ある不良生徒について-6
「やあ、篠末。おはよう。」
朝、下駄箱から廊下に向かう途中に俺を呼びかける声が後ろから聞こえた。声の方を振り向くと、そこには仁王立ちをして、異様な存在感を放つ朝顔先生の姿がある。
「…どうしたんですか?俺なんかしました?」
俺は警戒心を高める。朝顔先生に声をかけられる時は大抵、なんかやらかしたかめんどくさいことを押し付けられるかの2択だ。といっても、後者はほとんどないので実質的には1択である。
昨日提出の課題は出したはずだ。この前の補習にも、しっかり参加したはずである。自分の記憶を探りあてるが、全くもって何の覚えもない。マジで何した?
「いや、何もない。朝学校で会った生徒に挨拶をするのは普通のことだろう?」
「…まあそうですね。」
「なんだ?何かおかしいか?」
「朝顔先生でも挨拶はするものなんだと驚いたんですよ。先生に声かけられた時は即本題に入ることが多かったじゃないですか。」
「全くもって君は失礼だな。私も一端の社会人だ。最低限のマナーはしっかりしてる。」
「俺今まで先生に挨拶された覚えないんですけど…」
「それは君が悪い。篠末に声をかけようとすると、いっつも早足で教室に向かってしまうじゃないか。」
「…それは。」
先生の言葉に反論ができなかった。毎朝下駄箱で靴を履き替えた後、大体人混みを通り抜けて早足で教室に向かっている自覚があったからだ。
俺がいつも学校に来る時間帯は、登校している生徒が多い。ゆっくり歩いていると複数人で登校しているグループに押しつぶされる危険性があるため、いつも早歩きなのだ。あと単純に居心地が悪い。
じゃあ早く登校すればいいんじゃないかと思うかもしれないが、それができたら苦労しない。いつも朝起きるのがギリギリであるため、登校するのもチャイムが鳴る寸前になるのだ。俺が悪いなこれ。
「とにかく私だって挨拶くらいはする。挨拶もできないと白い目で見られるのが世の中だ。相手が例え知らない相手であってもな。」
「はあ、社会人って大変ですね。見ず知らずの人にまで愛想作るの挨拶しないとめんどくさいでしょ。」
日々先生の激務を度々目にしているが、将来自分にもこんな風に働かなければならないと考えるとそれだけで憂鬱になってくる。可能ならば一生働きたくない。
「ああ、大変だ。挨拶は大きな声でハキハキとしなければいけないし、身だしなみも整える必要がある。服にアイロンを毎日かけて、私の場合はメイクをする。職場に行けば作り物の笑顔を浮かべる必要があるし、さらに周囲の空気を読んで行動しなければいけないことがある。社会に生きるというのはめんどくさいのだよ。」
「うっわ…社会に出たくねえ。」
今の話聞いて誰が社会人になりたい!ってなるんだ。俺なんてもう働かないという決意が徐々に固まってきているぞ。
「そんなこと言ってもいつか学校は卒業するものだ。そうすれば自然と社会に放り出される。働く働かないは篠末の自由だが、働かなければ社会からはニートなんて言葉で揶揄され、批判されるぞ。現代人は働かない奴には異様に厳しい。」
「先生、ダークサイドの話をするのはそろそろやめてください。もうこれ以上現実見たくないです。」
そろそろ俺のライフが0になってきた。もうすぐデュエルスタンバイしてしまいそうだ。社会という闇のゲームのせいで。
「事実を言ったまでだよ。社会に属するというのは、作られた集団の空気に馴染むことと同義だ。集団の中のルールに従うことができなければ、後ろ指を刺されるのはどこでも一緒だ。それに何もマナーを守らないといけないのは、社会人に限った話ではないぞ?」
「社会人以外って…俺含めた学生とかもですかね。」
「学生であってもクラス、あるいは学校という集団の中に属している。同級生が作っている空気感を読めなければ、クラスでは除け者扱いされるかもしれないし、時には教師のエゴに振り回させることもあるだろう。」
「…ああ、確かに。」
先生の話はあまりにも心当たりがありすぎる。
どんな場所であっても、そこで大きな勢力をもつ集団は必ず存在する。そこではその集団こそが正義であり、集団の当たり前に反していることはみな悪とされる。
集団に馴染めない系男子でお馴染みな俺は、今までにそのことを強く実感することが多かった。
1人で勝手に動いてもいいと思うんだけどな。俺はグループを邪魔しているわけではないのに。
「集団に馴染めなければ異端とされるのは、どんな場所でも変わらないことだ。そして周りと違うことがあれば、集団の当たり前をなんの悪気もなく押し付けるのもまたどこでも起こりうる。」
朝顔先生は大きくため息を吐いた。最近、先生が落ち込んでいる様子をよく見る。教師という職業も大変なんだな。
「周囲では同世代の人たちが結婚やら、子育てやらという話をよく聞く。親からはまたいい相手を…なんて言葉を何度聞いたか。そろそろ本命の相手を見つけてはどうか、なんてな。」
先生は左手で頭を抱え首を振っている。
「好きで恋人取っ替え引っ替えしてるんじゃないんだよ。私だって結婚したいさ!でも、いい相手が見つからないんだ!」
魂の叫びだった。先生って本当に恵まれてないんだな。別にモテないわけじゃないのに、男運が絶望的に悪すぎるせいで結婚できないどころか離婚歴すらあるのはもうどうしようもない気がする。
まあ見抜けない側の先生にも問題あるっちゃある気もするが、それはそれとしてなんか可哀想だ。なんか思ってたのと違う悩み方をしていたな。
んんっと、先生が大きく咳き込んだ。
「話が少し逸れたな。とにかく、だ。社会に生きるのはめんどくさいということはしっかり理解しておいた方がいい。そのことを理解していないと、社会で生きるのはもっと面倒になる。」
「いずれにせよめんどくさいじゃないですか。」
「それがこの世の中なんだよ。」
「はあ、働きたくねえ。」
もう一生世の中に出ずにニートになりてえな。誰か養ってくれる人探すしかない。もう世間体とかどうでも良くなってきた。SNSでプロフィール書いたら誰か拾ってくれねえかな。
ちょうど校内にチャイムが鳴り響いた。これ以上遅く登校すると遅刻の合図となる、朝の予鈴だ。気づけば登校時にいた多くの生徒は姿を消し、下駄箱にはぽつりぽつりと遅刻ギリギリに学校に来たであろう生徒が残るのみとなっている。
朝顔先生は左手につけた腕時計に視線を移した。
「っと…もうすぐ始業の時間だ。そろそろ教室に向かいたまえ、篠末。」
朝顔先生はそう言うとシミひとつない、いつも肩から羽織っているカーディガンを翻して職員室の方へと向いた。
「今日の小テストは8割以上無ければ補習だからな。しっかり勉強しておくように。」
それだけ言うと、先生はコツコツとヒールの音を立てながら廊下を歩いていく。
ちょっと待て、今聞き捨てならないことを先生言った気がするんだけど気のせいか?
「えっ?今日小テストあるんですか?」
「ああ、授業の初めにな。昨日の授業中に連絡したぞ。」
「そんなこと言ってましたっけ…」
慌てて記憶を思い起こすが、朝顔先生がそんなことを言っていた覚えがない。昨日の授業の記憶といえばせいぜい投げられたチョークを奇跡的に回避したことくらいだ。あれは俺史上56本の指に入る奇跡だな。指多すぎだろキメラか?
「…まさか小僧。昨日の授業寝てたのか?」
「小僧ってなんですか…いやまあ朝顔先生の年からすれば俺は小僧かもしれませんが。」
その時、風を切るような感覚が頬に走る。朝顔先生のハイキックが、気づけば俺の右頬の横をすり抜けていた。
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもないです。」
俺がそう言うと、朝顔先生は足を下ろして右手をズボンのポケットの中に仕舞った。嘘だろこの人本気で蹴ろうとしたぞ。殺す気か?
