第七話 波が揺れる
皇太子は目の前に立って、私と両手をつないだ。それから、片方の足を後ろに動かした。
「前に足を動かすんだ、できるか?」
「う……えいっ!」
私が足を動かした瞬間に、皇太子はもう片方の足も後ろに動かした。支えが遠くなったが、手をつながれているため離れることもできない。
「ほら、歩けた。」
「えっ?」
皇太子は確かに後ろに動いた。なのに、先ほどと変わらない距離。私は一歩だけ、進むことができたことを知った。
「俺が引っ張れば、倒れないように足が動くと思った。どうやら正解だったようだな。」
その言葉に、私は何故か嬉しくなった。
「その調子、一歩ずつ進むんだ。」
皇太子が後ろに動いて、私もそれに合わせて前に動く。
その動きを繰り返しているうちに、足を動かすという感覚が掴めてきた。
「皇太子殿下、一人で歩いてみたいです。」
「……大丈夫か?」
「うん、多分大丈夫です。」
皇太子はそっと私の両手を解放する。そして、私は支えが無い状態で、同じように一歩進んでみた。
草が踏まれ、朝露で足が濡れる。一歩、また一歩と進んでいく。
「見てください!一人で歩けてます!!」
皇太子からの返答はなかった。だが、歩くのに慣れていないので前しか見ることができない。
横で私を見る皇太子の表情がわからないのだ。
「殿下?私、歩けて……わっ!?」
体が前に傾いて、視線は地面へと向いていく。
転びそうになったことに気づいて、固く目を閉じ痛みを待った。
__しかし、予測していた痛みは来なかった。
「ッ……危ない。」
どくどく、心音が大きく聞こえる。
皇太子は安堵したように息を吐く。その吐息が私の髪の毛を揺らした。
この心音は__皇太子のもの?
体が強張った。人間の体温が私を包んで、じわりと温めていく。
上を向くと、皇太子の顔が近くにあった。彼はほんの一瞬目を見開いてから、視線をそらした。
皇太子に抱きとめられたのだと気づいた瞬間、私は全身が熱くなった。
(こ、こんなの知らない!なんで顔が熱いの!?)
男の人に真っ直ぐ見つめられるのは慣れていない。
心臓が落ち着かないのは、そのせいだと思った。いや、今はそうとしか思えなかった。
「……すまない、無事か?」
「は、はい。」
「……まだ慣れていないのだから、気をつけろ。」
ぶっきらぼうな言い方とは裏腹に、私を支えている腕の力は優しいものだった。
(さっきの心音、本当に殿下のものだったの……?)
いや、きっと私が転びそうになって焦っただけだろう。
仮に私が人魚だとわかっているとして、肉が傷つけば価値が下がるから。きっと最初から、私自身のことなんて見ていないのだ。
そう思わなければ、頬の熱を誤魔化せそうになかった。
「……あの、殿下。」
「何だ。」
「その……油断してごめんなさい。」
「構わない。」
会話が続かない、途中で必ず切れてしまう。
(このもどかしい雰囲気はなんなの……!?)
沈黙が続いており、池の水音と風に踊らされる草の音しか耳に入ってこない。
皇太子はぎこちない動きで私を立たせて、一歩下がり距離をとった。
__まだ、腕の感触が残っている気がした。
それを意識した瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような感覚がした。
そのとき、私の視界はふわりと揺れ始めた。
「……どうした、大丈夫か?」
地面が遠く感じる。皇太子の声もよく聞こえない。さっきまでの温かさが、どんどん遠ざかっていく。
「セレン!!」
皇太子が私の名を呼ぶ声がした気がする。
でも、声が出ない。力が入らない。
耳に入ってくるのは、池の水音だけ。やけに大きく聞こえるそれは、私の頭に冷たく響いていた。
体がふっ、と軽くなった。
次の瞬間、視界が白く滲んだ。
◇◇◇
「レ……セレン……セレン!」
「う……殿下……?」
ふかふか、ぽかぽか、心地良い。
ベッドの上に寝ているのだと理解するのに、少し時間がかかった。
体が熱い、寒い。息が苦しくて、視界が霞む。
「セレン、大丈夫……ではないか、体調はどうだ?」
「くるしい……」
「医者を呼んだ、もう少しの辛抱だ。」
(私、意識を失ってたのね……)
頭がうまく働かなくてもどかしい。皇太子に迷惑をかけたことを謝ろうとしたが、口も動いてはくれなかった。
「体調がまだ万全じゃなかったのか?」
「ち……がう……」
「悪化したのか……」
こんなに苦しいのは初めて。
おそらく、人間の体に慣れていないせいで疲れが出たのだろう。ここ数日は気持ちの変化も激しかったから。
ふわふわして、眠ってしまいそう。
だめ、意識が朦朧として、なにもわからない。
「カノン……ねえさま……」
「ん……?それは誰の__」
「泡に……ならないで……」
自分がどういう状態なのか、それすらもわからない。
「さびしいよ……」
目からなにかがこぼれ落ちた。それを最後に、また夢の中へと意識が旅立ってしまった。
◆◆◆
「カノンとは、誰なんだ。」
彼女はまたすぐに眠ってしまった。呼吸は浅く、額はとても熱い。
聞き慣れない名前。泡、寂しい、いまいち意味が繋がらない言葉。
病人が発する、意味を持たないうわ言。それなのに、胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
このことに触れてはいけない。なぜだかそんな気がしてくる、不思議な感覚。
「……とにかく、早く回復するといいんだが。」
小さくそう呟いてから、彼女の手を優しく握った。




