第九十九話「原初の炉」
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第九十九話「原初の炉」
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ヘッドライトを消した。
それでも歩けた。壁面の溝から放たれる燐光が、通路全体を薄明に包んでいた。青白い光が、岩盤の複雑な幾何学模様に沿って流れている。第八層までの工場的なダンジョンとは全く異質だった。
「親方……この壁、脈打っています。まるで血管みたいだ。」
「ああ。第八層の配管は人間が作ったが、ここの配管はダンジョンが自分で作ったんだろう。俺たちは今、こいつの内部を歩いている。」
通路はゆるやかに螺旋を描きながら下降した。燐光の脈動がリズムを持ち始めた。渉は足を止めてそのリズムを感じた。
百十八秒周期だった。
第八層のコア炉で渉が感じ続けてきた微振動と、完全に同調していた。
「先代が言っていた通りだな。第八層の炉はここと繋がっている。」
通路が終わった。
◆
空洞が広がった。
ヘッドライトをつけても、天井に光が届かなかった。直径百メートルを超えるドーム状の空洞だ。壁面全体が燐光を放ち、その光が中心に向かって収束していた。
その中心に、炉があった。
第八層のコア炉のような人工の金属筐体ではない。高さ数十メートルの構造体が、岩盤から直接生えるように立っていた。表面は黒曜石のように滑らかだが、無数の微細な孔が開き、そこから青白い魔素の光が呼吸するように明滅していた。炉全体がゆっくりと脈動し、そのたびに空洞全体の燐光が呼応して輝きを変えた。
小林が呟いた。
「これが……本物の炉。第八層のコアは、これを冷ますための排熱装置だったんだ。」
◆
渉は炉に近づいた。
表面に先代の手によると思われる古びた計測機器がいくつか取り付けられていた。それぞれが長年の魔素にさらされ、表面が結晶化しかけていた。先代がここで何を観測していたのか。渉には想像できた。先代もこの鼓動を、毎日掌で感じていたのだろう。
「先代は二十年間、この炉の番人だった。第八層の炉を守りながら、本当に守っていたのはここだったんだ。」
その時、小林が炉の基部を指さした。
「親方、あそこ。」
亀裂だった。
炉の基部に沿って、細い亀裂が複数走っていた。その縁から、粘性の高い黒色の物質が滲み出していた。変質魔素の最終残渣だ。第八層の排熱だけでは処理しきれなかった燃えカスが、二十年分、蓄積していた。
◆
渉は膝をついて亀裂を調べた。
指先で滲み出た物質に触れた。粘度を確認した。においを確認した。固化の度合いを確認した。
「これが先代の言っていた汚れか。二十年間、掃除されなかった。この残渣が炉の冷却機構に蓄積して、冷却を阻害し始めている。このままでは第八層の排熱だけでは足りなくなる。いずれ炉が過熱して、ダンジョン全体が機能不全に陥る。」
「どうするんですか。」
「掃除する。それが俺の仕事だ。」
その時、小林の端末がかすかに鳴った。第九層でも炉の近くだけは、かろうじて通信が届いた。
◆
「渉さん……JDA本館……動きました。第九層の炉の信号を……キャッチ……保安部が……まもなくこちらに……。」
メイの声がノイズ混じりに届いた。
「小林。JDAが来る。」
「どうしますか。」
「来るなら来ればいい。だが、俺たちは俺たちの仕事をする。」
先代が遺した第九層の炉の構造図を工具バッグから取り出した。広げた。先代の几帳面な手書きで、炉の冷却機構のアクセスポイントが記されていた。そこには注記があった。「炉の冷却機構は、第八層の配管と基本設計が同じである。ただし規模が違う。第八層で培った技術が、ここで生きる」と。
「先代は俺に、第八層の炉を通してこの第九層の炉のメンテナンス技術を教えていたんだ。二十年かけて。」
炉の基部に保守用アクセスハッチを見つけた。図面の通りの場所だ。
◆
ハッチを開けた。
内部から変質魔素の蒸気が溢れ出した。防護服の表面温度計が急上昇した。空気が重い。濃密な魔素が肺に押し込まれてくる感触があった。
向こうに配管が見えた。太く、複雑に入り組んでいた。第八層の比ではない規模だ。しかし構造の原理は同じだと、渉の体が知っていた。
「小林、頼みがある。」
「はい。」
「お前はここで見張りだ。JDAの連中が来たら、俺の作業が終わるまで時間を稼げ。だが無理はするな。自分の足で立て。それだけだ。」
「親方一人で……。」
「一人じゃない。先代が二十年かけて俺に教えた技術が、ここにある。それが一緒にいる。」
工具バッグから特注の長尺工具、第七層の機兵から採取した旧式グリス、産業用洗浄剤を取り出した。
ハッチの中に入った。
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〈第九十九話 了〉
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【次話予告】
主管の合流部に到達した。
二十年分の詰まりが、そこにあった。
渉は洗浄剤の缶を開け、時計を見た。
「浸透するまで、十五分待つ。焦るな。」
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【あとがき】
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第九十九話、お読みいただきありがとうございました。
「ヘッドライトを消した」という書き出しにしました。壁面の燐光だけで歩けるほど光が満ちているという状況を、この一行で示しています。第八層の薄暗さや第七層の氷室の非常灯とは全く異なる、第九層だけの光です。
炉の描写は人工物の比喩を意識的に避けました。「黒曜石のように滑らか」「血管」「呼吸するように」という自然物・生物の比喩を積み重ねることで、ここが人間が作ったものではないという異質さを表現しています。
「百十八秒周期だった」という一行は、第八十九話で渉が気づき始めた微振動の変化への回答です。渉がずっと感じてきた第八層の炉の鼓動は、実は第九層の炉と同調していた。二十年間、渉は知らずにその鼓動を守り続けていたのです。
(作者)