「まあいい…それで授業中寝ていたのか?」
「いや寝てないと思います。…多分。」
「おかしいな。授業中寝ていなければ、小テストなんて重要事項を君が聞き逃すはずがない。」
「えっと、それは…」
必死に昨日の記憶を掘り起こそうとするが、やっぱり何も出てこない。思い出せば、昨日は気付いた時には化学の時間が終わっていたような気がする。タイムリープでもしていたんかな俺。もしそんな能力があったとして、化学の授業では絶対使わないぞ。
「…明日の放課後、生徒指導室に立ち寄るように。」
朝顔先生はそう言うと職員室へと戻っていく。明日の放課後はどうやら安泰にならなさそうであった。
教室に入ると机の上に一枚の紙が置かれていた。
なんだろうこれ、間違えたのかな。この学校で、俺にメモを残すような知り合いなんてほとんどいないし。誰かが伝言をメモとして書いたけど、置く場所を誤ってしまった可能性が高い。
「どうすっかな。」
誰が置き間違えたのか知らないが、扱いに困る。本当は誰のところに届けたかったのか。持ち主、あるいは手紙の受け取り主に返さねばならないが、外見だけではただの折られた紙であり、誰宛のものなのかわからない。
俺はほんのしばらく思考して、その紙を手に取った。そのままにする手もあったが流石に授業中も含めてずっと放置するわけにはいかない。中身を確認する程度なら問題ないだろう。そう思い、俺はその紙を開いた。
「1時間目終了後、屋上ニテ待ツ」
紙に書かれていたのは、その文章だけだった。
当て名も受け取り主の明記もなし。おそらく筆で書かれたその文字は荒々しく、しかしどこか精密な印象を与える。
これ果たし状か?宮本武蔵の巌流島の決闘でも始まるのか?なんかやばいことした?
「ぜってぇ菜名宮じゃん…」
思わず心の声が漏れてしまった。多分周りには聞こえてないはずだ。
こんな意味わからんことをするのも、俺の机にメッセージを書いた紙を置くのも菜名宮しかいない。というか起き間違えたとかではなかったんだな。
そもそもの話、屋上に入れることを知っている生徒はそういないと菜名宮は言っていた。なら送り主は菜名宮で確定か。少なくとも他に屋上の南京錠を壊れていることを知っている知り合いはいない。というかそもそも知り合いがほとんどいない。
俺が自分の廊下側の席に目を向けると、学校指定のカバンと手提げ袋が机の横にぶら下げられているのを見つけた。こんな紙を置いているってことは、後ろの席の奴はもう来ているってことになる。
いつも朝礼ギリギリに登校する俺は、それでも自分より遅くすることが多い菜名宮の姿をHR前に見ることはない。今も教室に菜名宮の姿はないが、今日はもう学校に来ているのだろう。いつも遅刻してる奴に、登校時間の早さで負けるのってなんか屈辱だな。
机の上の果し状を折りたたみ、菜名宮の机に放り込んだところでちょうどチャイムが鳴った。
いつも通り教室に菜名宮六乃の姿は見えなかった。
キーンコーンカーンコーンと、チャイムのなる音がする。気がつけば、1限の授業があっという間に終わっていた。この50分間、全くと言っていいほど集中ができなかった。それは朝、机の上に置いてあった菜名宮からの果たし状のせい…ではなく普通に授業の内容が分からなかったからだ。なんだよ三角関数って。数学に英語を混ぜてくるんじゃねえ。sinもcosもどこ表してるか全くわからない。後シンプルに計算が難しい。数学得意とか言ってる奴全員ドMなんじゃねえかな。
授業終了時に配られた課題のプリントを覗いて見るが、全くと言っていいほど何を書いているかがわからない。これ明日提出って嘘だろ…絶対できない。
俺はその紙を中身が見えないように四つ折りしてカバンの中へとしまうと、椅子から立ち上がって廊下へと出た。課題のプリントに関しては、多分今日か明日の自分が頑張ってやってくれるだろう。とりあえず今はもう見たくない。
多分未来の自分もこの課題をやらないどころかそもそも存在すら忘れているだろうなんて考えを強制的にシャットアウトして、俺は文化棟へと足を運んでいく。教室がある棟は3階で、屋上は文化棟の4階からさらに上だ。絶妙に距離があるようなないような区間をほんの少し早歩きで歩くと、昨日見た階段がすぐ目の前にある。
なぜあんなところに呼び出すのだろうか。昨日、雛城と出会った場所だから?昨日の電話の終わり際、菜名宮は「次のステップへと行く」とまだ言っていた。
なんか決め台詞っぽかったけどよく考えたら全く意味わかんねえんだよな。今日屋上に行くのとなんか関係あるのか?せめて屋上に行く理由を教えてくれ。
ていうかそもそも連絡するならあんな果たし状みたいな感じじゃなくて普通にチャットのアプリ使えよ。それか電話。
こう見えても毎朝自分の携帯になんか連絡事項が入ってないから確認はしてるんだよ。まあ毎日通知の欄は0だしメールは密林からしか来ないけど。
考えていても仕方がない。誰もいない文化棟からの脱出路のように聳え立つ、屋上への階段を一歩一歩駆け上がっていった。
階段はやっぱり薄暗く、ところどころ埃臭い。やはりほとんど誰も使っていないのだろうか、毎日生徒の誰かが行なっている清掃活動も行き届いていない。
ビニールシートを被せられた荷物がいくつも無造作に置かれている踊り場を超えて、屋上のドアの前に立った。
南京錠を手に取って留め具の部分を撚れば、やはりそれは本来の役割を全うすることなくプラーンと簡単に錠が外れる。そのまま俺は屋上へのドアを開いた。
その先には、柵にもたれかかって後ろの空を見つめている雛城の姿があった。特徴的な髪の色と、今は正面に見える髪の左側についた2本のヘアピン。
昨日の屋上で、あるいは放課後に出会った時と同じ格好をしている。青い空を見つめる表情はどこかつまらなさそうに見えた。
おそらくドアの施錠音が聞こえたのだろう、雛城がこちらを振り返る。
「…篠末か。」
雛城はそう呟くと、興味を失ったかのようにまた視線を後方に向けて、空を眺め始めた。
「ようやく来たか、タキ。」
「びっくりしたあ…いたのかよ。」
声がした方を振り向けば、すぐ隣に壁にもたれかかって座り込む菜名宮の姿がある。
「タキよりもだいぶ先に屋上には着いてたよ。」
「そういえば授業中いなかったもんな。」
1時間目の数学の時間、結局菜名宮が姿を現すことはなかった。いつも朝のHRに来なければ大抵午前中の授業はずっと来ないので今日も教室には来ないと予想していたが大当たりだったようだ。
「学校には来ていたよ?多分誰よりも早くね。」
「登校してたのは知ってる。荷物置きっぱなしにしてたからな。お前いつ頃来てたんだよ。」
「大体6時半には学校に着いてたかな。」
「早すぎだろ。何でそんな時間に登校してんだ?」
「暇だったからね。後、ここに来て欲しいことを伝える紙を置くために、タキより早く登校する必要があったからさ。」
俺より早く登校するためだけに6時半に学校来るって控えめに言ってだいぶイカれてるな。
「…連絡を伝える紙って、あの机の上に置いてたやつか。」
「ここに来たってことはちゃんと読んでくれたんだね、あの果たし状。」
「なんで普通に連絡しないのかとは思ったけどな。」
というか果たし状って自覚あったんだな。いやあれ多分、本来の果たし状の意味から離れてるけど。
「ただチャットで連絡するだけじゃつまらないじゃん?それなら一手間加えようと思って。」
「何をどうしたら一手間加えようとして書道になるんだよ。意味わかんねえぞ。」
考えてみてほしいが、朝登校して自分の机の上に宛名も送り主の名前もない、果たし状みたいな文面の和紙が送られてきたらビビるだろ。
