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菜名宮六乃の革命日記  作者: 冬月 木
あるバトミントン部員について
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あるバトミントン部員について-5

その日はなんてことのない平穏な日常だった。いつも通りに授業を受け、菜名宮が遅刻したのにもかかわらず堂々と教室に入場し、お昼を会議室3で過ごした、数年後に今を振り返っても思い出さないような本当にいつも通りの1ページだ。


変わったことといえば、化学の授業で朝顔先生にを2本、クリティカルヒットで受けたくらいだろうか。いつもは投げられても一本だったのに今日は倍だった。これ教育委員会に訴えれば多分勝てるよな。


でもまあ、授業中に爆睡していた俺にも責任があるので教育委員会に駆け込むのは一旦やめておくか。


ホームルームが終わり、俺は教室を颯爽と出た。いわゆる主人公席と言われるような教室の一番後ろ、窓際の席の隣から授業終了を知らせるチャイムが鳴った瞬間に音を立てずに教室を後にする。


1年以上もこんなことを続けているうちに、気づけばほとんど音を出さずに教室を出るスキルを身につけていた。


いつもは廊下の突き当たりを左に曲がり、階段を降りて速攻下駄箱に向かう。部活もなければ放課後に駄弁るような奴もいない俺は、授業が終われば学校に用はなくなるからだ。


ただ今日は突き当たりを右に曲がった。いつも昼を過ごしている、もう何年も前からほとんど使われていないような埃くさい教室に向かうために、文化棟へと足を踏み入れる。


廊下や階段にはまだ人影がない。おそらく放課後になって速攻足を踏み入れたために、まだ文化部が活動を開始していないからだ。お昼休みのような、特有の静けさがある廊下を横目に階段を駆け上る。


会議室3のドアを開ければ、当然そこに人の姿はない。菜名宮は途中から学校に来ていたが、一応最後まで授業を受けていた。


本人曰く「流石に朝顔先生の授業をずっと受けないのは可哀想だからたまには」らしい。何がたまにはだよ。可哀想って思うなら毎回ちゃんと授業受けろ。そもそも受けてやってるみたいなスタンスなのがおかしいし、あいつは学生としての責務を全うする気がないのだろうか。


菜名宮は多分まだ教室に残っている。先ほど教室を立ち去る時に、クラスのカーストが高そうな女子のグループのところに行くのが横目に見えたからだ。ほんとあいつのコミュ力どうなってるんだ。


俺なんてあんなところに放り込まれたら「あ、えっと。すんませんでした。」とか言って逃げ出す自信あるぞ。多分女子たちから「なんだこいつ」って思われて卒業まで妖怪みたいに扱われる。高校3年間どころかしばらくはそんな扱いを受けるだろう。


…実際、中学2年の時にはクラスの全女子から絶妙に距離を取られるという関係性を築き上げたこともある。本当にあの時だけは学校行くのが辛かった。


それも今ではいい思い出だが。…いや、良くはなかった。できれば忘れたいという欲がある、苦い思い出だ。


今にも壊れてしまいそうな古びたドアのガララという音が後ろから聞こえた。荷物をの適当にほっぽり出し、いつも座っている席に腰掛ける。


ポケットに入れているスマホを見れば、菜名宮との通話記録が示された画面が表示されていた。通話終了時間は10:30を示している。およそ1時間程度の通話は、昨日の夜行われたものだ。


