ある不良生徒について-3
俺が教室に戻ってしばらくすると、授業の始まりを知らせるチャイムが鳴った。確か次の時間は化学だ。正直、結構苦手な授業である。
チャイムが鳴り終わって少し経っているが、先生はまだ来ない。授業が始まっていないのをいいことにクラスの奴らは周りの人間と話し始めている。ざわざわ、ざわざわとまるで某ギャンブル漫画のように、話し声はヒソヒソと大きくなっていく。
しかし教室が話し声に満ちたのも、ほんの一瞬であった。
ガラン、と教室のドアが開く音がした。その音と共に教室も俺も一気に静かになる。
いや、俺は元々静かだったな。
コツコツと甲高いヒールの音を立て、カーディガンのような上着を袖を通さず見に纏った先生が教卓の前に立った。
まるで獣のように獰猛な目を向け、眉を顰めて怒りを露わにしている。しかしその雰囲気さえ、まるで美しさの一部と感じさせるような顔立ちを持つ化学の教員、朝顔夏目は教室を見回している。
「諸君、授業が始まっているのに雑談というのはいただけないね。予鈴が鳴っているのを聞いていたなら、前回の予習や復習をしておくべきだろう。」
いの一番に朝顔先生はそう言った。教室全体の生徒を威圧するような、鋭い視線で生徒たちに視線を配る。
何かが体の中から突き刺さったような冷たさが背中に走った。周りの生徒も視線に気押されているのだろう。教室に妙な緊張感が流れている。
「今回は例外的に認めるが、次回もこのような状況だった場合少しペナルティを与えることも検討する。教科書78ページを開きなさい。」
先生は体を180度捻って黒板の方を向いた。体の動きに少し遅れて、身につけていたカーディガンがひらりと舞う。朝顔先生はチョークを取り出して、板書を始めた。
朝顔先生の視線が逸れたことに少し安堵したのか、辺りのクラスメイトも多少は落ち着いた様子で教科書を開き始めている。
…いや、なんで俺たちだけ悪いみたいになってるんですかね。なんかまるで雑談しているのがダメみたいな雰囲気じゃねえか。
まあ授業中に雑談するのはこの国では良くないことだけどさあ、朝顔先生も堂々と遅刻してるんだよなあ。しかも3分。結構長くね?
全く汗かいてないから走っても来てなさそう。しかも次回からはペナルティってなんだよ。
先生昨日もだいぶ遅れてたし遅刻は今年だけでもう5回くらいしてるんじゃないかな。なんだよ次はないって。その場合朝顔先生もうダメじゃん。
ていうかなんで遅れておいて堂々と教室に入ってくるんだ、せめて時間ギリギリなら急いでる雰囲気だけでも出してくれ。
なんで汗水ひとつ垂らしてないんだよ。教卓の前であんなに凛としているのってめだかちゃんと朝顔先生くらいだろ。それともあれか、日本でよくある重役出勤ってやつか?まあ確かに先生って結構歳言ってるよな。確かもうすぐ
「何かあるか篠末。」
「いえ、何も。」
教科書を手元に開き、今日の単元のページを黒板に書いていた朝顔先生は、急にその手を止めた。
さっきまで黒板の方に向いていたはずなのに、なぜか視線は俺の方に注がれている。一応、窓際の後ろの方の席なんだけどな。なんでこっち見るんだ。
「余計なことを考えていないだろうな?」
「いや、全然そんなことないですよ。」
「杞憂だったか…しかし、教科書を開けていないのはいただけないな。授業は集中して聞け。」
朝顔先生はまた黒板のほうへ立ち直る。コツコツと、黒板に文字を連ねる無機質な音がまた教室に響いた。
俺は授業前に出すだけ出しておいて、置きっぱなしにしていた教科書を手に取る。先生の方をこそっと伺いながら、先ほど指定されていたページを開いた。
先生ってもしかしてエスパーなのか?なんであんなに生徒がいて俺を直接指名してきたの?なんで余計なこと考えてるってわかったの?怖すぎるだろ。
今度から先生の前では変なこと考えない方が良さそうだな。
「であるから、炭酸ナトリウムの濃度は〜」
授業時間の半分が過ぎた頃、朝顔先生によって黒板に書いている計算式の解説がされていた。俺は話半分で耳に入れながら、時計をぼーっと眺めている。
ぶっちゃけかなり眠たい。別に退屈ってわけではないし、化学は苦手ではあるが嫌いな科目ではない。ただそれはそれ、これはこれだ。よほど集中していたり、あるいは好きな教科でもなければお昼上がりの授業ってだいたい眠くなってしまう。