少なくとも俺はビビった。まさかあんなもんが机の上に置かれてるなんて思わないだろ。今までの人生で下駄箱の中にラブレターが入ってたことすらないんだぞ。
「私の高尚な思考に、タキがついて来れていないだけだろうね。」
「それが高い次元の話なら俺別に行かなくていいわ。」
菜名宮によればこのインターネットが普及している時代に果たし状で連絡を伝えることが高いレベルらしい。絶対嘘だろ。
「とりあえず連絡が伝わって良かった。タキなら自分の机の上にメモが置かれていたとして、自分のものだと思わなかった可能性があるからね。」
「そんな懸念をするなら普通に連絡してくれ。む
バリバリ他人のものだと勘違いしてました。普通に自分へのメモなんて考えには至らなかったのは口が裂けても菜名宮に言えない。
ふっと菜名宮が小さく目を閉じて息を吐く。地面に手を乗せると、勢いよく立ち上がった。
「さて、みんな揃ったね。」
菜名宮は一歩、また一歩と雛城の方に近づいていく。その度に吹き付ける生ぬるい風が菜名宮の髪を揺らす。季節で言えばどんどん暖かくなって行ってるはずなのに、ほんの少しだけ冷たく感じるのはやはり梅雨が近づいているからだろうか。
菜名宮の言葉に雛城がこちらを振り向く。菜名宮を見つめるその表情は、やはりどこかつまらなさそうである。昨日屋上で、あるいは放課後で見せた表情と何も変わることがない。
「…何?」
雛城がほんの少し眉を顰めた。菜名宮はまるで雛城の声が聞こえていないかのように下を向く。
沈黙が生まれる。屋上はほんの少し地面より風が強く、それが吹き付ける音だけが響き渡る。
「私が屋上に来たのは単純な理由だよ。芽衣奈ちゃんを更生させてくれって、そうタキに言われたから。」
菜名宮は顔を上げて、雛城の方へと視線を上げる。後ろ姿からはどんな表情をしているかは見えないが、立ち振る舞いだけでそれらを察することは容易だった。
自信満々とでも言うべきか、あるいは傲慢というべきか。俺がいつも見ている菜名宮の姿だ。
「タキ…って、誰のこと?」
「タキはタキだよ。」
「それじゃあわからないんだけど。」
雛城の、菜名宮を見据える目がさらに鋭くなった。
よくよく考えなくても、雛城の質問に対する菜名宮の答えは答えになっていない。タキはタキってなんだよ。小学生の算数でももう少し難しい等式が出てくるぞ。
「タキって俺のことな。」
仕方なく口を開く。なんか知らんけど雛城と目が合うたびに俺を殺そうとしている視線を送ってくるから、正直2人のやり取りに口を挟みたくなかった。
「ああ、篠末のことか。…ってことは、菜名宮が私に付き纏ってるのも篠末の差金なのか?」
瞬間、雛城の視線がこちらへと向いた。ギラっという効果音が似合う、純粋な殺意とさえ言える視線が俺を捉える。
「うん、芽衣奈ちゃんのことはタキから聞いたんだ。」
菜名宮がそう答えると雛城の視線はさらに圧力が強くなる。おそらく無言で何やってくれてんだお前…という声が聞こえているのは気のせいではないのだろう。ちょっと待ってくれまだ死にたくない。
「正確に言えば、先生からの伝言を菜名宮に伝えただけだ。俺から言い出したわけではない。」
一刻も早く誤解を解くために、もっと言うなら向けられた殺意のこもった視線から逃げるためにそんなことを口に出す。早口になってしまったことでなんだか言い訳がましく聞こえてしまった。事実を言っているんだけどな。
「…そう。」
雛城はそう言うと俺から興味をなくしたかのように、視線を別の所へと移した。
良かった。救われた。妹の花嫁姿を見ていないのに、まだ死にたくはなかったからな。
雛城はまた柵の向こう側の青い空を眺めた。ほんの少し白い雲が地平線の向こうまでずっとかかった空は、変わり映えがなくずっと同じ景色が続いている。
「私はね、何か物を頼まれると断れないたちなんだ。」
菜名宮は先ほどより一歩だけ前に足を進める。
「朝顔先生が私にわざわざ頼んだってことは、芽衣奈ちゃんのことをよほど気にかけているんだろうね。先生は思慮深い人だから。」
「やっぱり夏目先生か。あの人…」
「一端の先生として、朝顔先生は芽衣奈ちゃんを救おうとしている。そして私自身も芽衣奈ちゃんのことが気になっている。」
菜名宮がほんの数歩右に下がり、俺と雛城、両方が視線に入る位置に立つ。俺がいる場所から見える菜名宮は笑っていた。
「芽衣奈ちゃんは何でいつも屋上にいるのかな。」
「…」
菜名宮の問いかけに、しかし雛城は答えない。もちろん聞こえていないなんてことではなくて、雛城が菜名宮の問いかけに反応していないからだ。
菜名宮と雛城、2人の間には、見えない壁が確かにある。それは雛城の拒絶によって生まれている。
「どうして君は、学校に登校しているんだろうか。」
菜名宮が質問の糸口を変えても、しかし返事はない。
芽衣奈ちゃんはどうして授業をサボるようになったのかな。何かあれば、私がするけど。」
「…そんなこと言ったって、菜名宮も結局周りの奴らと同じなんだろ。」
「周りと同じって?」
「私のことをよく知りもせずに、私を悪だと決めつけて批判する。あるいは私を可哀想だとか勝手に思って、なんとかしてあげたいなんて口だけのことを言う。私はそんな奴にしか会ってこなかった。」
雛城の表情にはどこか色があり、感情があるように見えた。少なくともさっきまでのつまらなさそうに空を見る表情よりいくらか人間味がある。
それは怒りか、あるいは嘆きか。菜名宮に対して芳しくない感情を抱いていることだけははっきりとわかる。
「私のことを批判する奴も、救いたいなんて言う奴も、結局は自分のエゴのために動いている。私を更生させたい?それって結局自分が頑張ったなんていうレッテルが欲しいだけなんじゃないの?」
さっきまでほとんど口を開かなかった雛城の言葉がほんの少し強くなる。
「私をダシにして、自分は私のことを思っている。心を通わせようと頑張ったなんて言いたいだけでしょ?あんたも夏目先生も、みんなみんな自分のエゴのために動いているだけだ。本当に私のことを思うのなら放っといてくれない?よく知りもせずに私に近づいてこないで。」
先ほどよりも一段と強い風が吹き付ける。体が傾くほどではないけれど、それでも髪が長ければ鬱陶しいと感じるくらいの強さの風だ。それはやはり生ぬるく、季節に見合った暖かさをしていない。
雛城の目は真剣だ。雛城自身が、あるいは朝顔先生が言っていたように雛城の行動を見かねて指導をした先生が多くいたのだろう。もしかすれば、なんとかしてあげたいと声をかけた生徒もいるかもしれない。存在が知られているのなら生徒会あたりが動いていそうだ。
しかし雛城自身はよく思っていなかった。声をかけてきた人間が皆雛城のためではなく、自分自身に利益が生まれるように声をかけてきたなんて思ったらしい。
まあ人助けなんて大体そんな物なのだろう。結局自分が満たされるために、あるいは周囲からの評価を得るために人を救う人は割と多い。
わかりやすい例で言えば、就職活動を有利にするために被災地のボランティアに行く大学生とかだろうか。純粋な優しさで他者を助ける人間というのは、意外と多くはない。
彼ら彼女らは、大抵何か理由があって動いているのに過ぎないのだろう。雛城はそのことを知っているから拒絶することを選んだ。
「…否定はしないよ。私は自分のエゴのために、こうして屋上に来ている部分はある。もしかしたら朝顔先生もあの人自身のエゴがあるのかもしれない。」
「やっぱりそうでしょ?あんたも夏目先生も周りと一緒なんだ。」
「でもそれだけじゃないよ。」