ぼんやりとした眠気をずっと帯びていた昨日の夜のことはあまり覚えていない。通話を切ってすぐ寝落ちしたくらいだから、多分相当疲れていたんだろう。


まあ昨日は遅くまで学校にいたからな。普段よりも数時間遅い帰宅に、体は悲鳴を訴えていたはずだ。


電話の内容も俺にとってはたいした物じゃない。通話記録の上には菜名宮とやりとりしたメッセージが続いている。


スマホを机の上に置いて、俺は立ち上がった。窓の外を見ればいつもと変わらず運動部が活動している。


かーんかーんと甲高い音を鳴らすのは多分野球部のバットだろう。ぱしゅっとネットを擦る音は、サッカー部かハンド部がボールをネットに入れる音だろうか。


その景色はいつも通りの日常で何も変わり映えがしない、平穏な日と言える。こんなのを観れるのなら、放課後すぐに帰らないのも悪くないのかもしれない。


…いや、毎日見てたら多分飽きるな。やっぱこういうのはたまにでいいや。放課後はとっとと家に帰って適当に休む、やっぱりそれが一番だ。


再び元の席に戻って、今度は天井を見上げてみた。そこには規則正しく並べられたタイル一枚一枚に、よくわからない黒いシミが散りばめられている。会議3は4階にあるため、この上に教室はない。あるのはほとんど人が立ち寄らない屋上だけだ。


屋上といえば雛城を思い出す。あいつは最近になるまで、ずっと屋上で時間を潰すことが多かったという。母親に逆らいたくて、しかし根が真面目であったがために、学校に行かないなんて選択肢を取れなかった、ある種中途半端な反抗期とも言える雛城が取っていた不真面目な行動だった。


今はもう屋上に足を踏み入れる人なんていないだろう。前提として屋上には鍵がかけられている。実際はその南京錠は壊れているが、それを知っている人は少ないだろう。


もしかしたら教師の中では共通認識なのかもしれないが、だからと言ってわざわざ立ち入り禁止区域に入る人なんていない。


そんなことするのはそれこそ菜名宮くらいだ。菜名宮は理由さえあればどんなところへも足を踏み入れる。


茨の道があれば周りの草木を掻き分けるどころか根本から伐採していくだろうし、目の前に高い壁があれば乗り越えるのではなく壊してまっすぐ進めるにする。菜名宮の前ではどんな障害物さえ無力であるとは、身をもって体験したことだ。


会議室3は相変わらず静かだ。唯一うるさくなる原因の菜名宮も今はここにはいない。暖かい教室、静かな空間、意識がだんだんと虚になる感覚を覚える。


その感覚に身を任せるようにして、瞼がだんだんと重くなってくる。その時、ピリリと普段なら鳴るはずもない携帯が音を立てた。


それはアラームでもなければ、フォロワーのいないSNSの通知でもない。このスマホに電話がかかってきたことを知らせる合図だ。


顔を顰めながら、俺は机の上にほっぽり出していたスマホを手に取った。




辺りは暗くなっていた。夕日はとっくに西の方へと姿を消し、今見える景色のほとんどが、紺色と黒を混ぜたような色で埋め尽くされている。


風がヒュオオという音を立てて吹き付ける。最近は夏が近づいて暖かいと感じることが増えていたが、今日だけは例外的だ。頬や腕に吹き付ける風はほんのりと冷たい。


決して寒くはないが、それでも暖かさに慣れていた俺の体にその風はまるで毒のように少しずつ侵食していく。


決してこの毒で体が不調を訴えることも、ましてや死んでしまうことなんてあり得ない。


ただ自分の体を 少しずつ蝕んでいく感覚、それは得もいえない感情を少しずつ呼び寄せる。理由はわからないが、少しだけ暗い色の感情が心を埋めていた。


「流石に風強いねえ。」


目の前にいる菜名宮は両手を抱えて体を丸め込んでいる。もう夏が近づいているが、今日の風は珍しく肌に刺さる。


体を動かせばこの風もきっと心地よいものになるのだと思うが、ずっと動かずに座っているのはなかなか辛い。


菜名宮に呼び出されて会議室3を出たのは、昨日も聞いた放課後のチャイムが鳴るくらいの頃だった。一人でゆっくりと眠りに落ちていた時にバーンという、まるで爆発音みたいな音で菜名宮はドアを開いた。