なんなら5時間目が体育の時でも眠くなることあるからな。大体2人組作ってという流れになって、ペアが作れないため、1人でやってる風出しておいていつも見学している。端の方で目立たないように突っ立っていると、単純に眠たくなる。というか先生が授業の方に集中してるなら思いっきり寝てる。バレてなけりゃサボっても大丈夫だ。
しかし化学の授業では寝ることができない。なぜなら朝顔先生は寝てる生徒にはしっかり注意するタイプであり、いくら上手く隠しても寝てるとすぐ見つけてくるからだ。
この前なんかがチョーク飛んできたからな。某忍者アニメのなんとかかんたろうで土○先生がやってるやつ。アニメとかマンガとかでよく見るヒューンって投げてるやつ。
あんなの実際にやる人なんていないと思ってたんだけど、朝顔先生は実際にやる人だった。しかも最前席から窓際の後ろの席で爆睡していた俺にクリティカルヒット。なんであの距離で俺の頭に当てられるんだ。もうチョーク投げ選手権あれば先生が世界一でいいよっていうくらい正確だった。
とにかく化学の授業中に寝るのは物理的に不可能だし、先生が許してくれないので仕方なく目を覚ましているというわけだ。
「じゃあ、2番を誰かに答えてもらうか…そうだな。篠末。」
ぼーっと時計と睨めっこをしていると、教科書を手元に開いた朝顔先生に指名された。黒板に書いてある問題を解けということらしい。
「あ〜えっと、27ですかね?」
黒板に書かれている問題は、今日の授業でやった内容でありそんなに難しいものではない。
「正解だ。眠たそうにしていたが、ちゃんと授業は聞いているようだな。」
「ええ、まあ。」
俺は曖昧な返事で返す。眠そうなことすら見破られてたんだけど。もうなんだよあの先生。
「じゃあ次の3番を…菜名宮、答えてくれるか?」
俺はその単語を聞き、視線を右隣に向ける。
「…って、いないじゃないか。あいつどこに行ったんだ?」
後ろを軽く振り返れば、そこにいるはずの菜名宮の姿はどこにもない。昼前までは授業を受けていたはずだ。
あいつまたサボってるのか。さっき会議室を俺が後にした時、菜名宮はまだ残っていた。もしかすると今もまだあそこにいるのか?
朝顔先生は呆れたように小さくため息をつく。
「またあいつは欠席してるのか。仕方ない。じゃあ3番を…前の篠末、答えてくれ。」
「は?」
思わずそんな反応をしてしまった。なんでだよ。
「篠末、3番の答えは?」
朝顔先生は問題が書かれた黒板をトントンと叩く。有無を言わせず答えさせようとする圧力がすごい。
なんで?こういう時、近くの人当てるのはわかるけどなんでもう答えた奴にまた当てるんだ。せめて別の人当ててくれよ。
しかもその問題、多分だけど俺が聞いてなかったところだ。だって記憶がない。多分睡眠と一番格闘していた10分前くらいにやってたところだと思う。
「なんだ、わからないか?」
俺が黙っていると、朝顔先生がまた圧をかけてくる。今どきそんなパワハラ良くないと思うんですけど。
「…すみません、わからないです。」
「やっぱりちゃんと聞いてなかったな?授業には集中しておけ。」
「はい。」
俺の返事を聞くと、先生は振り返って問題の解説を始める。先ほどのやりとりを見ていたのか、あたりの生徒もノートを真剣に取りながら授業を受けている。
先ほどまで爆睡していた3つ隣の石田も、今は真面目に教科書を覗き込んでいた。なんで俺だけバレるんですかね。あと石田、教科書反対だ。今時そのボケは流石に流行らない。
そんな教室の様子を眺めてから、俺は視線を後ろに移した。世間一般で主人公席なんて言われるそこにはもちろん菜名宮の姿なんてなく、机の上も綺麗さっぱりしている。
ていうか何もない。いつも菜名宮が机の横にかけているハンドバックすらなかった。俺の席からは見えないが、多分机の中にも空っぽだ。
今日の午前中にはあったはずなんだけどなあ…菜名宮の奴、帰りやがった。おそらく昼前に荷物を全て回収して会議室3から直接撤退していったな。
相変わらず菜名宮という人間は恐ろしいほど自由である。授業はほとんど遅刻するし、そもそも結構休むし、学校に来たとしても早退する。
良い言い方をすれば自由だが、要はただのサボり魔だ。高校になってしばらく経つが、いまだに菜名宮のサボり癖が治ることはない。
そこにいない菜名宮の姿を思い浮かべ、俺は大きなため息を一つついた。
「篠末、少しいいか?」
なんとか地獄の5限を終え、次の授業の準備をしていると、朝顔先生が俺の席の元にやってきた。え?なんで?さっきの授業のこと?