半ば遮るように菜名宮は雛城の言葉を否定をした。その言葉は力強く、そして明るい。例え周りの人がザワザワと別の話をしていても、菜名宮の方に視線が一瞬で集まるような、はっきりとした言葉だ。
「私のエゴは朝顔先生の頼みを叶えたいっていうこと。朝顔先生のエゴについては知らない。あの先生が何を考えてるか、私は知らないからね。」
「だってお前化学の授業受けてないもんな。」
会ってもない人の考えを読み取れるわけがない。最近ほとんど授業出席していない菜名宮が、朝顔先生の考えていることがわかるはずもないのだろう。
「少なくとも私には、他の人と同じようにエゴがある。でもそれだけじゃないんだよ。」
俺のツッコミを華麗にスルー。どうやら都合の悪いことは聞こえないらしい。
「それだけじゃないなら、結局なんなんだよ。」
ほんの一瞬、間が生まれる。それは刹那にも感じる本当にわずかな時間。その後、菜名宮がまた笑った。
「知りたいんだよ、単純に。芽衣奈ちゃんのことがね。」
「…は?」
「私は芽衣奈ちゃんのことがもっと知りたい。なぜ芽衣奈ちゃんがこんな所にいるのか。いっつも学校で何をしているのか。」
菜名宮の話す様子は、まるで小さな子どもが自分の好きなアニメのことを話す時に熱中してしまう様に似ている。
「それだけじゃない。なんで『平均台の舞姫』とまで呼ばれた芽衣奈ちゃんが今こんなことをしているのか。昔と今で、周りからの印象がガラッと変わっているのはなぜか。なんでも気になっているんだよ。」
「…そのこと、知ってるのか。」
「結構調べたからね。芽衣奈ちゃんがどんな人かわからないのに、更生させるなんて意気込むのはそれこそただの自己満足だ。何の意味もない、ただ自分が満たされるためだけの無駄足に過ぎない。でも私は少し凝り性でね。朝顔先生の望みを叶えるために芽衣奈ちゃんのことは徹底的に調べた。その中で芽衣奈ちゃんのことをもっと知りたいっていうエゴが生まれてきたんだ。」
「それだけじゃないって、お前のエゴのことだったのかよ。」
「むしろなんだと思ったの?まさか私が聖人君子とでも思っていた?」
「…俺はどうやら勘違いしていたみたいだな。」
俺の問いかけに菜名宮は当たり前のように答える。先ほどの「それだけじゃない」という言葉が表すのは、雛城に接触する理由が朝顔先生に頼まれた以外にあるというわけではない。
朝顔先生の依頼を叶えたいというエゴの他に、雛城について知りたいというエゴが存在するということだ。
「もっともっと芽衣奈ちゃんのことを知りたい。私が屋上まで来てあなたに会いに来ているのは、むしろこっちの側面の方が強いんだよ。」
「…それって結局、自分のエゴを押し付けていることには変わりないじゃん。私の事情なんて、まるっきり気にしていない。菜名宮の一方的な願望を押し付けているだけだ。」
雛城の言葉は重々しい。なるほど確かに、菜名宮が雛城に会いに来ている理由は、結局菜名宮自身のエゴであることには変わりない。
これまで雛城に接触してきた人間が自己満足であったり、周囲からの評価のために動いていたとすれば、それと菜名宮が雛城に会っている理由は異なるが、しかし本質的には自分自身のためであるという根幹の部分は変わっていない。
「確かに。私がここにいる理由も、芽衣奈ちゃんのためではないのかもしれない。」
ただしかし、菜名宮は笑っている。
「だからこんな物を用意したんだ。」
制服のポケットに手を入れると、菜名宮はゴソゴソとそこを探る。
「みんなで一緒にスイーツ食べない?」
そう言いながら、菜名宮はポケットから数枚のチケットを自慢げに取り出した。
「は?」
素っ頓狂な声を出したのは俺だ。いきなり何を言い出したんだこいつは。
「だから、みんなでスイーツ食べに行かない?って言ってるんだよ。」
「いや意味はわかってる。俺が聞きたいのはいきなり何でそんなこと言い出したんだってことだ。」
「んー、なんとなく?あ、お腹すいたからってことにしておこう。ちょうどお昼だし。」
菜名宮は手元のチケットをひらひらと揺らしながら上の方向を見上げる。
これダメだな。多分明確な理由教えてくれないやつだ。菜名宮が物事をはぐらかそうとする時、いくら追求しても無駄だというのは今までの付き合いで何となくわかってる。ここで変に追求する方がめんどくさくなることも。
「どう、芽衣奈ちゃん。スイーツ食べに行かない?」
「はぁ?なんでお前らと行かなきゃならないんだよ。」
雛城は相変わらず菜名宮に対して、怪訝な様子を送っている。菜名宮の行動がよほど意味不明だったのだろう。先ほどよりも声音がほんの少し高くなっている。
「そりゃそうなるわな。」
「そうか…残念だね。」
菜名宮はあからさまに落ち込んだような表情を浮かべた。それはあまりにもわざとらしすぎて本心ではないのだろうと一瞬で分かる。
「せっかく芽衣奈ちゃんが甘い物好きって聞いてたんだけど、行きたくないのなら仕方ないかあ。」
菜名宮の言い方はまたもわざとらしく作られたようなものだ。残念だ、仕方ないな、なんて言葉の上では落ち込んでいるように見せて本心では何とも思っていないだろう。
菜名宮は手元にあるチケットをさっきよりも、わざとらしくひらひらとさせている。まるでそれを雛城に見せつけているかのようだ。
構図だけ見たら、舞踏会の招待状をシンデレラに見せびらかしている性格悪い姉の感じあるな。菜名宮だったらすげえその役似合いそう。まあ多分こいつの場合、シンデレラが舞踏会に来る前に王子を自分のものにしてそうだが。なんだよそのブラックストーリー。やっぱり御伽噺ってクソじゃねえか。
「せっかく世界大会で入賞したパティシエが期間限定で開いている、高級スイーツバイキングのチケットが取れたのに。」
「えっ」
その時、左側からそんな声が聞こえる。声の方を振り返ると、雛城が先ほどの位置より半歩前に進んでいるのが見えた。
「せっかく世界一とまで言われたショートケーキや、審査員全員が絶賛したチーズケーキが食べ放題なのに。」
菜名宮はチケットをうちわのように仰いで耳元に風を起こしている。
「行きたかったけど仕方ないなあ。期限今日までだし、流石にもう無理だね。これは捨てるしかないか。」
「ちょっとまっ」
雛城が素っ頓狂な声をあげる。おっと、これは流れ変わったな(高速理解)
「それは、本当なのか?」
「ん?それって?」
「そのチケットのこと。期間限定のスイーツバイキングって、駅前でやってる会員限定のやつなのか?」
先ほどよりも、さらに雛城の声音が数トーン上がる。さっきまでとはまるで別人みたいだ。
「そうだけど。ここに書いてあるじゃん。」
「…会員になることするも難しい、幻と言われるケーキバイキングだよな?」
雛城はさらに半歩菜名宮に近づいていた。行動だけ見たら餌に釣られた動物と同じことをしている。
これは…あれだな。雛城、多分甘い物相当好きなんだな。菜名宮がさっき呟いた、雛城が甘いものが好きだという情報。菜名宮はそのこと知っていた上でスイーツバイキングのチケットを出していると。
俺、何も知らされてないんだけどな。ていうか雛城が甘いもの好きなんてことすら知らないぞ。昨日連絡されてたっけ?いくら俺でもそんな情報を伝えられてれば覚えてるはずだ。
「それ、本当に捨てるのか?」
「んー…そうなるかな。これは芽衣奈ちゃんとケーキを食べに行くためにとったものだし、捨てるだろうね。いやぁ、残念だな。私としてはぜひ行きたかったんだけど、芽衣奈ちゃんが私とスイーツを食べに行きたくないなんていうからね。なら私がこの紙切れを持っている意味もないんだよ。仕方ないなぁ。」
菜名宮はそんなことを言いながら、口角をめちゃくちゃ釣り上げてにやけている。手元のチケットをひらひらさせて雛城に見せつけているかのように。