マジであの時は本当にビビった。地震かテロが近くで起こったんじゃないかって錯覚するレベルだった。本当に心臓に悪いからああいうのやめてほしい。


その時はまだ空に明るさはわずかながら残っているが、今の空の状況を見ればそれだけ時間が経っているってことだ。


思わずあくびが出てきた。いつもなら家にいるはずの時間帯なのに、昨日に続いて今日もずっと学校にいたからだ。


文化祭準備の時ですらもう少し早く帰ってたはずなのに、なんで俺は今こんなとこにいるんだろうという考えが定期的に脳裏をよぎっている。


「なあ…これ本当に意味あんの?」


「どういうこと?」


「もしかしたら無駄足になるかもしれないだろってこと。」


菜名宮はずっと一つの方向を向いている。そんなことを聞けば、視線を動かさないまま菜名宮は明るく答える。


「大丈夫だよ。絶対にそんなことはない。」


「…それならいいけどよ。」


ただでさえ暗い状況下で、しかもこっちを向いていないと慣れば菜名宮の表情なんて見えるはずがない。それなのに菜名宮の声色とその言葉だけでこいつがどんな表情をしているかがわかった。


おそらく菜名宮は笑っている。自信満々で怖いもの知らず、余裕感たっぷりの表情を浮かべているだろう。


こいつが自信を持って話すことは大抵正しい。もちろんおふざけで嘘を口走ることはあるが、菜名宮がふざけないような状況で、自信満々に述べた言葉が嘘だったのはただの一度もないのではないだろうか。


まるで菜名宮の話したことが真実になっているかとすら思える。正しさは初めから存在するのではなく人によって作られるものである。だとしたら菜名宮は間違いなく正しさを作る側の人間だ。


しばらく沈黙が続いた。俺は話すことは何もないからだ。菜名宮にはあったのかもしれないが、それでも俺に言葉をかけてくることはない。出来るだけ物音を立てたくないからだろうと容易に予想できた。


ひゅー、と風が音を立てて吹いた。それはずっと同じ姿勢で動いていないままの俺には肌寒く感じる。

目の前にいる菜名宮が、ほんの少しだけ震えた。


こいつでも寒さを感じることなんてあるんだなとよく考えれば当たり前のことが思い浮かぶ。


いつも菜名宮は完璧な姿を見せる。まるで欠点なんてないかのように、弱っているところをほとんど見せない。故に、暑いとか寒いとか、そんな感情を持ちえるのが違和感に感じるほど、菜名宮は普通ではないのだ。


