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菜名宮六乃の革命日記  作者: 冬月 木
ある不良生徒について
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ある不良生徒について-8

今日訪れている駅前のデパートみたいな商業施設は、さまざまな施設が混在している。


当初の目的であったケーキバイキングを開催しているレストランのほかにも複数の飲食店があったり、次に訪れたダーツコーナーがあったゲームセンター以外にも、ボーリングやカラオケなんかの娯楽もある。いわばここに来ればどんな施設も存在するのだ。流石中学時代の人気デートスポットno.1(俺調べ)である。


当然俺はそんな相手がいなかったので、中学時代にデートでここに来るなんてのはまずなかった。だいたい1人で来て上の階にある本屋に行くか南へのプレゼント買う目的くらいでしか訪れていない。


そんな様々な店が混在するこの商業施設だが、施設の大多数の面積を占めるのは、アパレルショップでだ。


おおよそ施設の半分程度を占めるそれらはレディースやメンズの服、帽子や腕時計といったアクセサリー類、あるいは頭や手につける雑貨の類など様々な商品を扱った店が混在している。


服1つとってもいろんなブランドがあるらしく、この施設の1フロア全てがレディースの服を専門に取り扱っているレベルだ。


おしゃれのことが全くわからない俺は、なぜこんなに店が立ち並んでいるのかが疑問ではあるし、何で世の女子は服の買い物にそんなに真剣になったりあるいは楽しんだりするのかがわからない。


ただまあ、女子には女子にしかわからない世界があるのだろう。知らないことを頭ごなしに否定しても何の意味もないし、本人たちが楽しんでいて俺に被害が及ばなければそれでいい。


目の前のアパレルショップで、雛城と菜名宮は2人で服を選んでいる。菜名宮が「芽衣奈ちゃんがおしゃれ好きなら、一緒に服見たい」と言い出し、雛城が付き合っている感じだ。店の中にいる2人は、お互い服を手に取り相手に似合いそうなものを探している。


「菜名宮って…この柄着ても違和感なさそうのすごいな。」


「芽衣奈ちゃんこそスタイルいいから何でも似合いそうだよね。」


外野視点から見れば、仲のいい女子高生が放課後制服で服を選びあっている仲睦まじい光景に見えるだろう。つい数時間前までほとんど他人みたいなものだった2人とは到底思えない。


雛城は最初、渋々菜名宮についていくといった感じだったが今は菜名宮と同じくらいノリノリに見える。


元々おしゃれが好きみたいだしな。『何やってるんだろう』という考えすらなければ、純粋に楽しめる趣味ではあるのだろう。


店の前のベンチで、女子高生2人が楽しそうに買い物をしているのをひたすら眺めている陰キャ。ワンチャン事案になるなこれ。絵面だけ見たら犯罪一歩手前に見えるかもしれない。


もし警備員の人になんか言われたら、流石に2人が庇ってくれると思うのでその点は心配していないが。

ずっと買い物を眺めてても何も面白くなかったので、スマホをいじって時間を潰す。


15分ほどすれば、買い物袋片手に菜名宮と雛城が店から出てきた。


「結構買ってんな。」


菜名宮の手元を見れば袋いっぱいとまではいかないが、そこそこの量の服があることがわかる。雛城の方も菜名宮ほどではないが服を買っているようだった。


「芽衣奈ちゃんが色々お薦めしてくれてね。服選ぶセンスが良かったから、買ったんだ。」


菜名宮は笑いながら雛城の方を向く。雛城は少し恥ずかしそうに、しかし満更でもなさそうにしていた。


「菜名宮のモデルがいいからね。色んな服が似合ってたんだ。だからついついお薦めしちゃった。」


「本当にありがとうね。今年の夏服これで困らないや。」


「全然いいよ。むしろ楽しんでたのは私の方だし。」

菜名宮の服の量を見る限り、雛城は言っていた通り本当に買い物を楽しんでいたようだった。


やっぱ普通にお洒落好きなんだな。高校入学前にお洒落をやってみたがすぐにやる気がなくなったというのは、おそらく体操という生きがいが雛城のことを強く引っ張っていたに過ぎないのだろう。


その楔さえなければ、雛城にとって服選びは十分楽しめることなのだろう。それこそ普通の女子高生のように。


「いやあ、こうやって誰かと買い物に来ることなんてなかったから、新鮮だったよ。」

「え、普段から誰かと買い物行ったりしないのか?」

「大体一人。ずっと体操やってたから、私友達いなかったし。」


「そんな悲しいことさらっと言えるのは十分重症だぞ。」


まあ小学校から体操を本気でやっていた雛城にとって、誰かと遊ぶこと自体が稀だったのだろう。もしかしたら、雛城にとっては遊ぶ事すら不真面目だったのかもしれない。


高校では普段から屋上とかの教室以外の場所で過ごしているっぽいし、友達いないのもおかしくはないか。


「それならまた今度買い物行かない?時間ある時でいいから別のとこも見て回ろうよ。」


雛城の悲しいエピソードを見かねてか、あるいは単純に自分の希望か、菜名宮がそんなことを言った。


「ここら辺って色んなアパレルショップあるから、また服買っておきたいんだよね。」


「え、いいね。菜名宮のおすすめのお店とかあるの?」

「いっぱいあるよ。次はそこ行こうか。」


「おっけー。」


…遊びの約束って、こんな簡単に決まるもんなんだな。遊びに誘われることがほとんどなかったから知らなかった。なんかこう、もっとハードルが高いものじゃなかったんだな。じゃあ俺がこんな経験をしたことがないってことはつまりそういうことだろう。


「…なんか悲しいこと考えてない?」


「いや、何も。」


菜名宮が心配そうにこちらを覗き込む。咄嗟に否定したが、菜名宮に心の中を見透かされていたようだ。また心の内読まれたんだけど。


「いやあ、楽しみだなあ。菜名宮ってモデルがいいから、いろんな服似合いそう。」


ぼっちを嘆く俺と俺に同情する菜名宮を横目に、雛城はもう次の遊びのことを考えているようだった。


側から見れば、遊びの約束を楽しみに待っている普通の女子高生と、何ら変わりはしない。


「そんなに褒めても何も出ないよ?」


「本当のこと言ってるだけだよ。菜名宮って、びっくりするほど何着ても似合うし。」


「大袈裟だなあ。」


「いやいや、どんなコーデもぴったしだったじゃん。実際顔も整ってるし、スタイルいいからかな。」


「まあそうだな。」


菜名宮は容姿が人よりも結構良い。学校で人気者なのは見た目がいいのも要因の一つだろう。だから何着ても似合うってのはあながち間違ってもいないのかもしれない。


菜名宮の容姿が人を惹きつけるのは紛れもない事実で、現に菜名宮が告白されたはよく耳にする。というかそもそも本人からも何回か聞いた。


自慢げに告白されたと言ってモテるアピールをする菜名宮に、何度イラついたかはそれこそ数えきれないくらいだ。告白された煽りを捌けない日本の法律はやっぱおかしいと思う。


「え?」


俺の言葉に対してか、雛城は目を丸くしている。


「ん?なんかおかしいこと言ったか?」


「…篠末って菜名宮を可愛いって思ってるんだね?」


「そりゃな。客観的に見て顔はかなりいい方だろ。流石に俺だってそんなことくらいはわかるぞ。」


菜名宮の顔が整っていると言うのは本当のことだ。わざわざそんなしょぼい嘘をつくほど捻くれてはいない。


妹や先生によく捻くれていると言われるが、そんなことないと信じている。菜名宮にもよく捻くれていると言われるが、多分こいつの方が3倍くらい捻くれてる。


「あれ、タキって私のこと可愛いと思ってたんだ?」


「ごめん前言撤回、やっぱこの顔ムカつくわ。」


菜名宮はニヤニヤしていた。めちゃくちゃうざったらしいほどに。


そろそろ俺一発くらい菜名宮にボディーブローくらいなら入れても怒られないんじゃないかな?それくらいこいつに煽られてる。


「はははっ!タキくんさあ、私のこと可愛いって思ってるなら素直にそう言えばいいのに。」


「言ったらこうなるってわかってるのに口にするわけ訳ねえだろ…」


菜名宮を褒めると碌なことにならないってのはこの一年で学んだ。褒めてもメリットは何も発生しないしただただ菜名宮がうざいだけだ。


腹が立つ笑顔をしている菜名宮をスルーし雛城の方を見れば、さっきと同じようにきょとんとしている。


「…なんか、意外だね。篠末はもっと菜名宮を低く見てるのかと思ってたよ。」


「低く見てる?こいつのことをか?」


「うん。篠末は菜名宮に対する評価がもっと低いかと思ってた。何の躊躇もなく絡みに行ってるし。」


「絡んでくるのはこいつからなんだけどな。」


大体厄介ごとを持ち込んでくるのは菜名宮だし被害を被ることを持ってくるのも菜名宮、もはやこれ疫病神だろ。


「でもまあ、菜名宮に対する評価が低いってのは間違いだな。むしろこんなハイスペック野郎なんてそうそう見つからねえだろ。菜名宮って性格以外完璧とも言える人間だしな。」