「すみません、許してください。」
とりあえず謝った。先に謝っておいて反省の色があることを見せれば先生も強くは言えないと、そんな打算があった。というかそんな打算しかない。多分授業で寝かけたことだろうし。
「さっきの件ではない。まあそれはそれで問題だが、また別件だ。」
しかし返ってきたのは意外な返事であった。なんだ、授業で寝かけたことじゃないのか。
朝顔先生は呆れたようにため息をつく。にしても先生さっきの授業からため息ついてばっかだな。教師って仕事は大変らしいね。その原因が俺であるかもしれないという考えはどこかに投げ捨てておいた。
「じゃあなんですか?」
「ここでは話せないことだ。放課後、職員室に来てくれるか?」
「嫌と言ったらどうなりますか?」
「明日、お前は退学になっているだろうな。」
「わかりました…行きます。」
この先生はどんな権力持ってるんだよ。一教師が持っていい権限じゃないだろ。
正直めんどくさいと思いながらも、流石に退学にはなりたくないので、俺は渋々職員室に放課後向かうことにした。
俺は割と昔のドラマを見たりする。昭和世代に放送されている学園ものだったりすると、職員室では教員がタバコを当たり前のように吸っている光景が広がっている。
職員室は端っこの方が煙たい場所で、一部の生徒が職員室に行くのを嫌がる理由になっていることもある。でも実際、今の時代になると受動喫煙やらなんやらで、職員室でたばこを吸うような先生はほとんどいない。
そもそも業務中に吸うのが怠慢だとか、生徒への影響を考えてやらで、昔のドラマのようにタバコを職員室で吸うことが問題になっているのだ。まあ吸わない側からしたらタバコって迷惑だからな。
今現在、俺は職員室の端の方にある応接スペースのソファに座っている。先ほど朝顔先生から放課後に呼び出されたため、帰りたい欲を我慢してここに来ているのだ。
辺りを見回すと、部活や授業の準備をしている先生たちが忙しなく動いているのが見える。ガヤガヤとした話し声は聞こえないものの、書類をめくる音やコピー機が動く音なんかは、教室の喧騒にほんの少し似ている。
視線を前の方に戻せば、目の前のソファには誰も座っておらず外の景色が見える。数年ほど前には喫煙所だったらしいスペースで、朝顔先生は棒の飴を咥えながらスマホを眺めていた。
なんで人を呼び出しておいて自分はサボってるんだ流石に職員室内でサボってたらまずいと思ったのか
他の先生からは見えにくいところにいるが、そういう配慮ができるなら人を待たせない配慮をしてほしい。
ていうかあの手の動き方、多分スロット打ってるな。本当に何してんだよあの人。業務時間外だからセーフじゃねえよ周り働いてるだろ。
しばらくすると満足したのか、朝顔先生はポケットにスマホをしまうと、大きく背伸びをする。リラックスしているだけなのにも関わらず、
朝顔先生の姿はひどく様になっていた。さすが顔とスタイルだけはいい先生のことだ。まるで一枚の完成された絵のように、美しい姿と構図だ。
朝顔先生はしばらくすると満足したのか、外から職員室へと戻ってくる。カツカツと甲高いヒールの音を鳴らしながら俺の姿を確認すると、小さな袋をくしゃくしゃと胸ポケットにしまった。
「なんだ、もう来てたのか。」
「もうって15分くらい待ってましたけど。」
「そうなのか。全く存在感がなかったから来ていないかと思ったぞ。」
「先生が生徒に言っちゃいけない言葉でしょそれ。」
「他の奴に言うはずがないだろう。お前だけだよ。」
「そんな特別いらなさすぎる。」
「お前以外の生徒はしっかりと存在感があるからな。そもそもこんなこと言わないよ。」
「もっとひどくなってるんですけど。」
朝顔先生は俺の前に腰掛ける。肩にかけられたカーディガンがソファの背面の上に乗り、くしゃっとなるが、まるで気にしていないかのように朝顔先生は切り出した。
「さて、急に呼び出して悪かったな。」
「本当に突然すぎてびっくりしましたよ。」
「私からのサプライズは嬉しかったか?」
