第十八話 その微笑みは
目をゆっくり開け、眩しい朝日にまた目を閉じる。鳥の声も、廊下を歩く使用人の声も、何もかも遠く聞こえる。
まるで、昨日の展示室に全てを置き去りにしたみたい。
私は上体を起こして、何気なく横を見た。エディアスが、ベッド横の椅子に座っている。しかし、目を閉じて眠っている様子だった。
(……もしかして、ずっとここにいたの?)
ベッドの上を移動して、エディアスのそばに近寄る。彼の目元には隈があり、昨夜あまり眠れていなかったことがわかった。
「エディアス……」
「……ん、朝か。」
(あっ、起こしちゃったわ……)
「ごめんなさい、起こしてしまって……」
「いや、問題ない。」
態度はいつも通りなのに、声が少し掠れていた。無理をしているのは、どうやら私だけじゃないみたい。
「体調はどうだ?」
「……昨日よりは。」
嘘ではない。が、全てが戻ったわけでもない。昨日の展示がまだ胸の奥に沈んで動かない。名前を付ければ壊れてしまいそうで、私はそれに触れないようにしていた。
エディアスは水差しからグラスに水を注ぐ。それを私に手渡す仕草が、妙に慎重だった。まるで、壊れ物を扱うように。
(そんな顔、しないで。)
エディアスの頬に触れる。目の下を親指でなぞると、くすぐったそうに息を漏らした。
「どうした?」
「……ごめんなさい、色々迷惑をかけてしまって。」
「迷惑だなんて、思っていない。」
間髪入れずにそう答えられて、私は思わず瞬きをした。
「昨日は……あれは、人を選ぶものだった。」
言い淀んだ。『人魚』と直接は口にしなかった。しかし、彼の頭に浮かんでいるのは展示ではなく、きっとレベリオ王妃なのだろう。
(……貴方と王妃には、何があったの?)
そう問いかけようとして、喉の奥で飲み込んだ。聞いてしまえば、何かが決定的に変わってしまう。そんな気がして聞けなかった。
その時だった。
__コン、コン。
扉を叩く音が響いた。いつもより急ぐような音。
「失礼します、至急ご報告がございます。」
張り詰めたような侍従の声。エディアスの表情が一気に引き締まった。
「入れ。」
扉が開き、侍従が私達の元へ駆け寄った。
「展示会ですが__城外で騒ぎが起こっております。」
「騒ぎ?」
「一部の来賓と神殿関係者が、展示内容を問題視しております。加えて、王妃の使節団が強く反発し……現在、入場を巡り衝突が発生しています。」
場の空気が一変した。柔らかかったエディアスの雰囲気は、硬いものになった。
「……規模は?」
「放置できる段階ではありません。」
エディアスは侍従の言葉に頭をかかえ、ため息を吐いた。それから私の方に向き直して、申し訳なさそうに口を開いた。
「……セレン、公務についてきてくれるか?」
「ええ、大丈夫ですよ。」
エディアスはすぐに立ち上がり、侍従にメイドと護衛を呼ぶように伝え、部屋から退出させた。私は毛布を畳み、深く息を吸う。
胸の奥はまだ冷たいままだったが、ここで立ち止まるわけにもいかない。
「無理はするな。」
「……貴方のそばにいます。」
一瞬大きく見開いた彼の目は、すぐに細められた。
「失礼します、セレン様のお着替えを。」
「ああ……セレン、俺は外で待っている。」
「ええ、すぐに行きます。」
エディアスとすれ違いでメイドがこちらに寄ってくる。ドレスルームで着るものを選び、それを着用してから頭を整えられた。
支度が済んだ私は、廊下に出て駆け足で玄関ホールへ向かう。その間、展示のことを思い出しては涙が出そうになり、グッと唇を噛んだ。
「おまたせしました、行きましょう。」
外には既に護衛が集められており、軽装の馬車が停まっていた。
「馬車を回せ、最速で迎賓広場に。」
「はっ。」
馬車に乗り込むと、私達が座ったのを確認してすぐに動き始める。窓の外で、蹄の高らかな音が響いていた。
私は外套を羽織り直し、小さく息を整える。平静を装ってはいるが、まだ微かに手が震えている。
沈黙が落ちる。緊張からなのか、はたまた過去に思いを馳せているからなのか。それは誰にもわからなかった。
◇◇◇
馬車は揺れも構わずに石畳の上を駆け抜ける。すると、次第に人々の叫びが大きくなっていった。
馬車が速度を落とした。同時に、外の音が波のように押し寄せてくる。怒号、ざわめき、誰かの叫び声。
「死者を、ましてや人魚を飾りにするなんて許されるか!!」
「創世神を冒涜する気か!?神殿は抗議する!!」
馬車の窓越しに、人々を見た。迎賓広場は、怒りと憎悪に塗られていた。
馬車から降りると、私達の元へ人が集まった。誰も彼も、自分の意見を聞いてもらおうと必死になっている。
(……醜い。)
辺りの空気が、展示室の匂いと似ていた。
「皆、静粛に。」
エディアスが大きな声でそう言うと、人々が一斉にこちらを見る。広場がわずかに静まった。まだ怒号は消えていない。ただ、向け先を見つけたかのように視線が集まった。
エディアスが一歩前へ出る。その背中は、私がいつも目にしているものよりもずっと大きく見えた。
「まず状況を説明しろ。誰が、何に対して抗議している。」
感情を押し出さない、冷たく整った声。それに応えるように、装束をまとった男が前に出た。
「展示内容が神の教えに反しているのです。命の痕跡を見せ物にするなど、許される行為ではありません。」
そこに、別の来賓が割って入る。
「人魚は保護対象であるはずだ!外交問題になるぞ!」
「いいや!これは王妃の功績だ!」
「芸術だろう!!」
言葉が重なり、再び人々のざわめきが膨らんでいく。それを、手を挙げただけで制したのがエディアスだった。
「展示は現在、調査中だ。」
一瞬だけ、空気が止まる。
「問題が確認され次第、直ちに展示を中止する。」
人々の叫びが、次第にどよめきに変わっていく。
(中止……)
心臓が強く脈打った。レベリオ王妃の顔が頭によぎり、気づけば一筋の冷や汗を垂らしていた。
それほどに、まとわりつくような不安と嫌な予感が私の周りを渦巻いている。何も起きないまま中止になることを願って、両手を強く握りしめた。
そこで、私はとあることに気づいてしまった。
群衆の奥、展示会の会場へ続く階段に佇む、一人の女性。白いレースの手袋、黒い外套、妖しい微笑み。
紫の瞳__レベリオ王妃と目が合った。逸らさなかった。
その瞬間、恍惚と口元が歪められた。まるで、この混乱すら余興であるかのように。