容姿がいい、勉強もできる、運動神経抜群、コミュ力高い、おまけに人にも優しい。性格以外完璧と言ったが、俺以外に対してはむしろ性格もいい。菜名宮は俺とは対角にいるような人間だ。


それこそ初めて会った時とかマジで神の存在疑ったレベルだからな。この世は平等だとか言ってる奴いるけど、俺はこいつにあった瞬間、その考え方は間違ってると確信した。


「あれ〜、タキくん。私のこといつもバカにしてると思ってたけど、それって嘘だったの?」


やっぱり腹立つ表情をした菜名宮がそんなことを言った。俺の肩をポンポンと叩きながら振り向かせようとしてくる。


「そういうとこだぞ。」


「もっと素直になればいいのに。タキったら照れちゃってさ。これが巷でいうツンデレってやつ?」


「マジで一回殴らせろ。」


「きゃー、こわーい。」


菜名宮はまるでぶりっ子のように、両手を合わせてこちらに壁を作る仕草を取る。ほんとどこまでこいつはうざいんだ。


「…なんか、コントみたいだね。」

「は?」


「篠末と菜名宮の掛け合いって、やり慣れてる感あるというか。お互いに信頼し合ってるからこそのやりとりだよね。」


「信頼、ねえ。」


菜名宮はいつも俺を煽ってきて、自分勝手で、自由気ままである。付き合いで言えば1年と少しのはずなのに、もう数えるのを辞めているくらい俺は菜名宮に色んな被害に遭っている。


俺にとって菜名宮は平穏を乱す、最悪な存在だ。だがそんな俺にとって最悪な行動が、逆に周囲の人間や俺自身に利益をもたらしている事もまた否定できない。


そんな奴を信頼しているかと自分の中で聞いてみるが答えは出てこない。俺はある側面から見れば菜名宮六乃のことを誰よりも知っている自信があるが、反面、当然知らない事もたくさんある。そんな相手を信頼しているかと言われれば完全にイエスとは言えないのが現実だ。


というかそもそも、シンプルに学校にちゃんと来るって約束を菜名宮はしょっちゅうすっぽかしてる。

少なくとも学校に関しては、菜名宮のこと何も信頼してねえな。


そんなことを考えていると、急に背中に何かがのしかかったような衝撃を受ける。振り返ってみれば手に買い物袋を持った菜名宮が、俺と肩を組むように首に手を回してきていた。


「もちろん、私はタキのこと信頼しまくってるよ。」


菜名宮はそう言うと俺の右頬を人差し指でぷにぷにと突き刺す。


「おい…いきなり何すんだよ。」


「私にとって、タキは相棒だからね。」


「話聞いてくれない?」


「相棒かあ。そうかあ。」


「おい雛城までスルーすんなよ。お前が突っ込まなくなったら終わりだろ。」


俺はついに誰にも認知されなくなったのかよ。もしかして透明人間になったか?


「うん、相棒。私にとってタキは、かけがえのない存在だから。」


菜名宮は人差し指を俺の頬から話すと、今度はさらに前の方に体重をかけてくる。めちゃくちゃ腰痛いんだけど。


「ていうかお前の相棒になったつもりないんだけど。俺にとっちゃお前はただの害悪スプリンクラーだ。」


菜名宮は相棒なんて言ってくるが、少なくとも俺はこいつの相棒だという自覚がない。


「そりゃそうだよ。相棒ってなろうとしてなるもんじゃないからね。自然にそうなってるものなんだよ。」


菜名宮は俺の首から手を外しとんっと俺の横に着地する。そうして、笑顔でそんなことを言った。


「何だよそれ…意味不明なんだけど。」


「私はタキとは友達でも恋人でも知り合いでもないからね。他の何でもない、相棒だよ。」


「いっつも通り、答えになってねえな。」


ため息混じりに俺が呟けばくすくすと笑う声が隣から聞こえてくる。その方向を振り向けば、雛城が口元を抑えておかしそうにしていた。


「何で笑ってんの?」


「やっぱり、菜名宮と篠末は信頼し合ってんだね。」


そうしてそんな意味不明なことを言うのだった。




プルルルと、ポケットに入れたスマホが鳴ったのはちょうどデパートを出ようとした時だ。女子2人が買い物を満喫し終えいよいよ帰宅するかという流れになっていた。


「…は、電話?」


俺の元に電話がかかってくることなんてまずない。そもそも連絡先を知っているのが家族と菜名宮、あと運気が上がるパワーストーンを勧めてくる2、3人程度だ。


思わずこんな反応をするくらいには、普段から誰かと電話をする習慣がない。それこそ一昨日菜名宮と電話をしたのがだいぶ久しぶりの出来事だった。


スマホを取り出して夕刻ごろを示す時計が載っているホーム画面を開く。すると画面には、見知らぬ電話番号と共に、「朝顔夏目」という名前が表示されていた。


「…え、なんで。」


またなんかやらかしたかな。いやでもそれならさっき屋上で言っているはず。サボっていることが他の先生にバレたか?それとも何か別の要件か?


あれ、ていうか俺そもそも朝顔先生と連絡先を交換してないはずなんだけど。何で電話かかってくるの?


「電話出ないの?」


俺が微動だにしないのを不思議に思ったのだろう、菜名宮がこちらへと近づいてきて、画面を覗き込む。


「…って、朝顔先生からじゃん。」


「何でかかってくるんだよ。」


「とりあえず出たら?わざわざ電話するってことは、タキに用事があるんでしょ。」


手に持ったスマホはプルルルと、初期設定の振動音をまだ鳴らし続けている。なぜ朝顔先生から電話がかかってくるのだろうという疑問はあるが、それ以上に無視したらヤバそうという謎の危機感が上回り、俺は応答のボタンを押した。


「…どうしたんすか?」


めっちゃ小さい声だった。自分でも驚くくらい。普段から電話しないから全く声が出ない。電話で会話する経験が無さすぎる。


「出るのが遅くないか?私が電話をかけてから10コール以上経っているんだが?」


電話越しには、いつも学校で聞く朝顔先生の声が聞こえてくる。いきなり説教をかましてくる所から電話の相手は間違いなく先生だろう。


「仕方ないじゃないですか。いきなりの連絡でびっくりしたんですよ。」


「言い訳にしか聞こえないな。」


「そう言われても、普段から電話なんて使わないですし。」


「たとえ普段使ってないとしてもだ。電話の受け答えくらいスムーズに出来たほうがいいぞ。電話はどんな仕事をしていても使う。社会においてほうれん草は必須だからな。」


「社会人ってみんなカバンの中に野菜常備してるんですか?」


「ふざけているのか。」


「冗談っす。報告、連絡、相談ですよね。社会人みんなカバンの中に野菜入れてるわけないですよね。カバンの中びちゃびちゃになっちゃいますもんね。」


そう慌てて言い訳するくらいには、今電話越しの声のトーンがガチだった。ありえんくらい怖かった。あんな声聞いたのは、化学のテストで酷い点数をとった1年の時以来だろうか。


「たとえ相手が誰であっても、電話がかかってきたら3コール以内には出ること。」


「え、何それ。朝顔先生って彼氏とか出来たら束縛するタイプですか?」


「…別にそんなわけじゃないんだけどな。むしろ周囲からはかなり寛容だと言われた。放置しすぎて浮気されたこと、3回はあるぞ。」


「なんか…本当にすみません。」


今度はめっちゃ悲しそうなトーンだった。本当に同一人物かってくらいしょんぼりしてた。うん、この手の話題はもうやめとこう。


「っていうか、俺って朝顔先生と連絡先交換してましたっけ?記憶にないんですけど。」


「交換はしていないな。」


「じゃあ何で電話番号知ってるんですか?」


入学時かあるいは進級した時くらいに、緊急時のために学校に連絡先を伝えてはいる。ただ確か親の電話番号だったはずだ。少なくとも担任でもない朝顔先生が俺の電話番号を知っているはずがないのだ。