「いや全然です。突然来ていいのは気になってるあの子から急にかかってくる着信だけでいいですよ。」
「そんな着信、君に来たことあるのか?」
「ないですね。そもそもほとんど人と連絡交換してないですから。」
そもそも連絡先の交換なんてする必要がない。クラスの奴と連絡取る必要がないからな。通知がうるさくないのはメリット。デメリットは時折めちゃくちゃ虚しくなることだけど。
「まあ、だろうな。」
朝顔先生は俺を馬鹿にするようにフッと嘲笑した。
「もしかしなくても馬鹿にしてますよね?」
「馬鹿にしているたもりはない。篠末らしいと思っただけさ。」
「俺らしいってどういうことですか…」
「そのままの意味だよ。」
俺らしいという言葉の意味がわからず、朝顔先生に質問したが、帰ってきたのは返事になっていないものだった。これ以上聞いても無駄だと思い、話を追求するのをやめる。
朝顔先生は改めて俺に向き合うと、さて、と話を切り出した。
「今回呼び出した件だが…端的に言えば篠末、君の力を借りたいんだ。」
「それはまたいきなりですね…俺の手を借りるってどんな要件ですか?」
「まあいきなり結論だけ伝えても意味不明だな。順を追って説明しよう。」
ふう、と小さく朝顔先生は息を吐いた。かすかに柑橘系の甘い匂いが辺りに広がる。先ほど食べていた飴の匂いだろうか。
「うちのクラスにいる雛城って知ってるか?」
「そんな人いましたっけ。」
頭の中で雛城、という名前に心当たりがないか探してみるがそんな名前に覚えはない。というかクラスメイトの名前半分くらい記憶がない。石田はめちゃくちゃ寝る奴だから覚えてただけだ。
「相変わらずだな…と言いたいところだが、今回は仕方ない。篠末でなくとも、覚えていないのは割と不思議でないかもしれないな。」
「俺でなくともってどういうことですか。」
「雛城はな、2年になってほとんど教室に来ていないんだ。」
スルーですかそうですか。朝顔先生って段々俺への辺りが酷くなってる気がするんだよな。初めて会った時こんな感じじゃなかっただろ。
「たまに来てもほとんど授業を受けずに帰ってしまう。1年からそもそも素行の悪さが目立つ生徒ではあったが、2年になってからはひどくなっている。」
先生は頭に手を当て顔を顰めている。あまりにも苦しそうな顔から、先生が苦労しているのが容易に想像がつく。
「どうやら親御さんとも折り合いが悪いようでな。たまに家に帰るのが遅いこともあると伝えられたよ。」
「なんというか典型的な非行学生って感じですね。」
「言ってしまえばな。教師陣もその振る舞いを注意したり、何度か話し合いの機会を設けたんだが結局ほとんど効果がなかった。」
「なるほど…それで、なんで俺が呼ばれたんです?」
俺が最初から持っていた疑問を改めてぶつける。すると先生は案の定というか、俺が予想していた通りの回答を突き出してきた。
「簡単な話だ。雛城を更生させてほしい。」
「更生って…具体的に何をすればいいんですか。」
「普段の素行の改善であったり、授業のサボり癖をどうにかしてほしいんだ。」
「…いや、何で俺なんですか?」
「こんなことを頼めるのが篠末くらいしかいないからだよ。」
朝顔先生はさも当たり前のようにそう告げるが、それに対し思わず鼻で笑ってしまった。
「俺しかって言いますけど…今回の案件に関しては俺、むしろ向いてないような気がするですけどね。」
「ふむ?」
「だって一番近くにいる奴がまともに登校してないんですよ?」
そんな事を言いながら、頭の中に浮かぶのは菜名宮の姿だった。今朝遅刻しながら教室に入場し、そして昼頃相対した隣人のことを思い出すとそれだけで頭が痛くなる。
「ははっ、確かにな。」
「でしょう?それに生徒の更生なんて、俺には到底無理ですよ。なんせクラスメイトとまともに話すことすら堪らない。」
「自分で言ってて悲しくならないのか?」
「結構辛いですね。」
自信満々に言ったけど、実のところは悲しい。自分が人と話すのが得意ではないのは事実だが、それを自覚するのはなかなかきついのだ。
