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第二十二話 水面、揺らぐ心



 中庭での小さなピクニックも終わり、私はリッテと別れて廊下を歩いていた。気持ちの整理は終わっておらず、落ちつかないまま。


 人間になってから、あんな風になったのは初めてだった。そもそも、あの力がなんなのかすら知らない。


(落ち着いて……きっと、気の所為よ。)


 そう自分に言い聞かせても、指先は不安に比例して冷たくなっていく。空気中の水分が集まっていくように、ひんやりと。


 人魚の頃だって、私に特別な力はなかった。きっとあれは、皇城にかけられた魔法だろう。私は足を止めて、ふっと息を漏らした。


 一度部屋に戻り、日傘を持ってまた廊下に出る。玄関ホールの扉を開けて、私は太陽光を日傘で遮りながら庭園へと向かった。


 今日の手入れはもう終わったらしく、今は誰もいない。温室とはまた違う種類の花が咲いていて、露が水晶のように輝いている。


 迷路のような薔薇の生垣を曲がっていくと、その先にひらけた場所があった。透明な水がゆっくり流れている噴水が中心にある。


 頂点から細く落ちていく水から、なぜか目が離せなかった。水音が、心臓の音と重なって聞こえる。規則的なのに、どこか呼ばれているような響きだった。


 喉の奥が渇く。同時に、水に触れたい衝動が私を支配するように強くなっていく。

 

 周りに誰もいないことを確認して、私は噴水に近づいた__その瞬間、ちゃぷんと音を立てて水面が盛り上がった。 


「え……?」


 風は吹いていない。なのに、水だけが反応している。まるで私に気づいたみたいに。


 そう困惑している間にも、私は無意識に噴水へ歩みを進めていた。一歩、また一歩。気づけば噴水との距離が、ほとんどなくなっていた。


(だめ、寄せられてる。)


 なんとかその場に踏みとどまり、一歩下がろうとした瞬間のこと。水柱が突然高く跳ね上がり、噴水の形が崩れた。


「__っ!!」


 私は反射的に手をかざしていた。すると、落ちていくはずの水が途中で止まる。球体のように、宙に浮いていた。まるで、時間が止まったように。


 光を受けた水の粒が、宝石のようにきらめいている。こんな風に、水が"生きている"ように見えたのは、海の中だけだった。


 背後で靴音が鳴った気がした。最初は気の所為だと思ったが、空気だけが引き締まっていくのを感じた。気配は静かなままなのに。


「何をしている。」


 鼓膜を震わす低い声。振り向くとそこには、エディアスが立っていた。


 全身の血が冷えたような気がした。集中が途切れて、水が砕けて散った。噴水から跳ねてこぼれた水が、地面を濡らし色を濃くしていく。


「い、いえ……あの、驚いて……」


 心臓がうるさい。この力のことは知らないが、きっと人間の力じゃないことは理解していた。


 見られてしまった?どこからどこまで?


 エディアスは視線を滑らせた。噴水、濡れた石畳、それから__私の手元。


「今、水が止まったように見えた。」


「……光の屈折では?」


「噴水で?」 


 彼は鋭い。でも、追い詰める声じゃない。それは確かめる声だった。


「体調は悪くないか?」


「え?」


「顔色がよくない。」


 責められていると思っていた私は、言葉を失ってしまった。


「無理をしているなら言え、ここは安全だ。」


 安全。その言葉が、私の心の奥へ沈んでいく。


(私は……危険な存在かもしれないのに?)


「……ありがとうございます。」


 それしか言えなかった。なのに、エディアスはそれ以上何も聞くことはなかった。問い詰めれば答えが出るとわかっているのに、踏み込まない。


「もし何かあれば、俺を呼べ。」


「はい……」


「……理由は問わないから。」


 その一言が、私に突き刺さるように残った。彼はそれだけ言い残して去っていく。足音が遠ざかって、背中が小さくなっていった。


(どうして……)


 暴かれるということは、とてつもなく怖いこと。それは彼もわかっているはず。


 私だって、本当の自分を知られたくない。それなのに、彼には嘘をつきたくないと思ってしまう。


 私は不安定な存在だ。色々なことを隠さなければ、きっと生きていけない。


 なのに、エディアスには心を許してしまう。隠している本当の自分が、耐えきれずに出てきてしまう。


 それが何よりも危険だった。


 指先から、雫が一つ地面に落ちた。まるで涙みたいに。


 私の中で、波が立つ。寄せて返すそれは、恐れなのか、安堵なのか、自分でもわからなかった。


 制約の言葉が、頭の中に響いていく。


『人間を愛することができなくなる。』


 なのに、胸の奥は静かに熱を持っている。禁じられていると知るほどに、その灯りは消えずに揺れていた。


 海の底では、光は遠かった。いくら手を伸ばしても、届かない場所にあった。


 けれど、今は違う。触れられる距離にあって、私の名前を優しく呼んでくれる。


 それが、どれほど残酷なことか。私はもうとっくに知っているはずなのに。


 いつも通りに戻った噴水に近づき、のぞき込んだ。水面に映った自分の影が、ほんの少し揺らいだ気がした。


 まるで、問いかけられているみたい。


 __本当に、戻るつもりがあるのかと。


 その時、静かだった水面にもう一度波紋が広がった。私の手は触れていない、風も吹いていない。けれど、水だけが震えている。


「……何なの。」


 誰に向けたわけでもない言葉が、ぽつりとこぼれた。


 波紋はゆっくりと広がり__やがて、中心に小さな光を残して消えてしまった。


 それが何を意味しているのか、私にはまだわからなかった。ただ、嫌な予感だけが消えなかった。

 

 


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