「教師の権限使って多少強引に調べただけだよ。」


「…なんで首が飛びそうなことまたしてるんですか。最早ストーカーでしょ。」


というか教師の権限って何?昨日の退学処分のくだりといい、朝顔先生が言うと本当のことみたいに思える。だいぶ怖いんだけど。


「君の場合、私よりもよっぽど近くにストーカーがいるんじゃないか?」


「菜名宮ですか…」


「篠末を学校で見かける時は大抵1人か、もしくは菜名宮といるが、あれってあいつが君にまとわりついているんだろう?」


「そうですね。」


「立派なストーカーじゃないか。」


「確かに…痛ぁ!」


電話越しの言葉に思わず頷いた瞬間、急激に足元に激痛が走る。


目の前にはいつのまにか菜名宮が居て、思いっきり俺の靴を踏んでいた。


「何すんの?」


「タキさあ、余計なこと言ったよね?」


菜名宮はぱっと見は笑顔で、しかし全くと言っていいほど笑っておらず、貼り付けたような表情をしている。


「なんも言ってねえよ。」


「本当?」


「マジだよ。俺は言ってねえ。」


強いて言うなら余計なこと言ったのって朝顔先生だし。俺は同調しただけ。


「…ならいいんだけどね。」


「俺が悪いわけでもないのに暴力振るうな。疑わしきは罰するとかいつの時代だよ。」


菜名宮は懐疑的な視線で、俺を全く信頼していないようだが、一応納得をしたような素振りを見せる。


「なんかあったのか。」


電話越しでいきなり叫んだからだろうか、朝顔先生は少し不安そうに質問を投げてきた。


「いや、何でもないです。…それで、なんで電話してきたんですか?」


「すっかり話が逸れていたな。そっちに雛城はいるか?」


「居ますよ。あの後色々あって今帰ろうって話になってます。」


後ろを振り返れば、菜名宮と楽しそうに話をしている雛城の姿がある。


「…はあ、そうか。少し厄介なことが起こった。」


「厄介…雛城に関係あることですか?」


電話越しの朝顔先生の声は真剣なものだった。とても、ふざけて電話したというわけでは無さそうだ。

「詳しいことはまた今度説明する。今から雛城に、駅の北側にあるカフェに来るよう伝えてくれないか?」シルクという名前の茶色の建物だ。」


「そりゃまた唐突ですね。」


「雛城の保護者さんが雛城のことを呼び出しているんだ。できれば早急に頼みたい。」


「保護者…え、なんでですか。」


「話すと長くなる。とりあえず雛城を呼んでくれ。」

朝顔先生の話し方から察するに、結構急ぎの要件らしい。それなら電話のマナー講座する必要なかったと思うんだけど。


「ええ…まあ、わかりました。とりあえず伝えときます。」


「頼んだぞ。」


朝顔先生は簡潔にそう告げると、電話を切ってしまった。


「何で電話かかってきたの?」


俺が着信を切ると同時、菜名宮が問いかけてくる。


「なんか知らんが、いきなり雛城呼び出してくれって言われた。」


「え、私?」


「ああ。」


自分の名前が出るとは思わなかったのだろう、意外そうな顔をした雛城が自分の方を指している。


「何で呼び出しされたの?」


「理由は知らん。先生曰く、雛城の親が呼びつけてるらしい。」


「…私の親?」


親という単語を聞いた瞬間だ。明らかに雛城の表情が険しくなった。眉間を皺に寄せ、邪険な雰囲気を纏っている。


「…場所は駅の北側、カフェシルクってとこだ。先生の口ぶりから、結構急ぎの用事らしい。」


その表情を見れば、雛城にとってやはり親という存在がいいものではないことを知るには十分だ。明らかに雰囲気の変わった雛城を前にカフェの場所を伝えるか判断に困った。


…雛城がこの呼び出しに応じない可能性があるからだ。だが結局、少し考えて場所を伝えた。


「なんで。」


雛城は近くにいなければ何と言っているかわからないほど、小さく呟いた。

その言葉に含まれているのは怒りか、あるいは嘆きか。ただ負の感情であるという情報しか得られない。


ポケットからスマホを取り出すと、時間を確認する。そうしてすぐに電源を切りポケットに入れ直すと、雛城は俺と菜名宮の方を向いた。


「…行ってくるよ。」


雛城はベンチの上に置いていたスクールバッグを手に持つと、それに肩にかける。


「ありがと、今日は楽しかった。また今度ね。」


「え、ちょっと。」


菜名宮が何か言おうとする前に雛城は立ち去っていってしまう。もともと運動をやっていた影響か足が速い。どんどんと姿は小さくなりやがてエレベーターホールらしきところを右に回ったところで、その姿は完全に見えなくなった。


「行っちゃった。」


菜名宮は雛城を追いかけることはせず、その場に立ち尽くしたままだ。予想外の出来事に、瞬時に動けなかったかようだった。


「朝顔先生は芽衣奈ちゃんの保護者がいるってことで呼び出してたんだよね?」


「そうだな。理由は知らんが。」


「芽衣奈ちゃんはどうして、行っちゃったんだろうね。」


「…」


菜名宮は顔の下に手を当て、まるで探偵が推理をするときのようなポーズを取る。菜名宮が考え事をするときのいつもの姿勢だ。


「ねえ、タキ。何でだと思う?」


「俺に聞いてたのかよ。」


「逆に誰に聞くの?タキ以外ここには誰もいないじゃん。」


「そりゃそうだけど…独り言にしか聞こえなかったぞ。」


探偵のようなポーズをしているのも相まって、菜名宮が頭の中で思考を整理しているようにしか見えない。


「というか、行っちゃったってどういうことだ?普通に先生伝いに呼び出されたから、親の元へ向かっただけなんじゃないのか。」


何も難しいことはない。雛城が先生にあるいは親に呼び出されたからカフェへと向かっただけではないのか。雛城は真面目だから、遊んでる最中でもそんなのお構いなしだったとか考えられる。


「それはおかしいんだよ。」


しかし、そんな考えは即座に否定された。菜名宮が手元で大きなバッテンを作る。


「芽衣奈ちゃんが今みたいな感じになったのって、真面目であることを強要した母親に対して反抗してたからなんだよ?ならなんで詳しい理由も知らずに呼び出されたのに、親のところへ行ったの?」


「…言われてみれば不自然だな。あいつは不真面目になりたがってたくらいだし。」


体操を続けることができなくなって以来、母親の真面目であるべきという考えに反抗していた。そんな雛城が、なぜ親の呼び出しに応じたのか。待ち合わせ場所のカフェへと向かったのか。よくよく考えれば、圧倒的に矛盾している。


「理由が気にならない?」


菜名宮はなぜかウキウキしているようだった。声音がほんの少し上がっている。


「いや別に。」


「え、なんで。」


「俺は俺、雛城は雛城。同じ人間でも、生きてる環境が違うだろ。外のことに興味はない。」


雛城の行動に矛盾は感じた。だが興味は湧かない。


良くも悪くも他人は他人である。俺は菜名宮でも雛城でもなく、俺という1人の人間だ。


「元より他人の家庭環境に勝手に顔突っ込むのがおせっかい以外の何者でもないだろ。」


よその家の事情に第三者が勝手に首を突っ込んだところで、当事者たちにとっては迷惑なだけだろう。


その家に何か問題があったとして、詳しい事情を知らない人間が手を貸せることはほとんどない。


「だから、雛城の跡を追いかけるのはやめとけ。あいつの後を追いかけても余計なお世話だ。」


菜名宮はおそらくカフェシルクへと行こうとしているのだろう。そこで何をしようとしているのかはわからないが。


「確かにおせっかいではあるね。」


菜名宮は俺の言葉に一見納得したかのように小さく頷が、その口元が緩んでいた。それを見て背中に一気に悪寒が走る。これあかんやつや。


「でも、朝顔先生が私に依頼したこと忘れた?芽衣奈ちゃんを更生させることだよね。せっかく仲良くなれて本心を聞き出せたのに、芽衣奈ちゃんが呼ばれた先で保護者と何かがあったら意味がないじゃん。」


菜名宮は人差し指を立てどこか得意げな顔をする。その姿はまるで、探偵が推理を披露する時みたいに堂々としていた。


「それに、タキは気にならなくても私は気になるんだよ。」


今度はくるんと半回転して、俺に背を向ける。コトコトとヒールをデパートの床に合わせて音を鳴らし、前へと進む。


そして数歩行った先で今度は俺の正面へとまた振り返った。


「だって私はエゴイストだからね。芽衣奈ちゃんのことをまだまだ知りたいという欲があるんだよ。」


「…はあ。」


そんな姿に俺はため息を一つつく。それは諦念だ。おそらく俺がいくら否定しようとも、菜名宮は自分の考えをもう曲げることはないだろう。


超が着くほどの頑固で、芯が通った人間、一度自分の進む道を決めた菜名宮を説得するのはもう不可能だ。


菜名宮はこちらの方へと手を差し出す。その手が俺を誘っているのは明らかだった。側から見ればお誘いであっても俺にとっては脅迫である。もう拒否権なんてないみたいだ。


「タキ、ちょっとお茶をしに行かない?いいお店知ってるんだ。」


「わかったよ。」


恨みかましげに菜名宮を見るが、相変わらず菜名宮は不敵に笑っていた。




先ほどの場所から5分も歩けば、すぐに駅の北側に出る。ここの駅は案外構造がシンプルなため、抜け出すのは容易であった。この周辺地域ではかなり都会の方であるが、日本全体で見ればそこまで大きな都市でないため、駅が迷路みたいになってるなんてことはない。