「だから、俺には無理ですよ。その雛鳥?とかいうやつの更生なんて。」
両手をあげて自分にはできないと先生にアピールする。非行学生を更生させるなんてアニメ的な展開も、現実でできる奴なんてほとんどいないのではないか。
少なくとも俺は確実に無理だ。俺はクラスの不登校児を学校に通うように説得する熱血教師ではないし、心に訴えかけるラノベの主人公でもない。ただ一人のありふれた高校生である。悪い素行が目立つ生徒の更生なんてできるようなタマじゃない。
「ふむ…困ったな。」
朝顔先生は顎に手を当て考え込むような仕草を取った。ほんの少し眉間に皺が寄っている。
一見すれば問題解決の頼みの綱がなくなり、次の手を考えているように見えるだろう。
しかし俺はそんな仕草を見て、思わず苦笑してしまった。なぜなら悩んでいるようなポーズを取っているように見えて、朝顔先生の口元が笑っていたからだ。
その表情を見た時点で、この後の展開が容易に想像できてしまう。決して心を読む能力なんてオカルトめいたものではなく、ただの経験則から来ている想像だ。
「ならば依頼の仕方を変えようか。」
朝顔先生はきらりと口元に星が出ているかのような、素晴らしい笑顔をしていた。
「同じ要件を菜名宮六乃に頼もう。篠末は菜名宮に掛け合ってくれるか。」
「でしょうね…」
「なんだ、不服か?」
「いえ、もう想像してた通りだったんで笑っちゃっただけです。」
おそらく朝顔先生は鼻から俺がこの件に対して首を縦に振ることを考えていなかっただろう。絶対に俺が拒否する事を想像していた。
朝顔先生が本当にこの件を依頼しようとしていたのは、おそらく菜名宮だ。あいつなら、こんな無茶でも引き受けてしまう。なぜならば菜名宮には可能だからだ。
俺は人の心を動かすような力もなければ、そんなやる気もない。正統派主人公のように、どんどんと周りを味方につけていくようなカリスマ性なんて持ち合わせていない。
しかしそれはあくまでも俺の話だ。後ろの席の菜名宮ならまた話は変わってくる。先生もそれを理解しているのだろう。
「まあ君はわかっていたのだろうな。実際、この件は菜名宮に依頼しようとしていた。」
「いっつも思いますが、朝顔先生の依頼の仕方っていちいち回りくどいですよね。」
「これしか手段がないからな。菜名宮はまず教師の呼び出しに応じない。話があると言っても職員室には来ない奴だからな。それに我々の話は基本的に耳に入れたがらない。」
「まあ菜名宮って自由人ですし。」
「よくわかっているじゃないか。あいつは教師の話を聞くことはないが、なぜか篠末の声には耳を傾ける。だから君にこの話をする必要があった。」
菜名宮はいつも自由気ままな奴だ。割と自分の都合でずっと過ごしている。自分の時間を捻じ曲げられるのが大嫌いで、教師の引き止めには応じない。
おそらく授業を休む時も、菜名宮は自分がやるべきと信じた事をやっているのだろう。そんな時、授業はあいつがするべき事の妨げになっている。だから菜名宮は授業を時々サボっているのだ。
「一度篠末に依頼をして断られた場合には、菜名宮に依頼してもらうように声をかける。こうでもしないとあいつは動かない。」
ふっと軽く朝顔先生は笑った。菜名宮という生徒の扱い方を心得ている。
「そうですよねえ、なんてめんどくさい。」
俺は両手を広げ口端を少しだけ歪ませた。
「というわけだ、篠末。菜名宮に話を通してくれるか。」
はあ、とため息が溢れ出る。もう俺がするべきことが決まってしまった。
「わかりましたよ。菜名宮に声をかけておきます。」
「協力感謝するよ。」
朝顔先生はさっきよりもわかりやすく、笑っていた。
同日夜、家に帰った俺は荷物を自室のベットの横にほっぽり出すと、ポケットからスマホを取り出す。普通ならスマホは学校の時間はカバンに入れておかなければならないのだが、俺はいつも制服の腰ポケットに常備している。それは、スマホがいい暇つぶしの道具だからだ。