「ちょっ、ちょっと待って。」
雛城が、片手を菜名宮のチケットの方へと伸ばす。
「ん、どうしたの?そんなに必死になって。」
「私、まだ行かないなんて言ってないぞ。」
「ん?でも確かに言ってたよね。『何でお前らと行かなきゃならないんだよ』って。」
「それは何というか…言葉の綾だ。ケーキバイキングに行かないとは言ってない。」
雛城は言葉が矢継ぎ早になる。…多分いつも俺が朝顔先生に説教されて言い訳をしてる時、こんな感じなんだろうか。側から見てるとなんか情けないな。
「確かにケーキバイキングに行かないとは言ってないけど、私たちとは明らかに行きたくない雰囲気だったよね?だったらもうこれは捨てるしかない。」
「…ちょっと待て、捨てるくらいなら。」
雛城の目が一段と開き、さらに一歩分、菜名宮に近づく。屋上に来たばっかりの、あの離れきった距離感はいずこやら。すっかり2人の間の空間はだいぶ縮まっていた。
「んー?もしかして芽衣奈ちゃん、バイキング行きたいの?」
「…お前って本当に性格悪いよな。いつも通りすぎて逆に安心すら覚える。」
「え、なんのことかな?私はみんなに優しい聖人君子だよ?」
「すっとぼけんじゃねえ。さっき自分で否定してただろ。」
菜名宮は知らん顔をして、また雛城の方を向く。
「もし行きたいなら素直にそう言えばいいのに。」
先ほどまでとはすっかり立場が逆転している。というか菜名宮が一方的に雛城いじめてるみたいになってる。こいつもうシンデレラの姉だろ。
雛城は雛城でさっきまで謎に放っていた威圧感はどっかに行ってるし。なんかもう可哀想になってきた。
「…行きたいってわけじゃない。でもお前がそれを捨てるなら、私が使ったほうがいいと思っただけだ。」
ここまで来ても雛城はまだ素直になってはいない。あくまでも行きたくないわけではないとは主張しているようだ。
「そうかぁ…でもね、これって入る時に会員の照会が必要なんだよ。だからもし芽衣奈ちゃんだけで行っても、多分入れないんじゃないかな?」
「…」
菜名宮の答えに対し、雛城が見せたのは苦悶の表情だ。自分1人では行けないということがわかったからなのか。もう誤魔化すの無理だぞ。自分に素直になってくれ。これ以上雛城のこんな姿見てるのなんか居た堪れなくなってくるから。
「んー…でも、芽衣奈ちゃんがどうしても行きたいっていうなら、私と一緒だったらケーキバイキングに入れるけどね?」
雛城は下の方を向き、手のひらで拳を握っている。抱いている感情をどこにぶつければいいのかわからないのだろうか。だんだんと拳を握る力は強くなっていっている。なんだか今ぎしって音が聞こえたな。何の音だ?
「芽衣奈ちゃんは結局、ケーキバイキングに行きたいの?」
菜名宮はあまりにもいい笑顔で雛城の方を見つめている。これはただ優越感感じてるだけだな。
「…たいよ。」
「んーと、なんて言ったの?」
「行きたいよ!スイーツバイキングに!菜名宮といっしょでいいから!これで満足か?」
雛城は顔を真っ赤にさせて、高らかに叫んだ。もはやそこには昨日の屋上で、あるいは放課後に会った何も感情がないような、つまらさそうにしている雛城の面影は全くない。ただ1人の普通の女子の姿がそこにはあった。
「そうやって最初から素直になればいいのに!」
「うるさい…」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で雛城は菜名宮に反論するが、その言葉が菜名宮に全く効いた様子はない。むしろ菜名宮をもっと調子づかせるだけだろう。
「芽衣奈ちゃん、自分の欲望には忠実に動いていいんだよぉ。」
「めちゃくちゃ煽るじゃんお前…切断されるぞ。」
雛城の隠れた部分を少し見つけたところから、舞い上がってるのかも知れない。雛城の方は顔をずっと赤くしたまま下を向いて動かない。
「じゃあ芽衣奈ちゃんの了承も得られたことだし。ケーキバイキング、行こうか!」
菜名宮は手を高らかにあげて、ガッツポーズをした。
「どこに行くって?」
菜名宮がえいえいおーという掛け声が聞こえてきそうな、手を上げた後のことだった。
屋上のドアの前、俺よりいくつか後ろのところに、1人の姿があった。
「夏目先生…」
「…先生、いたんですか。」
化学教師にして俺に依頼を持ちかけた、朝顔先生がドアの前に立っていた。
「私はこの時間、どこのクラスの授業も受け持っていないからな。」
朝顔先生は朝に会った時と同じように、腰くらいまであるカーディガンを袖を通さずに身に纏っていた。黒く、長く伸びた髪は屋上に吹くほんの少し強い風に揺られるが、朝顔先生自身は風に靡くことは全くない。ただ凛としてそこに立ち尽くしている。
「篠末、雛城、そして菜名宮。お前たち、今授業中ということは理解しているか?」
「あれ、そんなに時間経ってましたっけ。」
「休み時間はもうとっくに終わっているぞ。」
ポケットの中に入れていたスマホを取り出すと、そこに表示されている時間は、授業開始よりも後のものだった。
「チャイム鳴らなかったんですけど…」
「今日は短縮授業だからチャイムが鳴らない日だ。昨日各クラスに知らされているはずだぞ。」
そういえば、なんか担任がそんなこと言ってたような言ってないような気がする。昨日のHRの時間は周りの話に聞くの夢中で連絡事項とか何も聞いてなかったわ。
「私は昨日午前中に帰っていたので知らないですね。」
「堂々と胸を張って言うことじゃないだろ…」
「はあ…全くだ。」
朝顔先生は困ったように顔を顰める。確かに菜名宮が授業を受けていないことを何とも思ってなさそうなのは、教師にとっては頭が痛いのかもしれない。というか俺が教える立場だったとして菜名宮みたいな奴がいたら多分ストレスで胃がボロボロになってる。
「…まあ2時間目の授業に遅れることに関してはまだいいだろう。そもそもの話、雛城と菜名宮は1時間目に出ていないわけだからな。」
「それって余計ダメじゃないですか?」
「出席していない方が大きな問題だから、遅刻するのは相対的にまだ小さなものだ。」
「いやだからって見逃したらダメでしょ…」
「…そこら辺の対応は、まとめて後でさせてくれ。」
朝顔先生はどこか切実そうに呟く。
「2時間目が始まっているが、屋上に屯していた件に関してはとりあえず不問にしておく。各々事情があるのだろう。しかし、だ。お前たち、今からどこへ行こうと言うのかね?」
先生の眼光は鋭く俺たち3人を見つめる。そのセリフどっかで効いたことあるんだよな。
南が路地裏に野良猫を追い詰めた時にそんなこと言ってた記憶がある。なんか天空に浮かんだ島にある宝石を手に入れようとしてる28歳男性が言ってそうだな。完全に推測だけど。
「スイーツバイキングですね。」
こちらに強い圧を送ってくる先生に、しかし菜名宮は飄々として事実を答える。
「…え?ていうかそれって今日行くのか?」
「もちろんだよ。だって開催してるの今日までって言ったじゃん。」
「あっ…そうか。」
雛城は納得したように頷く。そういやさっきそんなこと言ってたな。菜名宮が雛城を脅す際の文句として使ってた。
「学校はどうするつもりだ?」
「3人とも早退します。」
菜名宮はあっさりとそう言い切った。その返事を見るに、元々そうすると決めてあったのだろう。考える仕草もなく即決だ。
「おいちょっと待て。そのバイキング俺も行くの?菜名宮と雛城だけで行くんじゃないのか?」
菜名宮の言い方だと、俺までスイーツバイキングに行くことになってるんだけど。3人ともって確実に俺も含まれてるよな?