駅を出てほんの少し進めば、繁華街の裏に飲屋街がある。平日の夕方ごろであるからか人の数はまばらだ。その飲屋街を少し奥の方へと進むと一軒の建物が見えた。


「ここか…」


「みたいだね。」


その建物は外観が黒みがかった木材と明るい色の木材によって装飾された、落ち着いた雰囲気を醸し出している。


雑居ビルの一角にひっそりと佇む小さなその喫茶店は、そこだけ空間が切り取られたかのように辺りの店とは違う雰囲気を漂わせているのにも関わらずなぜかその通りによく馴染んでいた。入り口にはカフェシルクという看板が立てかけられている。


朝顔先生から聞いたカフェの情報と完全に一致しているし、おそらくこの店で間違いはないだろう。


「にしても、こんなところに喫茶店なんてあったんだね。道迷ってもおかしくないよ。」


菜名宮はスマホと店を交互に眺めながら、そんなことを言った。


カフェシルクは駅の北側、繁華街に店舗を構えている。もちろん未成年であるため俺はほとんど飲屋街なんて行く機会がない。しかも飲屋街の中でもさらに路地の裏だ。よほどのことがなければここを見つけることだって難しいだろう。


現に俺たちはスマホの地図アプリを使ってたどり着いた。多分地図が紙の時代ならたどり着いてなかったと思う。デジタル万歳。


「こんな路地裏にあるのに、雛城は迷いなくここに向かったんだな。」


「まるで店の場所知ってるみたいにね。」


雛城は菜名宮と別れた際、鞄を持って迷いなくエレベーターの方へと向かっていった。


確かに俺はカフェシルクへと呼ばれているということは伝えたが、詳しい場所までは伝えていない。にも関わらず、雛城はカフェまでの経路を聞くことはしなかった。


おそらくだが、雛城にとってこの店は馴染みがあるのだろう。でなければ繁華街の路地裏に佇んでいるこの場所まで、辿り着けるわけがない。

「まあ、芽衣奈ちゃんがたどり着いてない可能性もあるけど。」


「あんだけ勢いよく走ってそれはないだろ…」


逃げ去るように突っ走って行ったのに、俺たちの方が店に先についてるとか方向音痴がすぎる。どこぞの三刀流の剣豪かな?


「ならやっぱ、芽衣奈ちゃんはここの店を知っていたことになるよね。」


「多分あいつにとっては、馴染みの店なんだろうな。」


「だろうね。小さい頃からよく来てたか、あるいは特別なことがあったときに来る店なのかな。」


「…何してんの?」


菜名宮は思考を整理するように俺の言葉に対して返事をしながら、同時に目の前でしゃがみ込み、顔を店のガラスに近づけている。


「芽衣奈ちゃんがいないか探してる。」


「側から見たら不審者にしか見えないからやめろ。」


おそらく窓の隙間から雛城がいないか確認しているんだろうが…少なくとも俺からみれば、菜名宮の姿は完全に覗きにしか見えない。


実際覗きをしてるというのは正しいんだけど、目の前のそれは女子風呂を何度か覗こうとしている男子中学生にしか見えない。


「不審者と思われたらタキも道連れにするよ。」


「全力で他人のふりするわ。」


「逃れられると思ってる?」


「その執念は何なんだよ。」


菜名宮は店を覗いたままそんな恐ろしいことをサラッと言ってのける。というかさっきよりもガラスと顔の距離が近い。中にいる人が見たら絶対ホラーだよ。昼のカフェに全力で窓から覗きをする女子高生…うん、やばい。


「…いないなあ。」


菜名宮はしばらくしてガラスから顔を外すと、勢いよく立ち上がる。


「芽衣奈ちゃんもお母さんらしき人も朝顔先生も見当たらないや。」


「店の奥の方にいるんじゃねえの?」

「そうっぽいなあ…この店結構な広さありそうだし。」


中の構造がどうなってるかわからないが、おそらく結構広い。というのも辺りを見回してわかったのだが、ここら辺の飲屋街は一店舗あたりが占める面積が大きいのだ。


このカフェも雑居ビルの一角に立っているが、ビル自体が見た感じ十分な広さがある。そのため店の奥の方までは窓から覗いただけではおそらく見えないだろう。


雛城の姿が窓から見えず、店の奥にいると推測できる状況、ここで菜名宮が取る行動なんて決まってる。


「よし、入ろう。」


「マジかよ。」


「マジマジ。」


「今からでも考え直さない?まだ引き返せるぞ。」

やっぱり想像した通りだった。菜名宮なら雛城のことを絶対に探し出そうと店の中に入る。電話をかけて居場所を確認したり、あるいは店の外で待つなんてことは絶対しない。


「逆に聞くけど私が考え直すと思う?」


「思わないな。お前は一度決めたら絶対に曲げない奴だ。」


「わかってるじゃん。」


菜名宮は右手の親指を立てる。憎たらしいほどいい笑顔ですね。


「中で何が起こってるかわからないし、時間が経てば取り返しがつかないことになるかもしれない。だから店の中に入って芽衣奈ちゃんを探すのが最善択だよ。」


「それが最善択になるとは限らないだろ…」


「たとえそうじゃなかったとしても、最善択にするんだよ。」


「…さいですか。」


心の中では何とかするだろという安心感と、本当にどうにかなるのかと言う不安感、2つの正反対な感情が渦巻いている。最初の方には気持ち悪いと思ったこの気分も今ではすっかり慣れてしまっている。


菜名宮は手にかけていたドアノブを思いっきり捻った。するとカランカランと少し古びたベルの音が店の中へと響き渡る。


「じゃあタキ、後ろは任せたよ。」


「何も襲ってこねえよ。」


そうして菜名宮と俺はカフェに足を踏み入れた。




店内は夕陽が傾き始めていた外よりも少し暗く、ところどころに小さな照明が天井についている。アンティーク調の椅子と机が数個並び、ゆったりとしたリズムが流れる空間は、まさに知る人ぞ知るカフェという印象を醸し出していた。


入ってすぐ左のカウンターでは立派な白髭を生やした老人が立っている。手に持った白い布でコーヒーカップを磨いていた。何というか、まさに余生を静かに過ごしている人みたいな感じだ。


俺が内装に目をやっている間に菜名宮はどんどん店の奥へと進んでいく。辺りの光景に目も暮れず、奥へと突き進んでいく様は店内にいた人には異様に見えただろう。


実際、カウンターやボックス席に座っていた人たちが菜名宮や俺の方へ振り向き、少し驚いていた。しかし菜名宮はその視線を気にすることもない。こいつのツレってだけで白い目で見られるの本当に理不尽だと思う。俺は普通に店入っただけだよ?


そんな愚痴を脳内で言っても、何も解決しないので諦めて菜名宮の後ろをついていく。店の奥、入り口から正反対の位置のボックス席に、数人の姿があった。


「…何でここに。」


手前の方に座っていた雛城が目を丸くしてこちらへと振り返った。


「やあ、芽衣奈ちゃん。会いに来たよ。」


それに対し菜名宮は、返事になっていないような言葉を返す。


「…はあ、厄介な奴らが来た。菜名宮と篠末か。」


「先生もいたんですか。」


雛城の隣、ボックス席の奥の方にはいつも通り白衣を見にまとった朝顔先生が座っていた。おそらく学校の授業が終わって直接ここへ来たのだろうか、カーディガンの袖の部分に色のついたチョークの粉がついている。気のせいかほんの少し疲れているように見えた。


「君たちを呼んだつもりはないんだけれどな。」


朝顔先生はやれやれと手を広げながら首を振る。


「…なんですか、この生徒たちは。」


少し甲高い声が隣から聞こえてきたのは、朝顔先生が呆れたように呟いたほんのすぐ後だった。


声の方、朝顔先生と雛城が座っている向かい側に視線を向ければ、そこに1人の女性が座っていた。最低限の装飾にしかしところどころで上品さを感じる格好をしており、そして何より反対側にいる雛城とそっくりの顔と髪の色をした、40代くらいの婦人だ。


目の前の人が雛城の母親だと理解するのにそう時間は掛からなかった。なんせ似ているからだ。雰囲気なんかは屋上で出会った獣バージョンの雛城とほぼ一致していた。


「…彼らは雛城さんのクラスメイトの2人です。」


朝顔先生は雛城の母親の方へと向き直ると、俺と菜名宮のことを手で指し示す。


それと同時に朝顔先生から横目ですごい視線を送られてくる。何?圧力で殺そうとしてる?


