第八話 不調
「う……朝……??」
上半身だけ起こして周りを確認する。まだ体がだるくて動けそうにない。
(昨日倒れて……それから……ずっと寝てたの?)
記憶が曖昧だ。池のある中庭で歩く練習をしたのは覚えているが、それ以降はよくわからない。
それに、何故か胸が締められるように痛い。早く誰かと話したい。
すると、部屋の扉が開かれる。低く穏やかな声が耳に届いた。
「セレン、体調は?」
「皇太子殿下……」
手に何かを持った皇太子が、こちらへ来てベッドの横にある椅子に座った。
「これ、食べられるか?」
「……これは何ですか?」
「リンゴだ、赤くて丸い果物。」
甘くて酸っぱい匂いに、離宮へ行く道中を思い出した。
(これ、人間が食べていた赤いものだわ!)
リンゴ。可愛らしい響きのそれを一つ口にして噛むと、口の中にじゅわっと甘さが広がった。
「美味しいか?」
「こんなに美味しいの、初めて……!!」
「それならよかった。」
私がリンゴを食べている間、皇太子は無言だった。しかし、それは決して居心地が悪いものではないように感じる。
「全部食べたのか、食欲はあるんだな。」
「はい。あんまり食べるほうじゃないのに、これは美味しいです!」
「また持ってくるよ。」
皇太子の手が、私の額に伸ばされる。
__私はその手を、咄嗟に振り払ってしまった。
「ッ……あ……ごめんなさい……!!」
「いや、いきなり触れようとしたのが悪かった。熱を測りたいから、額に触れてもいいか?」
「どうぞ……」
触れられるのが好きじゃない、人間なら尚更のこと。
今まで私に触れることを許したのは、家族であるカノン姉様だけだった。
ひやりと冷たい手が、私の額に当てられる。
何故?この人に触れられると、どうしても調子が狂ってしまう。
「うん、熱は下がっている。よかった。」
やめて、そんな目で見ないで。
期待などしてはならない、どうせ皇太子も私が人魚だと知れば__
「お姉さん!よかった、起きたのね!!」
パタパタと走る音が聞こえてきて、部屋にリッテが入ってきた。彼女はこちらへ駆け寄って、ベッドの縁に飛び込むように顔を埋めた。
「ぷはっ!私ね、病気が治ったんだって!お姉さんのおかげ!本当にありがとう!!」
「こらリッテ、お姉さんは体調が悪いんだ。」
リッテはそれを聞いて、顔を一気に曇らせた。
「お姉さん。それって、私のせい……?」
「違うわ。少し疲れてしまっただけよ。」
「そっか……あっ、ねえねえ!お姉さんってお兄様のおよめさんなんでしょう?結婚式はしないの?」
リッテは無邪気にそう言った。頬杖をついて私と皇太子を交互に見ている。
「リッテ、それはだな……」
「ん?だって、ほんとうのことでしょう?私、お姉さんの家族になれて嬉しいわ!」
ショートヘアを小さく揺らしながら、リッテは満面の笑みを浮かべていた。
なんて純粋な子なのだろうか。私は皇太子を利用しようとしているのに、家族になれて嬉しいだなんて。
世間知らずで、純粋で、夢見がちな女の子。
__本当に、カノン姉様とそっくりね。
「そうね、私も貴女の家族になれて嬉しいわ。」
「えへへっ……お名前、セレンだったよね?セレンお姉ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろん、私もリッテと呼んでいいかしら?」
「うん!よろしくね、セレンお姉ちゃん!」
私は手を伸ばし、リッテの髪の毛を崩さないようにして頭を撫でた。
(どうしましょう、この子が可愛く見えてきてしまったわ。)
リッテは何も知らない。どうか、私の黒い感情に気付かずに、そのままでいてね。
「……。」
数秒の沈黙が落ちた__先ほどから皇太子が黙っている。
何かを言おうとして、やめる。それを繰り返している様子だった。
「殿下、どうかしましたか?」
「……いや、その。」
皇太子は口をぱくぱくと動かして、言葉に詰まっている。食事をする魚みたいで吹き出しそうになったが、なんとかこらえることができた。
「……セレンは__俺を名前で呼ばないのか?」
「……はい??」
「な……なんでもない。」
名前を呼んでほしくなってしまったのだろうか、皇太子は頬を薄く染めて慌てふためいている。
(まあ、名前で呼び合うほうが仲が良さそうにみえるか。)
契約結婚のことは、二人だけの秘密。他の人間には、普通に結婚したように見せなければならないのだ。
それにしても皇太子は、こういったやりとりに慣れていないのね。
「……ふふっ、あははっ。」
私が笑い声をあげると、リッテが薄く笑いながら皇太子にこう言った。
「セレンお姉ちゃん、お兄様が名前で呼んでほしいって。」
一瞬だけ、心がざわざわと落ち着きをなくした。それでも、私は平静を装って口を開く。
「ええ、それは構わないけど……あいにく、名前を知らないの。」
「ええっ!?お兄様、お名前教えてなかったの!?」
リッテは皇太子の手を掴んで、私の手の上に乗せた。
「お兄様、ほら!」
「……俺の名前は、エディアスだ。呼び捨てで構わない。」
「エディアス……改めて、よろしくお願いしますね。」
復讐が終われば、この関係も終わってしまう。
だが、海に帰る私にとってはそれでいい。何も変わらない生活に戻るだけ。
「__皇太子殿下、書状が届きました。」
突如として、知らない男性の声が響いた。
エディアスは男性の方へ駆け寄って、渡されたものを確認している。書状の紋章を見たエディアスは、一瞬だけ動きを止めた。
ベッドの上からその書状を覗こうとした。しかし、リッテの声によって阻止されてしまった。
「セレンお姉ちゃん、記憶喪失なんでしょ?私が色々教えてあげる!」
「……それは、本当?」
「もちろん!あ、体調が良くなってからね!」
「すまない、少し席を外す。セレン、リッテを頼む。」
「はい。」
正体は掴めなかったが、私にとって大切なことが起こる。そんな予感がする。
エディアスの背中が扉の向こうに消えた瞬間、胸のざわめきだけが取り残された。




