第十七話 残響
皇城の私室にて、私はソファに縮こまりながら座っていた。目を閉じると展示を思い出してしまい、エディアスにかけられた毛布を握る。
(まだ、頭の中に響いてる。)
安全な場所のはずなのに、安全に感じられない。先ほどからずっと、あの微笑みに覗かれている気がしてならなかった。
「大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないです。」
「そ……そうか。」
音も、匂いも、あの冷たさも。全てが鮮明で、私の脳にこびりついて離れない。人間の世界で人魚があんなことになっているなんて、思いもしなかった。
エディアスは先ほどから、ソファに座る私の後ろで落ちつかない様子を見せている。彼は私の正体を知らないので、何故私が酷く憔悴しているのかがわからないのだろう。
(……あの展示は、わざとなの?)
王妃のことが理解できなかった。私のことを痛めつけたいのだとしか思えなかった。
しかし、それ以上を考えようとすると、理由もなく胸が苦しくなってしまうのだ。私は目の前に差し出された紅茶に集中して、思考を放棄した。
◆◆◆
エディアスは、ソファに小さくなるセレンをただ見つめていた。
肩を震わせ、身を縮め、毛布を強く握りしめている。その姿はまるで、行き場を失った迷子の子供のようだった。
だが、部屋は暖かい。きっと、他に震えている理由があるのだろう。
(……何を見た。)
問いかけは、喉の奥で止まって出なかった。
展示会の最中、セレンは何度も息を詰まらせていた。苦しそうに、悲しげに。だが、エディアスにはその理由がわからなかった。わからないまま、腕の中に引き寄せて連れ出すことしかできなかったのだ。
守れたはず。なのに、守れていない。
その事実に、エディアスの心は急速に曇っていく。
「無理に話さなくて、いい。」
口にした言葉は酷く不器用で、毛布越しにセレンの頭を撫でる手はぎこちなかった。それでも、何もしないよりかは良いと思った。
セレンは何も反応を示さず、毛布を握る指に力を込めるばかりだった。
__あの時、彼女は何故涙を見せた?どうして限界を超えるまで耐えていた?
(俺の知らない彼女が、そこにいる。)
踏み込むつもりも、踏み荒らすつもりもない。ただ__放っておくことが、できなかった。
エディアスはそっと距離を詰め、逃げ場を塞がないようにして、彼女の横へ腰を下ろした。
今はただ、ここにいる。それしかエディアスにできることはなかった。
◆◆◆
「……すみません、少し落ち着きました。」
毛布から顔を出して、エディアスの方をおずおずと見た。彼は私の頬に手を当てて、顔色と体温を確かめているようだった。
目を閉じれば、展示室の匂いが未だ蘇ってくる。けれど、本当に思い出せるのは途中まで。
本当に恐ろしかったものほど、名前を持たないまま沈んでいく。
__あれで終わりのはずがない。レベリオ王妃の声が、どこかでまだ続いているような気がした。『一番に見せたい。』その言葉の意味は、はたしてどんなものだろうか。
「……俺は何も聞かない。」
ゆっくりとエディアスを見上げた。彼は真剣な眼差しで私のことを見据えている。無表情ではあるが、私への気遣いでいっぱい。そんな顔をしていた。
(あれ……眠くなってきた……)
衝撃に体が耐えられなかったのだろうか、水圧で下に押されているように体が重くなった。だんだんと頭の中に霧がかかっていき、呂律が回らなくなる。
「……おやすみ、セレン。」
エディアスが私の髪を撫でた。それに安心感を持ち、私は瞼をゆっくりと閉じる。
彼の考えていることも、なにもわからないまま、深い眠りへと誘われた。
◆◆◆
__あの時も、同じ選択をした。
言えば壊れてしまう、言わねばいつか憎まれる。それでも、エディアスは口を閉ざす選択をした。
彼女のためを思ってのことだった。それが、今もなお彼を苦しめている。もう、戻れないところまで来てしまったのかもしれない。
「……正解が見つからないな。」
エディアスはセレンを抱き上げて、ベッドの海へと優しく沈めた。ベッドサイドに座り、セレンの表情をじっくりと見つめる。
(先ほどよりも、穏やかな顔をしているな。)
思い詰めていた様子のセレンが、今は安心しきったような表情で夢を見ている。そう思うと、少しだけ心が軽くなった。
あの展示は、見せてはいけなかった。しかし、見せられてしまった。セレンに何があったのかは知らないが、きっと何か事情があるのだろう。
__昔、手を取らなかったせいであんなことになった、そうに決まっている。エディアスはそう考えては、その端正な顔を歪めていく。
誠実で正しい皇太子、世間はエディアスをそう呼んでいる。しかし、実際はそうではないのだ。嘘をついていて、不誠実な皇太子。
ただ、黙ることしかできない人間。それが彼であった。
セレンが起きたとしても、彼は何も言うことはないだろう。問われたとしても逸らす。それが、セレンを守ると信じている。
夜の帳が降り始め、セレンの顔が影で覆われる。エディアスは、暗い部屋の中で顔を両手で覆った。
彼の心は、消えることのない悔やみを引きずっていくのだろう。誰も、彼を救えやしないのだ。
闇夜が二人を包んだ。規則正しい呼吸音と、震えた吐息だけが耳に残っていた。