辺りが雑談に耽っている中、授業中の休み時間は大抵寝てるかスマホ触ってるフリして過ごしている。大抵菜名宮は隣にいないことの方が多いし、クラスで他に喋るような奴もほとんどいない。だから休み時間の過ごし方は決まっているのだ。
腰を落としてベットにもたれかかると、通話アプリを開く。スクロールする意味がないほど少ない、友人の欄の一番上にある名前をタップし着信をかける。2コールする前に相手は電話を受け取った。
「どうしたの、タキ?」
電話の主、菜名宮は携帯越しでもわかるくらい透き通った綺麗な声をしていた。
「いきなり電話してすまんな。今家か?」
「うん、自室でゆっくりしてる。」
「いつ帰ったんだ?」
「お昼くらいかな。化学の授業でタキが寝かけていたくらいには家に着いてたよ。」
やっぱりこいつ昼の間に帰っていやがった。机に荷物なかったし、授業結局来なかったからまさかと思ったが案の定だ。
「なんで俺が化学の授業で寝かけてたの知ってるんだよ。」
「タキのしそうな行動なんてなんでもお見通しだけど?」
「怖すぎるだろ。」
朝顔先生といい、俺の周りにエスパー多すぎない?
それかもしかして監視でもされてる?だとしたら相当暇人だなそいつ。
「んで、どうして私に電話かけてきたのかな。人肌恋しくなった?」
「なんでそんな解釈になるんだ。」
「寂しいなら私はいつでもタキの元へ駆けつけるよ。」
「いや大丈夫です。」
「本当に大丈夫?私にできることない?」
「心配の仕方が確実に悪い男に捕まる人タイプの奴だな。」
なんかこんなキャラクター、昔妹が見てたアニメであったような気がする。深夜帯に放送してた奴だ。何気なく録画番組の一覧から見てみたらめっちゃ後悔したやつだ。
「私はいつでもタキの味方でいるからね。何かあったら言って。力になるよ。」
「今月金で困ってて…少し貸してくれない?」
「えっと…どのくらい?」
「5万くらい貸してほしいな。」
「…仕方ないよ。タキ、今月で3回目だけど、お金返せそう?」
「いや…少し厳しいかもしれない。」
「返せそうにないの?」
「俺は、ずっと夢を追って行ったいんだ。そのためにはどうしても必要なんだ」
「なら仕方ないね…タキの夢のためだもん。」
「お前絶対将来変な男に引っかかんなよ。」
こんなにも模範的な、ダメ男に尽くす女性のマネができるのが恐ろしい。
「今のは結局3年くらいして男の方から愛想尽かされて何もかも失う女性の真似。」
「似過ぎているし状況がリアルすぎて怖い。」
「はははっ、どうもありがとう。」
「変なところで変な力見せないでくれ。」
画面越しに、菜名宮がケラケラと笑っているのが聞こえた。
俺は伸ばしている足を動かして交差させる。同じ体制でずっと過ごしていたため、ちょっと足が痺れていた。
「それで結局要件は何?話逸れまくってるけど。」
「誰のせいだと思ってんだよ。」
「他でもない私だね。」
「よくお分かりのようで。」
どうやら自分から話を逸らした自覚はあったらしい。
「私賢いからね。」
「はいはい、そうだな。」
「少なくともタキよりは賢いのは本当だよ。この前の定期テストが証明している。」
「…この前のテスト何位だったんだ。」
俺は少し間を開けて聞く。
「2位〜」
電話越しから、少し笑いを含んだ声が聞こえる。勝ち誇っているしている菜名宮の鮮明な姿が浮かんだ。
「はあ…何で学校には来ないのにそんな点数取れるんだよ。」
「だから言ったじゃん、賢いって。少なくとも私より上にはタキの名前がなかったから私の勝ちだ。」
実際、菜名宮は俺に定期テストの点数で勝っていた。ちなみに俺は確か3桁前半くらいだった。半分よりは上だけど、別にすげえ〜ってなるわけでもないマジで微妙な順位。これでも一応前よりは上がってるんだけどな。
「というか、この前のテストそもそも受けてたのか。お前いなかったような気がするけど。」
「受けてたよ。5日間とも30分くらい遅刻したから別室でだけど。」
「なんで当たり前のように遅刻してんだよ。」
テスト期間中でさえ毎日遅刻できるのはもはや才能なんじゃないかな。というか菜名宮って遅刻してない日あるの?