意味がわからずに首を傾げると、今度は先生が首を雛城の母親の方へと振った。ああ、挨拶しろってことか。ようやく意味がわかった。


「あっ、雛城…さんと同じクラスで、えーと、まあ知り合い?かな?篠末と言います。」


いつもの1/5くらいの声しか出なかった。

初対面の相手にいきなり自己紹介をしろと言われてできるわけないだろ…しかも目の前の相手、めちゃくちゃ怖い。こちらを見る視線はなんかもう殺気が出てるんじゃないかってレベルである。普通に5秒くらい目を合わせたら泡吹いて倒れそう。流石雛城の母親だ。どんなところ遺伝してんだよ。


命の危険を感じ、咄嗟に反対方向へと振り向く。そこにいた朝顔先生と雛城は、呆れたようにため息をついていた。今度は別の意味で二人からの視線が痛い。


視線をさらに横へと向けると菜名宮がいる。両手を腹部の辺りで交差させ、背筋をピシッとさせて立っていた。


「初めまして。芽衣奈さんのクラスメイトの菜名宮六乃です。よろしくお願いします。」


菜名宮は俺の挨拶に追随するように、雛城の母親の方へと向き直る。そうしてお辞儀と共に自己紹介をした。


一連の動作は最小限の動きで、一切の無駄がない洗練された動作であった。どことなく上品さを感じさせ、ここだけ切り取れば菜名宮は清楚系のお嬢様と言われても全く違和感がない。


菜名宮の挨拶に皆が困惑をしているようだった。菜名宮をよく知っている朝顔先生と雛城は特に。まあ先生が驚いているのはまた別の理由だと思うが。


菜名宮の動向によって沈黙が走る。当の本人は頭を 上げると、雛城の隣へと流れるように座り込んだ。


「それで、今どんな状況なの?」


「え…」


席に座った途端、先ほど見せた綺麗な動作をした菜名宮…綺麗な菜名宮の面影は消え去る。今日遊んでいた時のようないつもの菜名宮に一瞬で戻ったことで、雛城は2度、困惑した様子を見せた。


「どうして芽衣奈のクラスメイトがここに来るんですか?彼女らには何の関係もないでしょう。」


雛城の母親は、朝顔先生に向かって問いかける。その視線は目を合わせただけで竦んでしまいそうなくらい冷たい。昨日の屋上で雛城が俺に向けたそれと同じような圧力を、今は自分に向いていないのに感じる。


「…私は彼らを呼んでいないんですけどね。」


しかし朝顔先生はその視線に怯えた様子を見せない。いや、実際怯えているわけではないのだろう。いつも通りの堂々とした立ち振る舞いを極度に崩すことなく、雛城の母親に向き直っていた。


「じゃあなぜ彼らはここに来たのですか?」


「私が雛城さんとすぐに連絡を繋げる状況ではなかったんですよ。そこで彼らを通じて連絡をとったため、2人はここにいるのでしょう。」


「なら追い出してください。お二人には芽衣奈と何も関係はないでしょう。」


朝顔先生に向けられた言葉はどこか非難めいたものだった。


まあ普通に考えて俺らはただの部外者だ。ここでどんな話をするのか、何があったのか、そんなことは俺たちが知っても何の意味もない。


母親と教師、そして生徒が話すこととなればおおよそ家のことか学校での態度とかだろう。ならばただ同じ学校で、同じクラスである俺たちがここにいる意味はない。というか俺はここに行くつもりはなかったんだけどな。家の事情に首突っ込まない方がいいって言ったし、店に入るギリギリまで撤退を提案してた。俺これ何も悪くなくね?


「関係ならありますよ。私は芽衣奈ちゃんの友達です。」


「友達だからと言って、あなたが来る理由にはならないわよ。」


ほんの少し口調に怒気が宿っている。態度や表情にこそ出ていないが、ちゃんと雛城の母親にも感情はあるようだ。


「…そうですか。」


菜名宮はほんの少しの沈黙の後そう呟いた。視線を逸らすことなく、雛城の母親だけを見つめている。というか睨みつけているという方が正しいか。どうしてかわからないが、菜名宮は雛城の母親に威嚇しているようだった。本当に何でだよ。


「…完全に無関係というわけではないですよ。今回の件に関して、彼らは深く関わっていますからね。」


謎の膠着状態が少し続いたが、それを振り切ったのは朝顔先生だ。


「もしかすれば二人から何か話が聞けるかもしれません。ここに居させてもいいのではないでしょうか?」


先生の物腰は低く普段とはかけ離れている。いつもは気が強い先生でもさすがに社会人だ。特に教師という仕事柄、揉め事を対処するのにも慣れているのかもしれない。


「…何の意味もないと思いますけれどね。」


雛城の母親は少し考えて、そんな曖昧な答えを出した。おそらく俺と菜名宮に対する否定の言葉ではないだろう。ここにいるのがダメであるなら、出ていけとでも言うはずだからだ。何も意味がないというのは一応話を聞けるってことか。


「こっちに来い、篠末。」


気づけば先生は席から立っており俺の隣にいた。その指が刺す先は菜名宮の隣である。


「あ、はい。」


俺は言われるがまま、朝顔先生の指差したところへと座る。俺が座ったのを確認すると、先生は失礼しますと一言付け加えて、雛城の母親の隣へと座った。


…咄嗟のことで頭が働かなかったが、先生結構なファインプレーだ。俺と菜名宮が来た時には、朝顔先生と雛城が、雛城の母親の向かいになるように座っていた。そこに菜名宮が雛城の隣に座り込んだ形になる。もしそのままだったら、消去法で俺は雛城の母親の隣に座ることになっていた。正直大分きつい。


これは俺だからとかではなく、知り合いの母親、しかも怖い人の隣とか地獄でしかないからだ。絶対内心ずっとびくびくしてただろうなあ…


朝顔先生に感謝の気持ちを込めて軽く礼をするが、先生からの返事はない。俺のことを助けておいて塩対応ってこれがツンデレか。多分だけど違う。


「芽衣奈ちゃん、結局何で呼び出されたの?」


「何で…って言われたら。」


雛城は困ったように顔を俯かせ、朝顔先生の方へと振り返る。


「先ほどお母様から連絡が届いたんだよ。雛城が学校をサボって遊び呆けてるんじゃないかとな。その件について話し合うために、ここに呼び出したというわけだ。」


「なるほど。…芽衣奈ちゃんのお母様はどうしてそのことを?」


「…私たちを見かけた人が、お母さんに電話かけたんだって。どうやら母さんの知り合いがいたみたいでさ、知らせたらしい。」


「ああ、そういうこと。」


平日とはいえ駅前には結構な人がいたし、雛城のことを知っている人が訪れても不思議ではない。それに平日の昼に制服姿で屯している学生なんか、余計に目がつきやすいだろう。


「朝顔先生…先ほどこの二人は芽衣奈に関係があると言っていましたね?」


「ええ。」


「つまりこの二人はうちの子と遊び呆けていた生徒ですか?」


「はい。菜名宮と篠末。私が知る限りだとこの二人が今日雛城と共に学校をサボっています。」

「そうですか。彼らが学校をサボるという不貞な行為に、芽衣奈を導いた愚か者というわけですか。」


雛城の母親は冷徹な視線をこちらに向ける。


「…」


場に走るのは沈黙、雛城の母親の一言によって、朝顔先生も雛城も口を閉ざす。


この人は俺と菜名宮のことを軽視している。見下していない人間に、自分よりも下だと思っていない人間に、愚か者なんて言葉は使わない。ましてや初対面の相手だ。


「…芽衣奈が毒されたのは、こんな人たちと関わっていたからだったんですね。」


明らかに俺と菜名宮のことを侮辱している。どうやら雛城の話は本当だったみたいだ。雛城の母親は真面目な人間であるのだろう。


学校をサボることを不貞な行為といい、俺たちのことを愚か者と言う。それは世間一般ではあまりにも正しい評価で、正しい解釈だ。


毒された、なんて言葉からわかるが、雛城の母親にとっては不真面目なことは絶対的な悪で、真面目なことが絶対的な善なのだろう。少し極端な思考であるが、世の中にこういった考えをする人は雛城の母親だけではないはずだ。