「もちろん3人だけど。だからタキをここに呼んだわけだし。」
「…篠末も来るのか。」
なんか雛城が露骨に嫌そうな顔を向けてきた。やめて、そんな顔しないでくれ。昨日向けられた表情よりも、生々しいというか感情が露わになってるのがより辛い。
「私はそもそもそのつもりだったんだけど、むしろタキは来ないの?」
当たり前のように、菜名宮は俺をカウントに含んでいるつもりらしかった。むしろ3人で行かないと思ってなかったの?なんて言いたげな表情すらしている。
「さっきの流れだと俺完全に部外者だったじゃねえか。いつの間にこうなってた?」
「あれ、3人で行くって言ってなかったけ。」
「そんなこと口にしてなかっただろ。」
「そうか…でもチケット3人分用意しちゃってるし、タキも来てよ。」
菜名宮は手に持ったチケットをまた顔のところまであげて風に揺らす。その手元には3枚のチケットが、確かにあった。
「俺は別に行きたいって言ってねえんだけど。雛城みたいに甘いもの好きってわけじゃないし。」
「私は特段スイーツが好きというわけじゃないからな。仕方なくだ。」
「雛城…お前流石に無理あるぞ。もう隠す意味ないだろ。」
さっきのやりとり見て仕方なくなんて思うやつは多分いない。
「そもそもなんで俺が付いてくことになってんだ?」
「え?私がついてきて欲しいからだけど。」
「自己中すぎだろ…」
「それが私だよ。」
「ああ、確かにそれが菜名宮だ。」
…はあ、本当になんという奴だ、菜名宮は。
そしてこんなめんどくさい奴にいつも付き合っている俺もまたあまりにも可笑しな奴なのだろう。
この学校じゃ菜名宮と、一番とまでは行かないもののそこそこの付き合いがあるとは自覚している。何で俺はいつもこいつと居るんだろうか。
「じゃあ結局、篠末、雛城、そして菜名宮。お前たちは3人でケーキバイキングに行こうとしてる、ということで構わないか。」
「そうですね。」
「そうですねってお前…」
菜名宮は優等生のような笑顔でそう答える。先ほど雛城を煽った表情よりも、幾分か綺麗なもの。営業スマイルとかいう表現が近い。対して朝顔先生は眉間に皺を寄せる。
「そうですか、じゃあいってらっしゃいとなると思うのか?」
「なると思ってます。」
菜名宮が即答したのに対し、朝顔先生はさらに顔を引き攣らせた。菜名宮の態度にペースが乱されているような感じがしている。
相変わらず菜名宮と話す時、どうも調子が狂ってしまうらしい。まあ菜名宮にペースを合わせてもらおうとすることが無謀なのは、朝顔先生も知っているのだろう。
「馬鹿かお前は…学校サボって遊びに行くなんて、そんなこと、教師が許すはずがないだろう。見逃したら、逆に監督問題として教師の責任が問われることになる。」
「そこを見逃してください、と私は次に言います。」
「そんなこと言われても、流石に許せないな。」
まあ、そうだよな。当たり前だが教師がいる前で授業サボります。なんて言われて許す人がいるのだろうかという話だ。そんなの当然いないだろう。
「私が菜名宮の行動を見逃せば、他の生徒はどう思う?自分たちが教室で授業を受けているのに、菜名宮たちはケーキバイキングに行っている。それを良く思うものは果たしているのか?」
「まあいないでしょうね。逆の立場であれば、多分腹が立ちますよ。私たちに対しても先生に対しても。」
「そこらへんがわかってはいるんだよな…」
菜名宮は時々一般論から外れた行動をすることがあるが、決して常識がない訳ではない。むしろ変なことを考えていなければ常識人の枠には十分収まるであろう立ち振る舞いをしている。
しかし菜名宮は自分がそんな振る舞いをするのが許せないのだという。枠に囚われて生きていては自分のしたいことができないのだそうだ。
菜名宮は常識のことを理解した上で、自ら常識に外れて生きている節がある。人々の当たり前をそもそも理解していない人よりも幾分タチが悪い。
「今から行くってのじゃなくて、放課後に行くのは?」
雛城が2人の間に割って入るようにそんなことを言った。
そこで諦めるって選択肢より先に、なんとか行こうと模索しているあたり相当ケーキバイキングが楽しみなんだろうな。
さっきまでの取り繕っていた姿勢はすっかりなく、ケーキにありつけない可能性があると残念そうな表情をしている。
「あそこのケーキバイキングは入場時間が決まっていただろう。今からだと12:00〜と15:00〜の2つだ。今日は7時間目まであるし、まず間に合わないだろうな。」
「…そんなぁ。」
「何で営業時間なんて知ってるんですか…先生。」
ケーキバイキングが開催されていることを知っていても、その営業時間を知っているとは思わなかった。
調べればそもそも出てくるだろうが、自分が行こうとしない限りわざわざそんなことをしないだろう。ならなぜ、朝顔先生は時間がすらすらと言えたのか。
「駅前には良く立ち寄る。ケーキバイキングの近くに用事があることが多くてな。」
「ああ、そうだったんですか。」
俺は学校まで通う際に駅を使うことはあれど、ケーキバイキングが開催されている最寄駅を使うことはない。だから俺は知らなかったが、普段から駅前に行くことが多ければ、ケーキバイキングを見かけることも何ら少なくない。
「あそこの近くの用事ってパチンコですか?確か結構大きな店ありましたよね。」
「ああ、住んでいるところからだと一番近いし駅近な割には意外と人が少ないからな。この前の週末も行ってきたよ。」
「…先生、ギャンブルやめないんですか?」
「私に死ねとでも言いたいのかお前は。」
「命かけすぎでしょ。ギャンブルしか生きがいないんですか。」
「ああ、この前の休日はおよそ3日分の給料が飛んだ。」
「ええ…結構手痛いでしょそれ。生活できるんですか?」
「大丈夫だ。その前は1000円も勝ったからな。それに職業柄、サービス残業が圧倒的に多いし、普通なら払われるはずだった分負けたと考えれば実質的に私は負けていない。」
「今さらっとやばい話しませんでした?」
「教師ってのはそんなもんだよ。」
そういえば学校の教師はほとんど残業代が出ないというのをどこかで聞いたことがある。部活動の大会だと休日にも一日時間が潰れるのに、交通費しか出ないという話もあるくらいだ。
「…夏目先生。」
後ろの方からぼそっとそんな呟きが聞こえた。軽くそっちの方を振り返れば、雛城が若干引いた様子で朝顔先生のことを眺めている。
その視線に気づいたのか、朝顔先生ははっとしたように頬を締めた。
「まあ、そんなことはどうでもいい。とにかくだ。今から学校を出ようとするのなら、私はお前たちを止める義務がある…教師としてな。」
朝顔先生は話を逸らすように咳き込み、もう一度俺たちの方を向く。朝顔先生のパチンコ事情とか雛城にとっては寝耳に水だったんだろうな。
「…それにだ。この次は化学の授業だが、授業の開始時にテストをやるんだぞ?」
「そういえばそんなんありましたね…」
確か今日の朝聞いた気がする。あの後全くと言っていいほど勉強してないが。というかさっき鞄見た感じわんちゃん化学の教科書忘れてるまである。
やっべー殺されねえかな俺。どうか許してくださいお願いします。
「へえ、小テストなんてあったんですね。知りませんでした。」
「お前は昨日授業中にいなかったからな。」
朝顔先生は半ば呆れたように菜名宮に視線を送る。
「…菜名宮はともかく、雛城には伝えてあったよな?」
「うん、まあ。聞いてる。」
雛城は視線を下に向ける。どこかその返事もぎこちないものだった。
「脅すようで悪いがこのテスト、割と成績に響くぞ?期末までの計3回、ここから評価する割合は高い。」
つまりそのテストを受けないと成績がやばい、と。
朝顔先生がこちらに向けるのは圧力か、あるいは心配か。微妙な感じの空気が屋上に流れる。
