第五話 皇女の病
「リッテはこっちの部屋にいる、ついて……って、歩けないんだったな。」
「はい、ごめんなさい。」
「一応聞いておくが……足の感覚はあるのか?」
私は腕を伸ばして足を触ってみた。尾ひれに触れた時のように、しっかりと感覚がある。
不思議だ。尾ひれは一つだったから、二本の足には慣れるまで時間がかかりそう。
「仕方がない、これは必要な接触だからな。」
「わっ、わあ!?」
私の体が宙に浮いている。海の中で漂って遊んだことを思い出して懐かしくなった。
足と背中を支えられている。そんな気がして上を向くと、皇太子の顔が目の前にあった。
海では感じたことのない温もりを、私は体験している。筋肉質な腕から温度が伝わってきて、何故か肩に力が入ってしまう。
そのまま何も言わずに歩き始める皇太子に、私は目を白黒させる。
「……これは、何ですか?」
「何が。」
「この、体制?」
「運ぶためにこうしただけだ。」
どうやら私は、横向きに持ち上げられて運ばれているみたいだ。
(人間は他の人間をこうして運ぶのね。)
また一つ勉強になった。と、少し喜んだのもつかの間。皇太子は素早いのか、すぐに妹の部屋までたどり着いた。
皇太子は私を降ろしてから、可愛らしい貝殻の装飾のついた扉を二回叩いた。
「はい……って、皇太子殿下……!?」
扉を開けて出てきたのは、紺色の長い服……ワンピースを着ている女性だった。
妹は寝込んでいると言っていたので、この人間は妹じゃない。色々な薬の匂いが染み付いている__おそらく世話係だろう。
「入ってもいいか?」
「ええ、もちろんです……で、その女性は……?」
「あぁ、俺の妻だ。」
ワンピースの女性は目玉が飛び出そうなほど驚愕した。いきなり言われたら誰だって驚くだろう。
「妻!?」
「それより、早くリッテに会いたい。」
「あっ、声を荒げてしまい申し訳ありません……どうぞお入りください……!!」
私は再び皇太子に持ち上げられて、二人で部屋の中へと入った。
最初に目に入ったのは、美しい黒の長髪だった。それから、皇太子と同じアイスラベンダーの大きな瞳と目が合う。
「お兄様、お出かけしてるんじゃなかったの……?」
「もう用は済んだから大丈夫、ただいま。」
「その人はだれ……?」
少し幼い声は酷く掠れていて、腕はやせ細り、脂肪の少ない小魚のようだった。
ベッドの上、半身を起こしてこちらを見る彼女は、命の灯火が今にも消えそうな、そんな印象を受けた。
皇太子は私をベッドの横に降ろして、リッテに話しかける。
「この人は、俺の妻になる人だ。」
「……お嫁さん?」
「そうだ。」
皇太子の妹__リッテは、私をじっくりと見てからこう言った。
「綺麗な人……人魚姫さまみたい。私ね、人魚姫さまのお話が好きなの。」
心臓が跳ねる。嫌な音が耳に響いて、呼吸が詰まった。
偶然だということはわかっている。それなのに、鼓動が加速していく。
動揺を誤魔化すように、私はほほ笑みながらこう言った。
「私はセレンです。私も……人魚姫のお話、好き。」
「本当?私、人魚がとっても好きなの。あのね、地方によってお話が変わるんだけどね!泡になって消えてしまうっていう結末もあるの!」
「……そうなのね。」
「うん。泡になるのは悲しいけれど、それでも、とっても綺麗だと私は思うわ。」
胸がズキズキ痛む。
綺麗なんかじゃない__絶望に満ちた終わり方だった。
表情が崩れないように気をつけながら、リッテの様子をうかがった。彼女があまりにも楽しそうに話すから、何も言うことができなかった。
「それで……けほッ、ごほっ……!!」
「大丈夫……?」
私が咄嗟にそう聞くと、リッテは呼吸を整えてから笑顔を見せた。
「えへへ、私の病気は治らないんだって、お医者さんが言っていたわ。咳も熱もよく出るし、血を吐いたことだってあるの。」
しかし、その笑顔はだんだん歪んでいき、ついには涙を流してしまった。
「私……まだお兄様と一緒にいたい……!!やりたいこともたくさんあるのに……!!いやだよ……!!」
声を震わせながらも、リッテは本音を言い切った。キュッと唇を結んで、底が見えない恐怖と不安に耐えているようだ。
「リッテ……大丈夫、セレンはリッテを治してくれる。」
「グスッ……本当なの……?」
「ええ、貴女の病気を治しに来たのよ。」
「嘘だ……だって、お医者さんでも原因がわからないって……」
信じ切っていない様子のリッテに、私は腰についていたポケットから瓶を取り出して見せた。
「これを使えば、貴女は元気になれる。」
(だけど……私は後戻りできなくなる。)
「なあに、これ……?」
「……人魚の鱗よ。」
復讐のために温存したかった。だが、私にそれはできなかった。
契約結婚抜きに、リッテを助けたいと思ってしまったから。
どうしてもカノン姉様が重なってしまう。生きたいと切実に願うその姿が。
"助けられなかった後悔"を、もう積み重ねたくはなかった。
だから私は、リッテにこの鱗を一つ使う。
「セレン……それは、どこで手に入れた……?」
「……私は密漁なんかしない、これだけは断言します。」
皇太子にはっきりと伝えると、すぐに言葉を発することはなかった。
「あのね、これを使うには代償が必要なの。」
「代償……?」
「そう__貴女の黒髪が短くなるけど、いい?」
「病気が本当に治るなら、いいよ。」
リッテが鱗を使うことを了承したので、私は瓶から鱗を一枚取り出した。
それをリッテに持たせる。冷たい感触に、彼女が小さく感嘆の声をあげた。
すると、鱗が淡く光を放ち始めた。準備が整った合図だ。
「わ、あったかくなった……」
淡い光はだんだんと強くなっていく。そして、呼吸をするように小さく脈打っていた。
熱を持った鱗は、リッテの手のひらにじんわり溶けていく。
鱗が全て溶けたその瞬間、リッテの艶やかな黒髪が一房、ベッドの上に落ちた。
「あ……」
腰のあたりまで届いていたであろう黒髪が、あごのあたりまで短くなっていた。
しかし、リッテは笑顔を見せて嬉しそうにしながら皇太子に話しかけた。
「お兄様、苦しくない!私、苦しくないわ!!」
「ほ、本当なのか……?」
「ええ!息もしやすくて、体も軽いの!どこも痛くないのよ!!」
一部始終をそばで見ていた皇太子と世話係は、目を見合わせたあとにリッテを抱きしめた。
リッテはわあわあと泣きながら、二人を思いっきり抱きしめ返していた。
(……よかった。)
人間に情を持つのは危険だ。
だが、リッテはか弱き命であった。
それでも憧れを持っていた。この子は未来を夢見ていた。
それならば仕方のないこと、そう思いたい。
私はこのやるせない気持ちを無理やり押し込める。
これは、復讐に必要なことだった。そう自分に言い聞かせなければ、胸の違和感を抑えられそうになかった。