雛城の母親が言っていることはどうしようもなく正しい。この場では俺たちが悪で雛城の母親が正義だ。


…そんなことは分かっている。分かっているが、心の奥底からイラつきが湧いて止まらない。自分の立場は完全に理解しているのに、俺たちが世間から見て正しくない方であると分かっているのに、なぜか目の前の女性に対して怒りの感情しか浮かばない。


なぜ怒っているのかさえ明白でない。単純に侮辱されたからか、あるいは別の理由か。熱源の見えないマグマが地底から噴き出るように、心が少しずつ怒りの感情を持ち始める。


だが俺は何も言えない。なぜならば雛城の母親が絶対的な善であり、俺は絶対的な悪だからだ。俺が何を言おうとも、その言葉は正しくないと各印を押される。だから口を開くことができない。


「あっはっはっ。」


隣からあまりにもシリアスな空気とは場違いな、陽気な笑い声が聞こえたのは、ほんの少しの沈黙の後だった。


横に座る菜名宮は、口元を手で覆い隠しながら笑っている。女子高校生が良くするような、何の変哲もない自然な笑い方だ。


「愚か者、ですか。確かにそうかもしれませんね。」


しかしあまりにもその笑いはこの場には不自然で。異様な光景に、俺を含めた菜名宮以外の全員が若干引いていた。いや、結構だ。


しかし自身を見つめる複数の視線に菜名宮は全く狼狽えることがない。いつも通りの堂々とした振る舞いで雛城の母親の方へと向いている。


「学校をサボり、テストをサボり、先生に車を運転させて、平日にケーキを食べに行く。あまりにも不真面目で、あまりにも愚かな行為ですよ。」


「…自覚はあったんだな。」


菜名宮は指を一本ずつ上げながら、自分たちのしてきた行動を振り返る。俺は学校のサボりが愚かであるという自覚があったことに結構驚いている。


「でも、あなたの言葉で一つだけ訂正させて欲しいんですよね。」


「…何かしら。」


「確かに今日芽衣奈ちゃんを誘ったのは私とタキです。これは事実ですし、7:3くらいで私が悪いでしょう。」


おい俺何も悪くねえだろ。ケーキバイキング行きたいって言ったの菜名宮じゃねえか。何でちょっと責任なすりつけてんだよ。


「ですが芽衣奈ちゃんが私たちについてきたのは事実です。毒された、なんて表現をしていましたが、彼女は間違いなく自分の意思で私たちに着いてきましたよ。」


いや半分恐喝だったけどな。ケーキバイキングのチケット人質にとって誘ってただろ。言っておくがあの時の雛城結構かわいそうだったからな。


「…」


急に菜名宮が顔の向きは変えないままこちらを睨んできた。なんか怒ってる。余計なこと言うなって顔してる。本当に心読んでるの?


「…そうだったのね。」


「ええ、だからそこだけ勘違いしないでください。」


菜名宮は目の前にあるコーヒーを手に取り口元へと運ぶ。気づけば俺の前にも、色気のない純粋なコーヒーが湯気をたてて置かれていた。気づかぬ間に二人分、運ばれていたようだ。


「芽衣奈自身が、そんなことを。」


雛城の母親は何かを確認するかのように呟く。


「…」


雛城はずっと俯いたままだ。その表情は何を思っているかは推測ができない。


「…芽衣奈ちゃんが学校をサボっていたのは、何も今日が初めてではないですよ。」


菜名宮はコーヒーカップを机の上に置くと、口元に笑みを浮かべる。


「彼女、実は結構な頻度で普段から授業サボってます。私もよく授業時間中に屋上に向かってる芽衣奈ちゃんの姿見かけるんですよ。」


「朝顔先生、それは本当ですか?」


「…はい。娘さんは最近もっぱら、一日の大半を屋上で過ごしていますよ。」


「そんな風になったのはいつ頃から?」


「私が記憶している限りだと、1年の2学期頃からですね。最初は時々授業を抜ける程度でしたが、今では教室にいる方が珍しい。」


朝顔先生は手に持ったコーヒーカップを、口をつけることなく机の上に置く。


「正直、我々も手を焼いていますよ。何度忠告しても授業に出ないし、ずっと屋上で過ごしているんですからね。生徒の対応には残業がかかりませんし、私にとってはなかなかきつい仕事ですよ。」


先生は何処か冗談めかすように、呆れを含んだ笑顔を浮かべた。先ほどあれほど冷たい目で見られた相手に対して、普通なら簡単に取れる態度ではない。


「…」


朝顔先生の言葉に雛城の母親は視線を下に向けて、何かを考えるような仕草を取る。


「なぜ、こんなことに。」


そうして雛城の母親はまた呟く。それを横目に左側に座っている方を向いて一つ疑問を投げかけることにした。


「お前のお母さんって、雛城が普段授業サボってること知らなかったのか?」


「わかんない。ただ私からは言ってない。…というか、普通に考えてそんなこと言わないよね。」


「そりゃそうか。」


雛城の母親の反応を見るに、雛城の母親は普段娘がどのように学校で過ごしているか、全くと言っていいほど知らない様子だった。


「つまりお前は、学校での自分の姿を隠していたんだな。」


「…そうなるね。」


どこか雛城は嫌そうに返事をする。まるで俺が悪役みたいになっていて、少々気分が悪い。


「俺が朝顔先生に頼まれたのって、雛城の更生なんだよ。お前が学校の外でも中でも素行が悪いって聞いてな。…もちろん家でもだ。」


職員室で言われたのは、雛城が学校をサボっていること、そして家でも親に反抗的な態度を取ること。その2点だ。


「よくよく考えたらおかしいよな。学校の外でも素行が悪いのに、親が何も言ってないのって。最初に話を聞いた時は親が放任主義か、雛城が親に逆らってるものだと思ってた。けどお前の話を聞いた感じ、お前の母親ってむしろは過干渉な方だろ。」


「なんか疑問に思ってることあるみたいだね。」


「そんな難しいことではねえよ。ただ、雛城の母親が今になって急に呼び出した事に違和感を持った。…いや、正確には雛城がその呼びかけに応じたことに対してだな。」


…自分で言ってて、自分のことが気持ち悪く感じる。人が隠したがっていること、もしかしたら本人にとっては誰に明かすつもりでもなかったことを、勝手な推測で明かそうとしているのだ。これじゃ菜名宮のやり方と何ら変わりはない


それでもこの確認だけは、今絶対必要だ。今だけは悪役になることを甘んじて受け入れるしかない。


「お前もしかして、親には優等生してるって嘘ついてたんじゃないの?」


「…」


俺の言葉に対して雛城が見せた返事は沈黙だった。その返事の意味がわからないほど愚鈍ではない。


「家では親に逆らうことはあっても、学校ではしっかりしてるってなれば、母親も強く言うことはできないだろ。…大方、思春期の頃にある親への反抗と考えるだろうしな。」


ここで自分の推測に少しだけ嘘を織り交ぜる。それはヘイトを買いすぎないための自衛行為だ。


「親御さんが今になって雛城をここに読んだのもそのためか。」


「おそらくは。学校では優等生をしているはずの子供が、実際はサボって遊び呆けてるって知ったからでしょうね。」


雛城の母親は真面目であることが正しさと信じて疑わない。逆に言えば、真面目でさえあればいいのだ。


雛城が学校に来ているのも、あるいは校則を守っているのも、全て母親に対して嘘をつくためだ。あるいは成績のためにテストの心配をしていたことすらもそんな理由かもしれない。


では何故、嘘をつく必要があったのか。


「…怯えてたんだな。」


雛城は相変わらず黙りこくったままである。だがそれは俺の推測が真実であると言う何よりの証拠だ。


もし嘘ならばすぐに否定の言葉が出るはずであり、それが出ないということはつまり肯定を意味する。

背理法の意味がようやくわかった。数学が人生で初めて役に立ったかもしれない。


雛城の母親の方を見やれば、浮かべているのは苦悶の表情だ。娘が学校をサボっていたのも、普段から授業に出てないのも、それを隠していたのも、その全てが雛城の母親にとっては想定外だったのだろう。