「そう…だよな、テスト受けないとやばいか。」
「まあな。0点と5点でもだいぶ大きな差があるぞ。」
朝顔先生の言葉に、雛城はどこか諦めたように視線を上に向ける。
「営業時間は学校の時間外、しかも化学のテストがある…」
小さく雛城は呟く。それは多分独り言なのだろう。視線を誰にも向けていないのなら、自分の頭の中で何か整理してるのかもしれない。
「仕方ないか。…どうやらケーキバイキングは諦めるしかないみたい。」
雛城が視線を戻しそう言った。どこか残念そうな表情で落胆している。
「仕方のないことだ。また今度、別のところに行くなどすればいい。」
朝顔先生は、半ば雛城を諭すようにそんなことを言った。
「雛城って成績とか気にしてんの?」
ふと疑問に思ったことを呟いた。雛城は普段からほとんど授業には出席していないし、菜名宮と同じで学校に遅刻したり、あるいは早退したりすると先刻、朝顔先生から聞いた。
そんな奴が成績のためにテストを受けようとすること、あるいはそもそもケーキバイキングを諦めようとすることが意外だった。
「気にして悪い?」
雛城がこちらを睨みつける。それは昨日見た俺を敵と捉えるような認識の視線で、さっきまでのお菓子を楽しみにしているようなふわふわとした雛城はどこに行っているかというくらいであった。
「いや別に、普通に気になっただけだ。」
「そう。」
目をつけられたらまずい。そう判断し、なるべく穏便に済ませるようにする。腹が減った獣を前にした時に、できる限りそろりと檻を出る飼育員の気持ちってこんな感じなのかな。
「雛城は普段の授業にこそ出ないが、割とテストの類なんかは真面目に受けているぞ?というか、この前の中間では教室にいたじゃないか。」
「あれ、そうでしたっけ。」
朝顔先生の言う通りならば、俺と雛城はおそらく教室であっていることになる。
おかしいな、全くもって面識がない。てっきり昨日屋上で会ったのが初めてだと思ってたんだけどな。
「…はあ、クラスに知らない人がいても全く記憶にないとは。相変わらずだな、篠末は。」
「相変わらずだね、タキ。」
朝顔先生と菜名宮が口を揃えて言いながら、こちらを向いてくる。何でこういう時だけ息がぴったりなんだよ。
いやまあ確かに雛城のこと全く知らないのは俺の原因だとしても、なんで朝顔先生と菜名宮の感想が全く同じなんだ。
「この学校は少々成績の付け方が特殊でな。普段は授業に出なくても、最悪テストを受けて最低限の点を取れば、成績は保証される。あまり推奨されない行為ではあるけれどな。」
「…そんなん初めて知りました。」
「だから普段学校にいることが少ない私でも、ちゃんと進級できたんだよ?」
「それ自慢できることじゃないだろ。」
自信満々って感じの雰囲気出してるけど、朝顔先生が推奨できないって言ってるじゃねえか。
「まあ菜名宮の言うとおりだ。雛城や菜名宮が授業に出ていないことを強く言う人がいないのも、最低限2人が成績を取っていると言う側面もあるな。教師陣がめんどくさがっているのもあるのだろうが。」
先生の言い方から察するにあまりいい行動ではないのだろう。まあ教師としては生徒が常習的に授業に来ないというのは、なかなか問題ではあるか。
「ていうかやっぱり芽衣奈ちゃん、根は真面目なんだね。」
「…どうしてそうなる?」
雛城が怪訝そうに菜名宮を見返した。その視線は昨日屋上で見たものと同じで、色がないように見える。やっぱり怖いこの人。
「だってわざわざ中間テストを受けているのも、成績のことを気にするのも、テストのためにケーキバイキングを諦めるのも、真面目じゃないとしないよね?」
いや…真面目じゃなくても流石にするだろとは思うが。ただ確かに、毎回授業をサボってる奴がする行動としては変ではある。
成績を気にしたりテストを受けようとしている様子なんかは、屋上で時間を潰しているやつがするにはいささか不自然だ。
そんな奴らは大体、成績のことなんて何も考えずに呑気に過ごしている場合が多い。例えば菜名宮とかな。
「私も授業をよくサボるけど、そんなことはあまり気にならないよ。テストは遅刻したせいで別室で受けたし、今日小テストがあることは知らなかった。」
「それはそれで極端すぎるだろ…」
まあ菜名宮の方が授業をサボっている生徒像には一致している。そもそも授業をサボっている生徒像って何なんだ。
「私が必ずしも正しいわけじゃないかもしれないけど、それにしても芽衣奈ちゃんの行動は不思議だよ。」
菜名宮は雛城に半歩距離を詰め寄る。
「…やっぱり気になってくるね。何で真面目な芽衣奈ちゃんが、こんなところでいつも過ごしているのか。芽衣奈ちゃんのことを知りたくなっちゃった。」
「もはやストーカーだろそれ。」
「…うん、決めた。やっぱりケーキバイキングに行こう。芽衣奈ちゃんの話がもっと聞きたい。」
菜名宮はそういうと頷き、くるりと反対の方を向いた。
「ということで先生、私たちスイーツ食べに行ってきます。」
菜名宮は飄々として、朝顔先生の方へと向いた。
「ちょっと待って、勝手に予定を決めないで。」
雛城が菜名宮を引き止める。さっきまで散々スイーツバイキング行くつもりだったのに、雛城が菜名宮を止める側に行くのは意外だった。
「芽衣奈ちゃんはスイーツ食べたくない?」
菜名宮は手元のチケットを雛城には見せびらかしている。
「うぬぬ…」
雛城はそれを見るとどこか苦悶の表情を浮かべる。どうやら完全にスイーツを諦められるわけではないようだった。どんだけ甘いもの好きなの?
朝顔先生の方はといえば相変わらず渋い顔をしている。
「だからなあ…さっきも言ったが、生徒の勝手な行動は私の立場では許すわけにはいかんのだよ。」
「そこをなんとかお願いします。」
「いや、無理だな。」
菜名宮と先生が向かい合っている。菜名宮は不自然な、貼り付けたような笑顔で、朝顔先生は真剣な顔で。
横から見てると古くからの因縁を持つ2人が決闘を迎えているような感じに見える。今日の朝、机の上に置かれていた果たし状の本当の送り主は、先生だったのかもしれない。これが巌流島の決闘ですか。
「…芽衣奈ちゃんを更生させてほしいとタキを通じて私に依頼したのは紛れもなく朝顔先生ですよね?」
菜名宮がふと朝顔先生から視線をずらして、どこか遠くの方を眺める。雛城のように詰まらなさそうに青い空を眺めるのでもなく、どこか情緒にふけているような表情を浮かべている。
「そうだな。私が篠末に伝えたよ。」
「私たちが今スイーツを食べに行くことで、先生の頼みを少しでも叶えられるとしたら、どうです?」
菜名宮は先ほどよりも小さな声で呟くように言った。近くにいた俺がギリギリ聞こえる程度の大きさだ。
だが、その声はおそらく雛城にも届いている。当人の前で言うのはいかほどのものかなんて思ったが、菜名宮はそんなことを気にする様子もない。
「…」
朝顔先生は沈黙した。腕を組み、考え込む姿勢を取っている。
数秒の沈黙の後、少し目に皺を寄せたまま朝顔先生が口を開いた。
「…もし本当に出来るのなら、願ってもないことなんだがな。しかし果たして可能なのか、結局そこがネックになる。」
朝顔先生は菜名宮の言葉にほんの少し気持ちが揺らいでいるようだった。
いや、菜名宮が今、先生を揺さぶっている。先生が菜名宮に依頼した、雛城を更生させるということを菜名宮は授業をサボることで解決できると提案しているのだ。
言い方を変えれば、先生の望みを叶える対価に授業をサボるのを黙認しろということである。あまりにもやり方が姑息すぎる。
「正直なところ、私が教師の立場でなければ例えばお前たちと同級生であるなら私は君たちを止めるつもりは全くない。私個人としては、菜名宮を後押ししたいんだ。だが私は君たちを指導をする立場だ。個人的な感情で君たちのその行動を見逃すことは許されないのだよ。」