スマホを見れば草むらに座って30分が経過していた。もうすっかり辺りは暗くなり、目の前にいるはずの菜名宮の影すらほとんど見えなくなっている。


ふと目の前に座っていた菜名宮が腰を上げて、前を見据えたまま人差し指を口元に当てた。もう片方の手で俺のことを静止するように手を広げる。


「…来たかも。」


「…まじかよ。本当か?」


「少しだけ待ってて。」


菜名宮はこちらを手で制止したまま、一歩、また一歩と部室棟の方へと歩み寄る。足元は乾いた土からだろうか、その足音は一切聞こえることがない。


本当に部室棟に現れたなんていう驚きと、自分の思考が当たっているのかという戸惑いと、こんなことをして良かったのかなんていう罪悪感、様々な感情が頭の中で巡る。


その思考が一つにまとまることはなく、短い時間の中でずっと思考がぐるぐると渦巻いていた。


「もう大丈夫。ついてきて。」


数歩前に進んでいた菜名宮が、そこそこ大きな声でこちらを呼びかける。俺は立ち上がって菜名宮の方へと歩み寄った。


草むらを抜けて部室棟の前に行くと、そこには人影は見えない。無機質でボロいコンクリートの建物がポツンと立っているだけだった。


「…じゃあ、行くよ。」


菜名宮はそういうとこちらに手を差し伸べる。


「いや、手繋がないけど。」


「はあ…タキは風情がわかってないね。」


「風情ってなんだよ。」


「ホラースポットで男女が二人、おどろおどろな雰囲気が怖くなったところに、震える手をそっと包み込む温もりのある人肌が…なんて王道展開でしょ。」


「勝手に部室棟をホラースポットにすんな。後それだと俺と菜名宮の立場が逆だ。ホラースポットでビビる女の子に男が手を差し伸べるのが王道展開だろ。」


「別に立場が逆でもいいじゃん。いつも私がタキを引っ張ってるんだし。」


「引っ張ってるんじゃなくて引きずられてるんだよ。」


「そんなことないでしょ。それに女の子はいつも王子様に引っ張られるのを待っているものだよ。」


「お前以外の女子はそうかもしれないが、お前は別だろ。」


「私はシンデレラに憧れてるんだけどなあ…」


相変わらず掴み所の見えない奴だ。先ほどまで浮かべていた、深刻そうに何かを考えるような表情はとっくに消えている。


先ほどまでの重苦しい雰囲気をまるでどっかに吹き飛ばしたかのように、いつも通りの菜名宮がそこにはいた。こんな状況で逆に明るく振る舞うのは菜名宮らしいと言えばそうである。俺もいつも通り菜名宮に呆れていた。


「どうやらタキにとって、私はシンデレラにならないらしいね。」


「お前はむしろシンデレラの姉だろ。」


「姉、悪戯好きの姉か。それも悪くないかも。」


菜名宮はどこか納得したようにうんうんと頷く。


「じゃあ、引きずられてきて。」


「ちょっとまっ」


菜名宮は別に差し出した訳でもない俺の手を取ると、半ば強引に引き寄せた。その勢いに体を引っ張られて菜名宮の方へと引き寄せられる。


「はあ…またかよ。」


菜名宮は俺の手を持ったまま走り出す。ここで取られた手を振り払うのもなんだか馬鹿らしくて、半分引っ張られるまま俺は菜名宮の後を追って行った。




部室棟の横にあるその建物は不気味な雰囲気を醸し出していた。その光景は特段異質という訳ではない。


すっかり暗くなった学校で、ずっと前に使われなくなった建物なのだ。もしかしたら肝試しなんかに使う生徒なんかもいるかもしれない。良くも悪くもありふれた、夜になると無人になる建物が出す雰囲気がそこにもまたあった。


部室棟横のプレハブ…現在、バトミントン部が仮に使っている部室がある建物に菜名宮と俺は近づく。


ガシャンという小さな物音が経ったのは、菜名宮がプレハブに建てかかっている少しボロいドアを手にかけた時だった。


菜名宮はその音を聞いて、ドアに手をかけたまま硬直していた。


…またほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべていたように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。


先ほどの馬鹿みたいなやりとりは空元気のような、あるいは自分を誤魔化すためにわざと明るく振る舞ったのだろうと容易に想像ができる。


しかし数秒して菜名宮は、何か覚悟を決めたような表情を浮かべた。プレハブ小屋についていた今にも消えてしまいそうな豆電球が、菜名宮をまるでスポットライトのように照らす。


「…行こうか。」


「ああ。」


菜名宮は小さく、風に消えてしまいそうなくらいの声でそう呟いた。俺に向けて言ったのか、あるいは自分自身の意思を固めるためにそう呟いたのかもしれない。ただほんの少しだけ寂しそうな背中をこちらに向けて、プレハブのドアを開く。


「…間違ってなかったか。」


プレハブに入った瞬間、真っ先にそんな言葉が思わず口から出た。自分の推測が、自分の想像が、実際に現実で起こっていたことだと分かった時、俺が真っ先に感じたのは一種の罪悪感だった。