「テストを受けただけでも褒められるべきじゃない?」
「だからお前は何様なんだ。」
「他の誰でもない菜名宮様だよ。」
菜名宮は自信満々に語る。だが実際、よく考えたら毎日遅刻してるのにテスト2位って結構高い。割と化け物じみた順位である。これは確かに菜名宮様だが、でもこいつのことは絶対様付けしたくない。
「じゃなくて!菜名宮に話があるんだよ。」
なんで菜名宮の成績の話になっていたんだ。さっきから全然関係ないことばっか話してる。
「話逸れまくってるから全然本筋に辿り着けない。」
「誰のせいだと思ってんだよ…本当に」
「他でもない私だね。」
「流石に本題に入ろうぜ。この流れさっきも見たぞ。」
「OK」
なんかこのままだとまた同じように話が逸れそうな気がした。ここら辺で軌道修正かけておかないとまずいと判断した。無限ループって怖くね?
「今日、朝顔先生に呼び出されたんだよ。職員室に連れ出されてさ…」
俺は、菜名宮に今日あったことを話しだす。画面の向こうの菜名宮はふんふんと頷いている。
「お前は雛城って奴のことは知ってるか?」
「知ってる。雛城芽衣奈ちゃんでしょ?同じクラスにいるよ。」
「知らんけど多分そうだな。」
菜名宮はやはり雛城のことを知っていた。一応同じクラスであるし、いくら授業にほとんど来ていないとしても菜名宮が知らないはずもない。
「知らないって…相変わらずだね。」
「興味ないからな。」
電話越しに菜名宮が笑う。ただ今度は先ほどのとは違い、どちらかといえば呆れているように聞こえる。
「1年の時から結構問題児で、授業にもめったに出ないから、先生に目をつけられている子だよ。最近じゃそれが当たり前になっちゃってるから、先生も声をかけることが少ないらしいし。」
「自己紹介か?」
「芽衣奈ちゃんのことだよ。私と芽衣奈ちゃんは全く違う人間だよ?」
「今の説明聞いてる限りだと、お前の特徴と完全に一致してるんだけど。」
「どこが?」
「全部だよ。」
「嘘だあ。」
さっき聞いた雛城の説明、完全に菜名宮の特徴と一致しているんだけど。遅刻魔だし、授業出ないし、先生に見逃されてる。こんなに完全一致してることそうそうないだろ。それともあれか、雛鳥とかいう奴は実は菜名宮だったりすんのか?
