第四話 条件
「契約結婚……本気か?」
「本気です。」
皇太子は喉を鳴らして笑った。そして、私の首から剣をゆっくりと離した。
「役に立つ、と言ったな。」
「はい、必ず役に立ちます。」
「……いいだろう、契約結婚しよう。」
「ちょっ、えっ、殿下!?」
青白い顔で黙りこくっていたフォルティが、いきなり声を荒げた。
「本気ですか!?だって、だって!!」
「うるさい。」
皇太子がフォルティを一瞥すると、背筋をタチウオのように伸ばして固まった。
「名前は?」
「私の名前は、セレンです。」
セレンという名前は、人間では珍しい名前だったのかもしれない。皇太子は眉をひそめて『珍奇な名前だな』と呟いていた。
「セレン、契約書を書くから部屋に向かうぞ。」
「あ……歩けません。」
「……歩けない、とは?」
「歩き方を忘れてしまいました。」
フォルティと皇太子は、二人とも頭をかかえていた。歩けないくせに役に立つ、契約結婚しようなんて言うのはおかしかったのだろうか。
結果は悪くなかったので、問題はないと思ったが。
「……フォルティ、部屋まで運んでやれ。」
「は、はい!!……さ、背中に乗って。」
「ありがとう。」
フォルティの背中に再び乗せてもらい、離宮の中を進んでいく。
(……結婚だなんて、馬鹿馬鹿しい。)
誰かと結ばれることは、そんなに喜ばしいことなのだろうか。私に求婚してきた人魚はいるが……正直なところ、理解ができなかった。
これは契約結婚。愛など当然あるはずもなく、私にとっては最適な手段だったのかもしれない。
人間からの愛なんていらない、人魚として母なる海へ戻るまでの辛抱。
「着いたわよ、降りて。」
いつの間にか知らない部屋まで連れられていて、ふかふかした謎の物体の上に降ろされた。
「不思議。」
「え、ソファのことも覚えてないの?」
「うん、初めて。」
「なんというか……残った記憶が断片的なのね……」
フォルティは苦笑した。しかし、皇太子が話を始めたので、彼女は口を固く結んで凛とした表情になった。
「セレン、君はどんな契約を提示するんだ。」
「まず、私には目標があります。内容は言えません。」
私は皇太子に三つの条件を提示する。
一つ、互いの干渉は必要最低限にすること。
二つ、私が形式上だけの妻となること。
三つ、目標が果たされれば離縁すること。
「この三つを守っていただき、私も厳守します。」
「……いいだろう。だが、こちらからも条件がある。」
「条件?」
「……俺の妹についてだ。」
そう言った皇太子の表情は少しだけ柔らかく見えた。
妹に何かあったのだろうか、それともとてつもなく凶暴な人間だったりするのだろうか。サメみたいに。
(……いいえ、契約だったとしても、結婚相手の妹に失礼な発言だったわ。)
「妹さん、どうかしたのですか?」
「……病気なんだ。」
皇太子の深刻そうな顔から、重い病気なのは一目瞭然だった。その場の雰囲気が一変して、私は嫌な予感がして冷や汗を流した。
「リッテは、おてんばで元気な可愛い妹だ。」
「そうなんですね。」
「……だが、もう長いこと寝込んでいる。原因は分からない、医者も匙を投げるほどだ。」
(私の鱗なら、どんな病気も治せるけど……)
復讐する上で、致命傷を負ってしまった。そんな時のために自らの鱗を剥いだ。
当然、鱗を剥ぐのはとてつもなく痛かった。そして、鱗一枚で寿命が十年ほど短くなる。
それほど、人魚にとって大切なものなのだ。
他人のために使うことはしたくない。
「役に立つと言っただろう、君に病気は治せるか?」
一番呑みたくない条件を出されてしまった。
ここで治せると言わなくては追い出される。しかし、治すには鱗を使わなければならない。
そして、私が人魚だということを知られてしまう可能性がある。
人魚だと知られてしまえば、きっと皇太子も欲に溺れるだろう。
肉を食らえば寿命が延びる。鱗は薬になり、血を飲めば若返り美しくなれる。
人魚は人間にとって、万能な生き物だから。
しかし、カノン姉様のために、私は何でもする。
「俺は、妹のためなら何を差し出しても構わない。」
皇太子にそう言われて、私は息を呑んだ。
(ああ、この人間は"一緒"だ。)
愛する者のためなら、どんなことでもやってみせる。
それが、自分の立場や尊厳を捨てる選択になったとしても。
(今さら後戻りなんてするものか、このまま私は復讐を果たすのよ。)
「わかりました、私が病気を治しましょう。」
「……本当か?」
「ただし、その妹さんに一度会わせてほしいです。」
「……あぁ、準備が整ったらすぐに宮殿に帰ろう。」
皇太子はくしゃりと顔を歪ませてから、片手で顔をすっぽり覆い隠してしまった。
愛する者を大切に思う気持ちは、私にもよくわかる。
「フォルティ、魔道士にスクロールを用意させるよう指示してくれ。」
「わ……かりました。」
フォルティはバタバタと走り去っていき、皇太子と二人きりになってしまった。
数日間寝ずに動いていたような、そんな疲れが私を襲ってくる。
(頭が痛い……なんとか生き残れた……)
安堵するにはまだ早い、これから皇太子の妹の病気を診ないといけないから。
「皇太子殿下、失礼します。スクロールの準備が整いました。」
「セレン、出発するぞ。」
「はい。」
先ほどから気になっていたのだが、スクロールとは何なのだろうか。魔道士は……魔法使いのことだと予想できるが。
魔道士が抱えているものを皇太子に渡して、皇太子はそれを開いた。
「スクロールって、何です?」
「……あぁそうか、記憶がないのか。これは魔法が込められた紙、とでも言っておこう。」
分厚い紙を覗いてみると、赤い紋が書いてあった。
「魔法陣に血を付けると、描かれている魔法が発動する。」
(魔法を使うには血を使う。そこは人魚と変わらないのね。)
「これは、何の魔法ですか?」
「移動魔法だ、位置を宮殿に設定してある。」
……つまりは、これに血を使えば魔法が使える。そして、宮殿まで移動できる。
(こ、これなら私にも魔法が……!!)
「さあ、急ぐぞ。」
皇太子は私の隣に座って、魔道士が手に持っているナイフで自分の指先を傷つけた。
すると、私は皇太子に手を取られた。
(温かい。)
人間は温かい生き物だと知った。人魚は海の中で暮らしているので、体温が低いのだ。
太陽の光にも似たような温かさ。大きな手に私の手が包まれているのを見て、何とも言えない気持ちになった。
皇太子はスクロールに指先を付ける。
赤い魔法陣が浮き出て、私達の周りが淡く光っていく。皇太子の方を向くと、アイスラベンダーの瞳と目が合った。
「酔うぞ、目を閉じたほうがいい。」
私は慌てながら、皇太子の言った通りに目を閉じた。それから一瞬体が浮いたような感覚がして、辺りの空気が変わる。
どこか冷たくて、獲物を狙う大きなシャチを思わせる緊迫感がある。
ゆっくりと目を開ける。そこは先ほどの部屋とは違う、知らない場所だった。




