第二十一話 静かな異変
朝の光が、薄いカーテン越しに揺れているのを見た。
目を覚ました瞬間、ここが海ではないことを思い出す。波の音も、水圧もない。ただ、静かな空気だけが部屋を満たしていた。
私は自分の指先に触れ、そっと握ってみた。何もないはずなのに、まだ包まれている感覚が消えていない。
(人間の温度は、どうしてこんなに残るのかしら。)
海では、水がお互いを隔てる。熱が混ざり、溶けて、消えてしまうのだ。
でも、地上は違う。触れた温もりが、そのまま心に留まってしまう。それが嬉しくて__少し怖かった。
同時に、破ってはいけない制約も、胸の中で静かに目を覚ましていた。
『人間を愛してはならない。』
もし、はっきりとこの想いを伝えてしまえば、私は海には帰れない。私はゆっくりと息を吐いて、小さく呟いた。
「……大丈夫、忘れてないわ。」
けれど、その声は思っていたよりも揺れていた。
◇◇◇
「あ、セレンお姉ちゃん!」
「リッテ。おはよう、どうしたの?」
廊下を歩いていると、前からリッテが走ってくる。頬を赤らめ、息を切らしていた。
「あのね、これから庭園でピクニックするの!お姉ちゃんも一緒にどう?」
「いいわね、じゃあ行きましょうか。」
「やったぁ!」
リッテが私の手を取って、ぐいぐいと前に引っ張っていく。小さな手から伝わる温もりは、エディアスの温度とはまた違うものだった。
中庭に出ると、芝生の上に白い布が敷かれていた。小さな籠が置かれていて、焼き菓子や果物、紅茶の入った瓶が並んでいる。
「全部リッテが選んだの?」
「うん、甘いの多め〜!」
「ふふ、リッテらしいわね。」
敷物の上に座ると、布越しに草の感触が伝わる。海底にはない感触。柔らかくて、くすぐったい。
指先で近くの草を撫でると、触れた部分だけ露を帯びたように瑞々しく光った。草が、呼吸をするように震える。
「あれ?」
リッテが目を丸くした。
「今、綺麗になったよ?」
「朝露が残っていたのかも。」
私は微笑んで誤魔化した。これは間違いなく私の力。水と共生関係にある人魚だから、草の水分が反応したのかもしれない。
(私の気持ちが荒れているせい……かも。)
なんとかして抑えなければならない。しかし、私にはその方法がわからなかった。
そんな私の様子に気づかないまま、リッテは籠の中をごそごそと探っていた。
「はい!これ、一番おいしいやつだよ!」
差し出されたのは、砂糖がたっぷりまぶされた小さな焼き菓子だった。
「ありがとう。」
私はそれを受け取って、一口かじった。砂糖の甘さとバターの香りが舌に広がる。同時に、どこか落ちつかない気配が私の中に残っていた。
風が吹く。池の水面が小さく揺れた。
__揺れ方が、不自然だった。
(今の、風だけじゃない。)
波紋が もう一度広がる。まるで、誰かが指先で触れたように。池の底から、冷たい気配が持ち上がるようだった。
思わず視線を向けると、水面が盛り上がり__すぐに戻った。
「セレンお姉ちゃん、どうしたの?」
「え?」
「さっきから、ぼーっとしてる。」
「……少し、寝不足なの。」
嘘をついたわけではなかった。昨日の温もりが、まだ心に残っている。
その時だった。遠くの回廊に、誰かの影が見えた気がした。視線だけがこちらを見ている。
瞬きをした次の瞬間には、もういない。
(……気の所為?)
そう思ったが、水面の揺れはまだ止まっていなかった。
◆◆◆
回廊の柱の裏。二人に視線を送っていたのは__エディアスだった。彼は、最初から全て見ていた。
そう、セレンが草に触れるところも、池の水を気にしているところも、全てを。
二人の元へ歩み寄ろうとしていた足は、それを見て止まってしまったのだった。
(……彼女が草に触れた時、空気が変わった。)
ただの朝露では、説明がつかないほどの瑞々しさ。
__気の所為ではない、あれは魔力に近い反応だった。
……危険の気配があるならば、まず彼女たちを隠そう。自然とそう決めている自分に、理由が見つからなかった。
リッテは可愛らしい彼の妹、セレンは妹の命の恩人。最初はそれだけのはずだったのに、考えれば二人の笑顔ばかり。
水の反応、昨日の言葉、低い体温。点と点が繋がりそうで、繋がらなかった。
「お姉ちゃん、いつか海に行こうよ!きっと綺麗なんだろうなあ……」
「ええ、海はとっても綺麗で……素敵なのよ。」
「行ったことあるの?いいなー!」
二人の会話を聞きながら、エディアスは目を閉じて考える。
海。その言葉に、わずかに胸がざわついた。
彼女は一瞬だけ、懐かしむような目をしていた。
彼女は浜辺で倒れていたと聞いたが、記憶喪失だった。それが事実のはずなのに、彼女の目は見たこともないような景色を思い出しているような視線だった。
(やはり、彼女にも何かある。)
だが、それを暴くことが正しいのかはわからない。
秘密には、触れないほうがいいものもある。無理に引き剥がせば……壊れてしまう心だってある。
彼女は今、ここで笑っている。リッテと並んで、穏やかに。それでいいはずだ。
もし、彼女が人間でなかったとしても。
この国にとって異質な存在だったとしても。
それでも、俺は__
そこまで考えて、エディアスは小さく息を吐いた。
「……まだ、早いな。」
結論を出すには早すぎる。だが、一つだけ確かなことがある。
危険が迫るなら、迷わず自分が盾になる。
それだけは、もう決めたことだった。