登校した時に朝顔先生は言っていた。社会人というのは不自由である、と。朝顔先生は内心菜名宮の行動を黙認したいと言っている。
しかし自分の感情と教師という社会的な立場両方の観点から考えた際に、菜名宮の行動を許してはいけないという結論に至ったのだろう。
「朝顔先生ならそう言いますよね。先生は変なところでしっかりしてますから。」
菜名宮は再び朝顔先生の方へと立ち向かう。 その表情は先ほどの不自然な笑顔ではなく、真剣な表情だ。
「お前たちよりは一回り上であるからな。」
「…二回りくらい上なんじゃ?」
「なんか言ったか篠末。」
「何でもないです。」
つい思ったことが口に出てしまった。危ない危ない。やっぱり思ったことを全部に口に出してはいけないな。
「朝顔先生はさっき、言っていましたね。『私が先生の望みを叶えられるのかがネックである』と。」
「ああ、確かにそう言った。」
菜名宮はその言葉を確認すると不敵に笑った。先ほどまでの営業スマイルのようなものではなく、それはどこか本気のものだ。美しく、可愛く、しかしどこか恐ろしささえ感じる、菜名宮の本当の笑顔である。
「私にどうにか任せてほしいです。先生が許可さえ出してくれれば、必ず何とかして見せます。」
菜名宮は自信満々にそう告げた。菜名宮の言葉はどこか確信に満ちている。本当に出来るのか、と自身の心の中で生まれる不安感を隠すために虚勢を張っている不確定的なものではなく、自分は必ず成し遂げるという自信を超えた、いわば確信だ。
失敗するはずがないと思っているのではなく、失敗する方法がわからないとでも言いたげなようだ。菜名宮六乃は恐ろしいほどに堂々としている。
「…それでも、な。」
朝顔先生はなおも苦渋の決断を迫られたかのように鈍い顔をしている。まあそりゃそうだ。教師という立場として、個人の感情を持ち込む訳にはいかない。それは朝顔先生なりの教師としての矜持であり、守るべきであることなのであろう。
…だが、朝顔先生は確かにこうも言った。私が教師でなければ、と。先生は本心では俺たちを行くのを止めたくはないと。
俺たちを止めることに先生の気持ちに躊躇がなく、教師という立場が俺たちを留めているに過ぎないのだとしたら。もはや、迷う必要はなかった。
「まあ、菜名宮に任せればいいんじゃないですかね。」
「どういうことだ篠末。」
「俺だって授業サボるのはどうかと思いますよ?ただでさえ菜名宮と雛城、2人とも普段から授業に出ていない。しかも今日に至ってはテストがあるんでしょ?なら尚のこと授業をサボるのは悪手だ。」
「なら…」
「でもですね。少なくとも俺は菜名宮が自分の意思を曲げることは見たことがない。こいつは一度決めたことを絶対に守るタイプだ。」
菜名宮ほど自分の考えに基づいて動いている人物はなかなかいないのではないか。
ある意味、誰よりも筋が通っている。朝顔先生が再三説得しようが、ケーキバイキングに行くのを諦めなかったように。
「私が頑固とでも言いたいの?」
「そう言ってるんだよ。」
「…相変わらず、失礼な奴だね。」
菜名宮はそう言うが決して否定はしなかった。
「んでまあ頑固なのは菜名宮の悪いところではあるんですよ。でも俺は菜名宮が一度決めて行動したことで、失敗したのをほとんど見たことはない。もちろん必ず成功してるわけではないんですけど、それでも菜名宮は一度として自分の考えを曲げることなく、何とかしている。」
菜名宮のことを庇うなんてやはり俺はどうかしている。しかし、だ。俺は今まで菜名宮と過ごして知っているのだ。菜名宮六乃がどういう人間であるのかを。個人的な感情ではなくあくまでも事実として見ている過ぎない。
「だから今回も任せてみればいいんじゃないですか?菜名宮が仮に暴走したとしても俺がいます。最悪、俺と菜名宮で全部の責任負います。それで良くないですか?」
俺の言葉を聞いて朝顔先生はパン、パンと出席簿で自分の頭を軽く叩きながら考え込んでいる。
そうして十数秒、短いような長いような間を経て、朝顔先生は小さくため息をついた。
「…はあ、篠末。君がどうにかするというのなら構わん。好きにしろ、私は止めない。」
「先生!ありがとうございます!」
「…それってつまり、ケーキバイキング行ってもいいってことですか?」
「ああ、そういうことだ。」
「やったぁ!」
雛城が嬉しそうに手を握りしめる。よほど楽しみだったんだな。めちゃくちゃ喜んでるじゃねえか…
「よかったね、芽衣奈ちゃん。」
俺と朝顔先生が雛城に視線を向け、同時に菜名宮がそんなことを言うと、雛城は一気に顔を赤くする。
「…別にスイーツをめちゃくちゃ楽しみにしてたんじゃないから。」
雛城はどこかそっぽを向く。現代にいたんだなこんな奴。これってあれか、ツンデレとか言うやつなのか。2次元の世界だけのことかと思っていたわ。
菜名宮は雛城の様子を見てニヤニヤと笑っている。もうこいつ雛城に対して遠慮とか何もなくなってるな。やっぱりこいつ怖いわ、色々と。
「あ、でも今から行くとなるとテスト受けられないよね、夏目先生。」
雛城が菜名宮から逃げるように、朝顔先生に問う。
「そうだな。」
「…」
朝顔先生の言葉を聞いて、雛城の顔がほんの少し暗くなる。
「ケーキは楽しみだけど、テストを受けないと成績がまずい…」
成績の観点においてよほも懸念があるのか、雛城はほんの少し顔を顰めた。
菜名宮が雛城を真面目だなんて評したが、それは案外間違っていないらしい。今にもなってテストを思い出すとなると割と根っからの気質なんだろうな。
ならばなぜ、雛城は授業に出席してないんだろうか。そんな疑問がふと頭をよぎる。
「その件についてだが、テストを受けないのは流石にまずいだろう。」
朝顔先生は人差し指を立てる。
「そこで明日の放課後、再テストを実施することにする。必ずそのテストを受けること、それが今から遊びに行くための条件だ。構わないな?」
「ああ、補習ですか。」
「流石に何もしないのは他の生徒と不平等だからな。テストは必ず受けろ。菜名宮、お前もな。」
朝顔先生の体の周りから、なんかオーラみたいなものが出ていた。それは有無を言わせずテストを受けさせるという圧力を感じる。
「わかりました。」
菜名宮はしかし先生に臆することなく、堂々と先生に返した。
「でも、テストを後に受けると評価に影響しませんか?」
「それに関しては明日の放課後であれば、今日受けた者と同じ評価をすることにする。これで構わない
だろう。」
「…わかった。ありがとう夏目先生。」
その時、雛城が初めて笑った。昨日からずっと色がないように、つまらなさそうに世界を眺めていた雛城が初めて明るい表情をした。…いや、今日は割と見せてたか。
「篠末は元々呼び出しがあっただろう。それで構わないな?」
「そういやそんなことありましたね…わかりました。行きます。」
そういえば今日の朝に昨日の授業の件で呼び出されていた。つまり明日の放課後は補習と説教のダブルパンチか。普通に嫌だなあ。
「よろしい。」
朝顔先生は納得したように頷くと、また前を向く。
「いやぁ、これで心置きなくスイーツバイキング楽しみだね。芽衣奈ちゃん。」
「…だから楽しみではない。」
菜名宮が問いかけ、雛城が否定する。朝顔先生は雛城の様子を見てほんの少し笑う。先ほどまでずっと険しい様子を見ていた朝顔先生の表情が、初めて緩んだ。
「…教師って仕事も苦労が絶えないもんですね。」
「ああ、どこかのめんどくさい生徒たちのせいでな。」
朝顔先生はため息混じりに呟く。
「そのめんどくさい生徒ってもしかして、俺も含まれています?」
冗談混じりで朝顔先生へとそんなことを聞くと、朝顔先生は、また笑った。
「当たり前だ。」
時々肌にあたる風は、いつのまにか少しだけ暖かくなっていた。
誤字脱字等がありましたら、ご指摘いただけると幸いです。