第5話 優子
麗子の身体が強く引っ張られた。
先程までとは比べ物にならないぐらい、強く強く。
手に持っていた傘を離してしまい、思わず転げてしまう。
麗子は身を起こしながら、自分がどこに転がったのかを恐る恐る確かめた。
押せば落ちる、自分が思い浮かべた言葉が頭に響く。
柵が壊されている部分、池を背中にして麗子はゆっくりと立ち上がった。
靴も足も、お気に入りの白のワンピースも泥だらけになってしまった。
しかし、そんなものを気にしている場合ではない。
優子が険しい目つきで、麗子を睨んでいた。
ゆっくりと一歩ずつ近づいてきて、傘を放り投げて真正面から麗子の肩を掴んだ。
「ねぇ、私はたっくんが好き。れいちゃんもそうでしょ?」
優子の目は険しいまま、引きつった口元が、ぎこちなくゆっくりと動いた。
恋愛。
誰かが誰かを好きになる。
幼い頃から周りの友達はそういう話に夢中でずっと聞かされた話題だった。
でも、麗子にはそういう感情がよくわからなかった。
誰かを好きになるということが、誰かを大切に想うことなら――麗子にとって一番大切なのは、優子だ。
だから恋愛というものはよくわからない、まだそんな感情を抱いたことなんて無いと思っていた。
「れいちゃんもそうなんでしょ!?」
優子の声が掠れるほど強張っていた。
怒り、焦り、悲しみ。
ぐちゃぐちゃに絡み合って、今にも壊れそうな声だった。
肩に指の痕がくっきりと残るほど、優子の手に力がこもる。
麗子は震えた。
雷鳴よりも、この近すぎる瞳が怖い。
そこにあるのは、もう知っている姉の光ではなかった。
他人を見るようだった、双子の姉とは違う、まったくの他人。
恐怖にどう答えればいいものかわからなかった。
わからない、で優子が納得するとも思えなかった。
だけど貴史の事を嫌いとも言えなかった。
嫌い、という感情も抱いてはいないし、優子に嘘をつくのも怖かった。
だから、いつもの様に、姉の意見に従った。
「うんそうだね、わたしも好――」
感情が上手く乗らない言葉を麗子がぎこちなく発していると、それを遮るように音が鳴った。
それは、雨音でも雷鳴でもなかった。
獣が吠えるような、むき出しの声だった。
麗子の目の前の、最早麗子にとってそれが誰だか定かではなくなった人物から発せられる声。
双子の、自分とそっくりな姉ではない。
わたしとゆうちゃんは、まったくの別人、別の生き物だ。
麗子は自身の身体が宙に浮くのを、ゆっくりと感じた。
肩を強く押され、池へと落とされる。
強く押したのは目の前にいる、恋愛というよくわからないものにとりつかれた、獣。
麗子が池に、沼に沈んでいく。
それを優子は見下ろしながら、ありったけの感情をぶちまけた。
「そうやって、そうやって! 私の意見に頷いてみせてばっかりで! そうやって、ずっと私の真似ばっかりするのに! 真似ばっかりするのに、なんで!? なんで、たっくんはれいちゃんばっかり見るの!? れいちゃんなんて私の真似ばっかりじゃない、私の、偽者じゃないっ!?」
ぶつけてもぶつけても、溢れ出す感情は涙になった。
拭っても拭っても止まらなかった。
感情も止まらなかった。
怒りも嫉妬も、憧れも。
沼に沈んでいく、助けを乞う麗子の動きが止まった。
水が冷たく、泥が肌を絡め取る。
息が詰まるほどの圧迫感。
必死に手を伸ばしても、水は掴めない。
土や砂のせいで濁っていてわかりづらいが、池はその土や砂のせいで浅いのだ。
優子は一度池に入ってみた事があって、腰ほどしかないのを知っていた。
あの時は、公園でボール遊びをしていて池に入ってしまい拾おうと優子も入ったのだ。
麗子から視線を外し、優子は空を見上げる。
雨雲が広がる真っ暗な空から大きな雨粒が絶え間なく降ってきて、何度も何度も雷が輝き轟音を響かせていた。
優子はそれが自分の感情の様に思えた。
今は真っ暗な雨雲が広がっていて、自分の中の何かが雷の様に吠えたのだ。
でもいつかは、雨雲が流れていき晴れていく。
青空がいっぱいに広がるのだろう。
優子は謝ろうと思った。
直ぐさま謝ろうと。
自分の胸に抱いたもやもやとしたものを、その感情の塊を吐き出したいだけ吐き出したのだ。
それが最低な事なのはわかっていた。
自分の行動が、自分の言葉が、自分の感情が最低な事はわかっていた。
だけど吐き出したくて仕方がなかった。
私はれいちゃんとは違う。
自分の感情を圧し殺して頷くだけなんてできはしない。
だから、謝ろうと思った。
そんな自分を許して欲しいと。
だけど、それは遅かった。
雷鳴が轟く。
視線を麗子に向けた優子の悲鳴を、助けを乞う声を、欠き消す様に雷鳴が轟く。
強い雨粒が土や砂を流していく。
とめどない雨量に池のかさが増し、そして底をさらっていく。
雷鳴が轟く。
欠き消されたのは優子の声だけで、麗子の声は元から聞こえなかった。




