第二十話 選んだ手
広場を離れてから、誰も言葉を発さなかった。馬車の中には、車輪の振動だけが響いている。
向かいに座るエディアスは、ずっと窓の外を見ていた。けれど、その視線は景色ではなく__過去を見ているように見えた。
皇城に戻り玄関ホールに着くと、エディアスは俯いたまま拳を強く握っていた。その背中からは、後悔と怒りが漂っている。
「……セレン、少し話がしたい。」
「わかりました、ではお部屋の方へ行きましょう。」
そのままエディアスの部屋へと向かい、扉を閉める音が聞こえたところで彼はようやく口を開いた。
「俺は……昔、レベリオに『連れて行って』と言われた。」
その声は掠れていた。言葉の一つ一つに、彼の覚悟が見え隠れしている。
「泣いていた、今にも壊れそうな顔で。」
エディアスの苦しげな顔を見て、胸がきゅっと痛む。
「なのに俺は……伸ばされた手を取らなかった。」
そこまで言って、エディアスは唇を噛んだ。傷になってしまうと思ったが……言葉がうまく出てこなかった。
「助けたいとは思った、でも__違うと思った。」
「違う?」
「俺の気持ちは"愛"じゃなかった。」
彼は自分を嘲笑しているような、そんな諦めた笑みを浮かべてこう言った。
「それは、守らなきゃいけないという義務感だった。」
気づくと、私の頬は涙で濡れていた。口に入った水滴が塩辛くて、エディアスの気持ちが伝わってきて、涙が止まらない。
「手を取れば、あいつは俺だけを見るようになると思った。だがそれは救いじゃない、依存だ。」
(あぁ、この人は__誰かを突き放してでも、大切なものを守る人なんだ。)
「失望したか?俺は……臆病で、最低な人間だ。」
「いいえ。」
思っていたよりも早く言葉が出た。食い気味に答えた私に、エディアスが大きく目を見開いた。
「臆病なんかじゃない。本当に臆病なら、あの時手を取っていたはずです。」
「セレン……」
私は彼に一歩近づく。
「嫌われる選択なんて、誰だってしたくない。」
エディアスの強く握られた拳に、自分の手を優しく包むように重ねた。彼の冷たい指先と、私の手のひらの温度が混ざって溶けていく。
「そんな顔、しないでください。」
「……ッさっき、言いかけた言葉は何だ?」
「え?」
「広場で、何か言おうとしていただろう。」
心臓がトクトクと、ゆっくり速度を増していく。
「……覚えていません。」
「…………そうか。」
沈黙が落ちる中で、私はいたたまれない気持ちになった。彼と目を合わすことさえできないほどに。
(嘘、ついちゃった。)
本当は、全部覚えている。私は確かに『愛している』と言おうとした。
触れたままの手から、鼓動が伝わってくる気がした。人間の温度は、海とは違う。冷たくて、温かくて、不思議と安心する。
私が無意識に指先へ力を込めてしまったのか、エディアスの手がわずかに動いた。逃げるでもなく、握り返すでもなく、ただ確かめるように。
「君は、俺が怖くないのか?」
「いいえ、全く。」
「どうして、俺を信じる?」
「理由なんてありませんよ。」
私はゆっくりと、エディアスに気持ちを伝えていく。一つずつ、確実に伝わるまで積み上げる。
「ただ、貴方を見てきたからです。触れて、知って、信じたいと思った。」
王妃は彼を縛りたがっていた。だけど、彼はあえて縛らなかった。同じ想いでも、こんなに違う。
彼の指先が、少しだけ握り返してくれた。それだけで、私は胸が弾んでしまう。
手を重ねたまま、どちらも離さなかった。離す理由も、言葉も見つからなくて。
沈黙なのに、不思議と苦しくない。互いの呼吸音しか聞こえないような、そんな柔らかい時間が流れている。
「……俺は、誰かにそこまで信じられるような人間ではない。」
小さく息を吐いてから、エディアスはそう呟いた。
「それは、貴方が決めることじゃありません。」
手元を見ていた顔を上げた。アイスラベンダーを見つめながらそう言うと、彼は驚いたような表情をしていた。
「信じるかどうかは、私が決めます。」
高鳴る心臓が、そのまま口から出てしまいそう。身体が燃える炎のように熱くて。
でも、もう隠したくはなかった。
「私は、選んだんですよ。」
「何を?」
「……貴方のそばにいることを、自ら。」
言ってから、自分でも驚くほど率直な言葉だと思った。指先に力がどんどん入っていく。
それに応えるように、エディアスは私の手を大きな手で包んだ。彼は何も言わなかったが、これが答えのようで胸があたたかくなる。
言葉にしなくても伝わる温度があるのだと、私はこの日初めて知った。
潮のない部屋なのに、胸の奥だけが静かに満ちていく。泳げない地上で、私は初めて息ができた気がした。
海はいつも揺れている。形を変えながら、それでも同じ場所に在り続ける。
人の心も、きっと同じだ。
揺れて、迷って、それでも__誰かのそばにいたいと願う。
私は今日、ひとつ選んだのだ。言葉にしない想いを抱えたままでも、そばにいることを。
だって、それでもいいと思えたから。