「芽衣奈…なんてことをしてたの。」


雛城の母親が雛城の方に振り返る。


「授業サボって、何もせずに一日を過ごしていたなんて、自分の行いがどれだけ馬鹿げたことか…わかっているの?」


自分を責め立てる言葉に対し、雛城は沈黙を貫く。


「『ある程度自由になった』って…」


「まあ、そういうことだろうな。」


雛城はケーキバイキングで、『体操から解放されて、ある程度自由になった』と言っていた。その言葉は裏を返せば完全に母親からは脱却できていないと言うこと。


…体操をやめた後に何があったのか、正確な事情は知らない。雛城は母親に対して病院で初めて感情をぶちまけたと吐露していたが、その後に何があったのかはわからない。


ただ雛城は母親の縛りから完全に離れることができていなかった。今目の前に見える光景が、その事実だけどを何よりも鮮明に示していた。


「…リハビリの時に、あなたが初めて伝えた気持ち。ずっとしんどかったって言ったわよね。だから体操をやめて好きなことをさせて欲しいって。私はそれを受け入れて、学校はしっかり行くって条件である程度のことは黙認したでしょう。それなのに、なんで授業をサボってなんかいたの?」


「…ごめん。」


「ごめんって、そんな…」


「…ごめんなさい。」


雛城の声は細く、すぐに消えてしまいそうなくらいに小さい。ずっと下を向いたままだ。机の上に置いた手が少し震えている。


「謝って欲しいんじゃなくてね。何でこんなことをしたかって」


「…でも、辛かったんだよ。」


それはまた近くにいなければ聞こえないような、あまりにもか細い声であった。しかし母親の言葉を遮るように放たれたその言葉は、小さいながらよも何か強さを感じる、形容し難いものでもあった。


雛城はパッと顔を上げると母親の方へと振り向く。頬にはうっすらと涙の跡があり目もほんの少し赤くなっている。


しかし顔をあげた雛城はもう涙を流していなかった。ただ刻々と母親の顔を見つめている。

「真面目でいなさい、いい子でいなさい、母さんってそればっかり。私が学校で、部活で、どれだけしんどかったか知ってるの?」


雛城の声は先ほどと変わらず震えている。今にも泣き出しそうなくらいに。しかし雛城は涙を流さない。


「真面目って絶対に正しいことなの?確かに真面目はいいことだよね?でもさ、どんな時も真面目じゃないとダメ?どれだけしんどくても?どれだけ馬鹿にされても?どれだけ周りから白い目で見られても?」


「え…」


雛城の言葉に、雛城の母親は驚きを見せた。


「母さん知らないだろうけどさあ、中学の時、私すっごい毎日辛かったんだよ。部活に勉強、全部頑張らないといけないせいでどこにも遊びに行けなかったし、友達もできなかった。」


「…」


…どうやらこの母親は娘がどのように学校を過ごしていたか、まるで知らないようだった。


菜名宮が調べてきた噂…中学時代は煙たがれるほど真面目な姿、全国に名を轟かせるほどの体操選手になるために続けた数々の努力、そしてその結果を得るための犠牲にした多くの時間。


「私は母さんの操り人形じゃないんだよ?もっと遊びたかったし、もっと色んなことしたかった。」


雛城の母親はなお黙りこくっている。よほど娘からのカミングアウトが衝撃的だったのだろう。


「今日のことは確実に私が悪いって思ってる。でも毎日優等生じゃなきゃダメ?テストは高い点数取らないといけないの?土曜日も日曜日もずっと勉強してなきゃいけない?」


雛城の叫びは、涙なき慟哭は、どれだけの想いがこもっているのだろうか。今まで溜め込んできたさまざまな感情が交差し、堪えきれず爆発しているようだった。菜名宮も朝顔先生も何も言うことなく2人を見つめている。


雛城の母親は複雑な表情を浮かべている。目の前の娘の心情吐露に対して何を思い、何を考えているのか。ただ単純な心境ではないということしかわからない。


辺りは沈黙に包まれる。気づけば日がだいぶ傾いていた。一年の中で日が沈むのが遅い季節といえど、太陽が降りないわけではない。カフェに入ってきた時には真っ青だった空は、今は強くオレンジ色に染まって、地上を彩っている。


日がちょうどカフェの窓から入り込んできた。その光は俺のほんの少し隣、雛城の方に差し込む。


薄暗い店内で雛城だけが照らされる。やはりその目に涙はなく、しかし何故か誰よりも涙しているようにも見える不思議な光景がそこにはあった。


「辛いよ。そんなの。」


やがて、雛城がまたぼそりと呟く。


「…」


そうしてまた訪れる沈黙。空気の揺れが止まる。

雛城はこの日、人生で2回目の反逆をした。中学生以来の母への反抗だ。


雛城は真面目であるべきと言われ、様々なことを制限され、時間を奪われ、その言葉を借りるなら、まさに母親の傀儡になっていた。

高校生になってもその枷が全て外れることはなかった。年頃の女子高生にとってはどれほど重いものだったのだろうか。


ここで一つの思考が繋がる。体操をやめた後、何もやる気を持てなかったと言っていたことに関してだ。退屈な日々を雛城が送っている理由として、菜名宮は挑戦した事柄に生きがいを見出せなかったからだと言っていた。


ならなぜ、生きがいを見出せないのか。それこそ雛城の母親の存在があったからだろう。菜名宮は雛城が挑戦したことは皆真面目すぎると評していた。


雛城が菜名宮の言った「真面目なこと」しか出来なかったのは、母親との約束があったからだ。体操を辞めてもいいから、学校では優等生にしていなさいという約束、それこそが雛城が生きがいを見つけられず、毎日を退屈に思い屋上で過ごすようになった何よりの要因だ。


雛城芽衣奈は今まさにこの時まで、母という存在に縛られていたのだ。体操をやめるまでは全てのやりたいことを直接奪われ、体操を辞めた後は約束によって間接的に自由を奪われていた。


親は子から離れることができない。この世のほとんどの人間は、結局のところ独り立ちするまでは親という存在に縛られているのだというが、雛城もまたそんなありふれた一般論に当てはまっているだけだった。ただ雛城が親によって縛られたその鎖が、他よりも圧倒的に強かっただけなのだ。


雛城は真面目な人間だ。今この時まで、母との約束を一切破ることがなかった。自らを縛り上げる見えない鎖を解こうとはせず、どれだけ苦しくてもその苦しさを親の前で見せることもなく日常を過ごした。その鎖は日々雛城を少しずつ追い詰めていたのにも関わらず、だ。


コトッと金属がぶつかったような、高い音が空間に広がる。


「…芽衣奈、確かにあなたは辛かったんでしょうね。」


「うん。辛かった。ずっとしんどかったよ。」


「確かに、あなたに対して言いすぎたところがあったのかもしれないわ。」


雛城の母親は娘のことを見つめている。その表情には先ほど朝顔先生や俺に見せたような厳しさはない。


「…でもね、私はあなたのためを思って言っていたのよ。真面目なこと、優等生であることはしんどいかもしれない。でもあなたにとっていいことだと思っていたのよ。」


しかし雛城の母親の言葉はおそらく雛城にとって、あまりにも辛いものだった。その厳しさに自覚はないのだろう。雛城の母親にとっては当たり前のことなのかもしれない。


…だが実際、間違ってはいない。この世は真面目であることが善で、不真面目であることが悪だ。それが世間にとって普遍的な考えであり常識である。だとすれば雛城の母親の意見はどうしようもなく正しいのだ。


「今は辛いかもしれないけど、いつか必ずあなたのためになる。…それでも真面目なことは本当にダメなの?」


「…」


雛城は沈黙した。本人もおそらく真面目が全て悪いのではないとわかっているのだろう。あいつにとって真面目が絶対的に悪であれば、ここで沈黙はしない。


今この場においては、雛城の母親の考えが絶対的な正義だ。雛城はその正義に反旗を翻すことはしなかった。


「…本当に、芽衣奈ちゃんのためになっているんでしょうかね。」


…あくまでも雛城は、だ。


その声は不自然なほど明るく、そしてあまりにも不気味に感じられる。


菜名宮はこの場にはまるで似合わない綺麗な笑顔で、雛城の母親の方へ向いていた。


「またあなた…娘のためじゃないって、どういうことかしら?」


「どういうことかと言われましても、そのままの意味ですよ。真面目なんて本当にいいことなんですかね?」


「…それはそうでしょう。少なくとも不真面目であるかよりはずっといいに決まっているわ。」


「本当に、ですか?」


菜名宮は雛城の母親の視線から目を逸らすことなく、ずっと笑顔を保ったままだ。


「一人の少女の17年間を台無しにしたのに?」


その笑顔を一切崩すことなく明るい口調でそう言い放った。


「…」


雛城の母親が大きく目を見開く。

「私が言ったのは、真面目であることが正しいという世間一般的な評価でも、不真面目が悪いという推測でもありません。これは事実なんですよ。」


菜名宮は口調を一切変えることはない。


「真面目が芽衣奈ちゃんをずっと苦しめていた。あなたの考えは、一人の女の子の人生を奪い取ったと言っても過言ではないんですよ。」


その言葉はただ明るく、ただハキハキとしていて、ただ強い。菜名宮の言葉は周囲の注目を一様に引き寄せる。


「それでも私はこの子を思ってずっと育ててきたわ。」


雛城の母親が先ほどよりも小さな声で反論する。しかしそれはあまりにも言葉として弱く、菜名宮という存在に簡単に飲み込まれてしまう。


「芽衣奈ちゃんを大切に思ってるのは嘘ではないのでしょう。あなたの様子を見ていればわかります。しかし、あなたのその思いが芽衣奈ちゃんのためになっているとは限らない。」