「んで、芽衣奈ちゃんがどうしたの?」
「ああ、その雛鳥とかいう奴についてなんだけどな。簡単に言えば、朝顔先生から更生させてほしいって俺に依頼が来たんだ。」
「ふーん。」
あえて、俺にの部分を強調させて言った。
本当は菜名宮に頼もうと思っていたと朝顔先生は言っていたが、ここで事実を言ってしまうと意味がない。こうでもしないと菜名宮のやる気を引き出せないことを知っている。
「でも、俺にはそんなこと無理ですって言ったんだよ。」
「そりゃそうだろうね。タキだし。」
いちいち菜名宮の相槌は腹立たしいものだ。でも事実なだけに何も言えないんだよな。少なくとも俺に朝顔先生の依頼を何とかできる未来は見えないし、そもそも雛城に会うことする無理かもしれない。
「…まあいいか。そんで、そしたら朝顔先生は同じ依頼を菜名宮に頼んで欲しいって伝えられたんだ。」
「そういうことね。とりあえず要件はわかった。」
様子を見る限り、菜名宮は事の次第を理解したようだ。また少しの沈黙をおいて、声が聞こえる。
「とりあえず、芽衣奈ちゃんの今の状況を改善しすればいいんだね。」
「だいたいそんな感じだと思う。俺も詳しいことはわかんねえけどな。」
「まあわかった。先生の願いを叶えようか。」
菜名宮の声には一切の躊躇がなかった。その返答は、やっぱり俺が予想していたものだ。
決して長い期間付き合いがあるというわけではないが、それでも菜名宮は、朝顔先生の依頼を受けないなんて選択肢にはないと思う。
「よくそんな即決できるよなあ。先生の依頼内容ってめちゃくちゃ抽象的じゃないか?具体的に何すればいいか決まってるもんじゃないのによ。」
更生、なんて言葉の定義はあまりにも曖昧なものだ。帰宅途中に調べた意味なんかでは、もとのよい状態にもどること。或いは役に立たなくなったものに手を加えて利用すること。という意味があるらしいが、あくまでも辞書的な意味である。
結局どうすれば『更生した』ことになるのか、明確になっていない。いわばゴールが全くわかっていない状況なのだ。
終着点が見えなければ、モチベーションは当然下がってしまう。何をするのが正解なのか、どこまで行けばタスクを完了したことになるのか。目標がわからなければ、自ずとやる気は無くなっていくものだ。
しかし菜名宮に関しては、この問題に興味津々である様に思える。
「だから朝顔先生は私にこの問題を回してきたんでしょ?何をすればいいか正解ってわからない事は、解決法は自由って事だよ。」
菜名宮の声は心なしか、ウキウキしているようだった。
「先生の立場じゃ、どうしても生徒にできることは限られている。朝顔先生だって思慮深い人だ。おそらく芽衣奈ちゃんを放置していたわけじゃないだろうし。ただ、どうしても教師という立場だと出来ることには限りがある。先生もあらゆる手を尽くして、それでもどうにもならなかったからこんな話を持ってきたんだろうね。」
「あの人が何もやってないとは流石に思えないしな。不登校…というより授業をサボり始めてからしばらく経ってるみたいだし。」
朝顔先生はああ見えて、生徒思いな先生だということは俺も知っている。
普通ならめんどくさいと思う俺や菜名宮に関わることにも全く躊躇がないし、他の生徒と分別することなんてほとんどない。授業に遅刻してくるし、課題は唐突に出すし、たまに俺の存在感を馬鹿にする。時々スマホでスロット打ってるし、性格は結構高圧的だ。最後の方だけ聞いてるとめちゃくちゃ悪い先生だな。本当にいい先生なのかあの人。
「だから私は私にしかできない方法を考えられる。どうやったら芽衣奈ちゃんのためになるのか。何をやるべきかわからない、じゃなくて何をやるべきかは決まっていないだけだよ。」
菜名宮の声には一切淀みがない。自分の考えに疑いの余地なんてまるでないとでもいいたげである。菜名宮のこういった発想は俺にはない。
先の見えない暗いトンネルをただひたすら歩き続けたとしよう。真っ暗で何も見えず、永遠に変わらない景色、そんな道を歩くことになったとすれば、俺はいつしかゴールは存在しないと思ってしまうだろう。
しかし菜名宮は同じ状況に陥っても、ゴールがあると、いつしか必ず洞窟の先に光があると信じて疑わないのだ。
進んでいけば必ずゴールがあると信じているというより、ゴールがあることを確信しているように、菜名宮は振る舞うことが多い。菜名宮の目には、暗闇の先のゴールが見えているのか、はたまた本当は何も見えていないのに見えているように振る舞っているだけなのか。
「決まっていないだけ、か。お前ならそう考えるか。」
「当たり前だよ。」
やはり菜名宮はどうしようもない奴なのだろう。思わず苦笑いをしてしまう。
「明日、早速芽衣奈ちゃんに会いに行こう。とにかく現状を知らなければ何も始まらないからね。」
「嫌だと言っても聞かないんだろうな。」
「もちろん。」
「はあ…我儘だ。」
「だって私だからね。」
電話越しに聞こえる菜名宮の声は、憎たらしいほどに明るかった。