姿を探していると、背後から肩を叩かれた。
「かみしま、さ……」
振り返れば、正に目的の人物が立っていた。鋭い目つきに、条件反射で俯けば、思いも寄らないことを言われた。
「退勤は何時だ」
「6時です」
咄嗟に正直に答えると、神島は腕時計を一瞥した後、考える素振りをして俺を見た。
「俺は今日、6時半上がりだ。30分どこかで時間潰せるか」
「えっ、と……?」
「分からないか?誘ってるんだ」
神島の目は相変わらず怖いし、表情も銅像のように死んでいるけれど、耳が僅かに赤い。
それに気づいた瞬間、心臓がドクリと音を立てた。
あ、れ?
「どうなんだ、嶌崎」
近くを他の従業員が通ったのを見て、神島が身を寄せながら訊いてくる。
俺はその途端に落ち着かない気分になり、咄嗟に言い放った。
「大丈夫です。時間潰せます」
「じゃあ、喫茶サンゼリゼで」
その言葉に頷き返す余裕はなかった。
神島の姿がバックヤードに消えたのを見届けると、その場にへたり込みそうになる。
今のは何なんだ。
ーー分からないか?誘ってるんだ。
神島の台詞が勝手にリプレイされ、むず痒い感覚を抱く。
そういえば、キス、されたんだよな……。
でもあれは、俺の恐怖心を拭い去るため……なんだよな。
いや、でもそれならあんな風に誘ったりはしない。
神島さんは、俺を……。
「好きです」
唐突に聞こえた台詞に飛び上がりかけた。
声の方を見やると、神島が若い女性客と向かい合って立っているのが見えた。
「神島さん、意外とモテるんすよね」
近くを通りかかった坂井が、何でもないことのように言う。
「そう、なんだ」
「はい。俺たちには厳しいすけど、客にはとても愛想がいいすから。接客の鏡ってやつす。ただ、それを勘違いする客もいるみたいすけど」
「……」
神島が何事か言うと、女性客は半泣きになりながら立ち去った。
「断る時は、鬼の一面を出すんすかね。いつも相手はどこか怖がりながら立ち去るっす」
神島が俺の視線に気がつき、こちらを見る。
俺は慌てて目を逸らして、反対側の雑誌コーナーに向かった。
妙に胸がざわめくのを感じながら。
終業後、時間通りに神島は喫茶店へ現れた。
いつも怖がってばかりでまともに見たことがなかったからか、神島が実はスラリとした体躯で、芸能人が発するようなオーラに近いものがあって、自然と人目を引いていることに今更気がついた。
目は、怖いけど。
内心付け加えながらも、周囲が神島に視線を向けるのを何とも言えないような心地で見やる。
「待たせたな」
向かい側に座ると、神島は早速メニュー表を広げた。
しばらくメニューを眺めていた神島が、ふと顔を上げて俺の方を見る。
俺が季節限定のフルーツティーを口に含むのを眺めていたかと思うと、片手を上げた。
やって来た店員に対し、俺のグラスを指差しながら言った。
「これと同じのを」
「神島さん、甘いのいけるんですか」
つい心配になって尋ねると、神島は意味ありげに笑みを浮かべた。
「……?」
何だ、その笑みは。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「いや、あと本日おすすめのケーキを一つ」
「かしこまりました」
店員が遠ざかった途端、神島は得意気な顔をして俺を見る。
「何ですか?」
「意外か?俺が甘党なのは」
「そう……ですね。意外です」
正直、ブラックコーヒーしか飲まないようにしか見えなかった。
恋愛小説にありがちな展開かもしれないが、恋がどうのというより、近寄りがたい印象が薄れる効果はあるのかもしれない。
神島さん、まさかそれを狙って?
戸惑いながら神島を見れば、珍しく神島の方から目を逸らした。
「嶌崎、聞きたいことがある」
「はい」
フルーツティーの方へ視線を落とせば、神島が俺の方を見るのが分かった。
「俺の目に見られると身動き取れなくなるって、本当に怖いからなのか?」
「え……」
驚いて目を上げると、今度はまともに視線が重なり、逃さないというように絡み取られた。
「俺は、別の意味に取った。その証拠にお前の場合、他の同僚と違って俺と目が合うことだけを重点的に恐れている気がする。俺が怒りっぽいのは自分でも分かっているし、それで周囲に煙たがられているのは仕方ないと思う。でも、お前は違う気がしたから、俺は」
その時、タイミング悪く店員が注文の品を運んで来た。
店員が立ち去った後、神島は先ほどの続きを口にしなかった。
まだ他愛もない話をするような間柄じゃないせいか、沈黙がしばらく続いた。
「考えといてくれないか」
このままこの時間は終わるのか、と思った時、神島がポツリと言った。
「考える、というのは……」
「俺に対する気持ち。俺は」
神島の手が伸ばされ、グラスを掴んでいる俺の手を取り、包み込む。
「っ……」
温かく、大きな手の感触に喉が鳴る。
「こういう意味で、お前を見ている。ずっと前から」
「こういう、意味……?ずっと……?」
耳の奥で、自分の心音が乱れるのが分かる。
神島の目が、熱っぽく俺を見つめている。
いつの間にか店内のBGMは切ないラブソングに変わっていた。