菜名宮が雛城の方を向くと、雛城はこくりと頷く。


「それにあなたは芽衣奈ちゃんの将来のためと言っていましたよね?確かに、真面目であることは将来必ず役に立つでしょう。…ですが真面目であることによって、今はどうなっていますか?誰よりもしんどい思いをして、誰よりも自由な時間がなく、結局何もやる気を見出せない。真面目であるべきというあなたの考えが、芽衣奈ちゃんの足を引っ張っていたんですよ。」


菜名宮はにっこりとしたままそう言い放つ。側から見ればあまりにも魅力的な笑顔で、しかし笑顔を向けられた当事者にとってはあまりにも不気味にそれは映る。


菜名宮は絶対的な正義を疑うことに躊躇いがない。真面目であることは本来正しく、絶対的な善である。しかし菜名宮はその絶対を疑った。真面目であることによって苦しむ一人の少女を前にして、本当に真面目は正しいのかと疑った。


「いつでも真面目で居るのがいいなんて限らないですよ。時には不真面目になっていいし休んでもいいし、ずっと優等生である必要なんて絶対ない。辛い思いをし続けることが正しいなんてあり得ないですよね。」


そうして菜名宮は絶対的な正義に対して、自らの考えを持って反旗を翻した。真面目が雛城を苦しめていたなら、少なくとも雛城にとっては真面目であることは必ずしもいいことではない。菜名宮はそう結論づけたのだ。


菜名宮は自信満々に自らの考えが間違っていないと信じて疑わないように、堂々と言い放った。まるで国を救った英雄が大勢の民衆の前で演説をしているかのようである。


「たとえ将来のためであっても今がボロボロなら何の意味もないんですよ。将来のことなんて考えずに、今だけ生きていればいいというわけはありません。ですが将来のためだけに今を犠牲にするのもまた違います。人が生きているのは今なんです。その今を蔑ろにしては、そもそも未来なんてないでしょう。」


その問いはまるで反逆者が同志に対して、今の現状を訴えかける様に近い。雛城の母親も雛城もただ菜名宮の方を見ているだっだった。


今この空間だけ見れば菜名宮は圧倒的に高く、強い。その理由は曖昧だ。菜名宮が言っていることが正しいのかもしれないし、あるいはカリスマ性があるだけなのかもしれない。ただこの場にいる全員の共通認識として、今正しいのは菜名宮だ。


「もっと不真面目になってもいいんです。もっと色んなことやってみていいんです。そうして今が彩りに満ちていなければ、人が生きている意味ってないですよ。」


菜名宮は目を伏せ一呼吸おくと、もう一度雛城の母親の方へと顔を向けた。


「真面目って、正しいことですか?」


そうしてそう言い放ったのだった。




「ごめんなさい、お母さん。」


気づけば先ほどよりもずっと空は赤く染まり、遠くの方は夜が覗いていた。少し前までは真っ暗だったこの時間も今は夏が近づき日が沈むのは遅くなっている。


手に取り口に入れたコーヒーは、いつも家で飲んでるものよりほろ苦く、そしてぬるい。運ばれてきてから置かれてから結構時間が経ったからか、何とも言えない微妙な口触りではあるがしかしその中にも独特の風味を感じる。これがコーヒーの美味しさかなんて少し大人びたことを考えた。間違ってたら結構恥ずかしい。


「いやあ、良かったねえ。仲直りできたみたいで。」


「…他人事かよ。」


俺と菜名宮は、先ほどのボックス席の隣へと来ていた。菜名宮は優雅にコーヒーカップを手に取り、口元へと持っていっている。ちなみに5杯目だ。飲み過ぎだろ流石に。カフェイン中毒者じゃねえか。


先ほどまで座っていた席では、雛城と母親が二人で向かい合っている。家族二人で話す時間をもったほうがいいだろうという配慮の元こうなっている。


「芽衣奈が謝らなくていいのよ。…本当に謝らないといけないのは私の方なんだから。芽衣奈にはたくさん辛い思いをさせちゃってたのに、それに全然気づけなかった。」


「…私だって、ずっと母さんに学校サボってたこと内緒にしちゃってた。」


話を聞く限り、雛城も母親も双方悪いところがあったという結論になっている。雛城は母親にずっと学校の過ごし方に関して嘘をついていたこと、雛城の母親は雛城に対してずっと無理を強いていたこと。程度の差があれど、どちらにもそれなりの非がある。


本来学校の授業を受けないのは当たり前だがいいことではない。雛城は真面目であるべきという母からの言いつけによって、辛い日々を送っていたのは確かだ。しかし、そうだとしても学校の授業をサボってもいい理由にはならない。


雛城の母親もまた、娘に真面目を矯正してきた。雛城を傷つけて苦しませているのにも関わらず、それを知ることさえなく自分の理想を押し付けた。


お互いがお互いの悪いところを謝罪しあい、そして反省していくらしい。


「これからどうなるんだろうな、あの二人。」


「そんなのわかんないよ。雛城家のことは、当事者たちが決めていく。私たちが関与するべきところじゃない。」


「バリバリ首突っ込んでたじゃねえか。」


「私は何もしてないよ。ただ自分の意見を少し言っただけだからさ。」


菜名宮はいつのまにか注文していたチョコレートケーキを手に持ったフォークに刺し口に運んでいく。少し前にケーキバイキングで散々チョコケーキを食べてたのに、まだ飽きてないのは意味がわからない。こいつの体に通ってるのは血じゃなくてチョコなのか?


「少し、ねえ。」


菜名宮はまた俺に嘘をつく…いや、あるいは本人にとっては本当のことなのかもしれない。


菜名宮のほんの少しの「意見」が、雛城の抱えていた悩みを緩和させて、あるいは雛城の母親の考え方を変えた。


「あくまでも自分が思ったことを伝えただけってスタンスか。」


「当たり前だよ。私は芽衣奈ちゃんがどんな人生を送ってきたのか詳細に知っているわけではないし、お母さんがなぜ真面目であることを正しいと考えるようになったかもわからない。私個人の意見として二人の考え方に問題があるって伝えただけ。」


「…はあ、らしい言い訳だな。」


菜名宮は口元に笑みを浮かべる。


「真面目が善とは限らないってのは、本当に私個人の意見だよ。というか、私を正当化するためのわがままっていう方が近いかも知れない。」


「何でお前の話になるんだ?」


「授業サボってるのは芽衣奈ちゃんだけじゃなくて私もだよ?真面目であることがいつも正しいのなら、私は常に悪人ってことになる。だから私は、真面目なことが絶対正しいって言えないんだよ。その意見は私にとって不都合だからね。」


「…雛城の母親を否定するのは雛城のためじゃなくて、あくまでもお前にとってのエゴってわけか。」


確かに雛城の母親の意見を全面的に肯定すれば、菜名宮は常に悪い方の立場になる。教室にいる方が珍しく、しかし成績はしっかり取る生徒なんて不真面目の代表例だろう。


「その通り。今日のことを裁判に例えるなら、私は原告でも被告でも、ましてや裁判官でもない。ただ裁判に主観でヤジを飛ばす一人の野次馬だよ。」


「裁判を丸ごと乗っ取る野次馬がいてたまるか。」


「ははっ。」


菜名宮はいつも俺を揶揄っている時の笑いを見せる。やっぱりこっちの笑い方の方が圧倒的に見慣れている。


後ろから聞こえる声はいつのまにか笑い声になっていた。上品な婦人の笑い声と、少し前によく耳にした高校生の笑い声、2つの異なる笑いが、しかし似ているように感じるのはやはり家族だからだろう。


今後、雛城と雛城の母親がどんな関係になるかはわからない。今までのすれ違いを埋めるかもしれないし、もしかしたらお互いのことを尊重し合うような関係になるかもしれない。二人の将来のことなんて全くわからないが、ただ悪い方向に行くことは何となくなさそうだと思った。


古びた小さな窓からまた光が雲の間をすり抜け、静かな喫茶店をほんの少し照らす。その光はちょうど前にいる黒みがかった茶髪を持つ少女に当たった。


雛城芽衣奈は、明るく笑っていた。



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