「…なんで。」


プレハブの奥からそんな呟きが聞こえる。手に持っていたスマホのライトを声がした方へと向けた。


そこにいたのは片方の手に小さな鋏を持った、俺にとっての善人、佐川雫の姿だった。


「なんでこんなところにいるの。」


入ってすぐ右隣にあるスイッチを押すと、そこまで大きくない建物全体が明るく照らされている。


バトミントン部の部室として仮に利用されているプレハブは、外から見た時と同じように中もまた無機質な雰囲気を醸し出していた。


中の壁沿いに置かれたロッカーの中には、その半分くらいに鞄やラケットなんかが無造作に置かれている。部屋の中は他の部室のように飾られた雰囲気は全くない。


目の前にはそんなに寒くないはずのプレハブの中で、震えている佐川が立ち尽くしていた。


「…」


そんな佐川の問いかけに俺も菜名宮も口を開くことはなかった。


菜名宮は佐川の質問がまるで聞こえなかたかのように、眉ひとつ変えず佐川を見据えている。


「それは私の言葉だよ。なんでこんな夜遅くに部室にいるの。」


どの程度沈黙が流れたのだろうか。辺りを渦巻く沈黙が空間を覆い被さろうとした時、その静寂を破ったのは菜名宮のそんな一言だった。佐川はどこか唾が悪そうに表情を歪ませる。


「…部室に忘れ物を取りに来たんだよ。」


そしてこの前教室で俺に向けていた時と同じような、明るい笑顔を向けた。


その言葉が本心でないことは俺でもわかる。あの時の笑顔が偽物か、本物かなんてのはわからないが、今佐川が浮かべている笑顔はただ表情を貼り付けただけのものだ。


「忘れ物を取りに来たのに、部室の電気をつけないの?」


「先生にバレるとめんどくさいと思ったんだよね。だからこっそりここに来たんだ。」


「忘れ物をしたのなら、先生に素直に言えば良かったんじゃない?」


「先生も忙しいだろうから、あまり迷惑をかけたくなかったんだよ。」


菜名宮は佐川から一時も目を離すことはなく、あまりにもトーンの変わりようがない声色で言葉を向けている。


「じゃあ、なんで佳苗の鞄が床に転がってるの。」


菜名宮と佐川の間の無機質な部室の床、正確に言えば佐川の足元に一つの鞄が転がっていた。よく教室で運動部が持っているのを見かけるスポーツバックだ。


詳しいブランドの人気や扱いやすさなんかは知らないため確定はできないが、クラスでそのバックを持っている人が多いため、おそらく運動部に人気のありふれたものなのだろう。


「…」


菜名宮のその質問は決定的なものだった。佐川は何も言えずただその場に立ち尽くす。


「ここで何をしようとしていたか、なんて聞いても雫はきっと答えてくれないよね。多分言いたくないと思う。」


「…」


「一つだけ聞きたいんだ。この前の部室荒らしも雫がやったの?」


菜名宮のそんな言葉に佐川はビクッと体を震わせた。


…その反応から答えはもうわかりきったようなものだ。


「雫なんだね。」


ダンッ、と強く何かを打ち付けるような音がした。奥の方にあるボロボロになった窓がガタガタと揺れている。外では風が強く吹きつけているのだろう。風の強さを建物の中から感じられるほど、このプレハブは古いものらしい。


「…なんでわかったの?結構上手く誤魔化したつもりなんだけどなあ。」


「誤魔化した、か。確かに私はすっかり騙されていたよ。実際、私が推理した訳じゃないからね。」


「え?」


佐川は呆気に取られたかのようにこちらを振り向く。その目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。


菜名宮は俺の方を指差す。佐川の視線も釣られてこちら側へと移った。




話は昨日の放課後、部室棟を訪れる時までさかのぼる。菜名宮と俺が一種の賭けをしていた時だ。


「タキがずっと考えてるのは、犯人の動機でしょ。それも犯行を起こした動機じゃなくて、佳苗のラケットを壊した動機じゃない?」


「…」


「昼休みはラケットが壊されたのと事件の犯人について関連性はないって言ってたけど、あれ嘘だよね?多少なりとも繋がりがあると思ってるんでしょ。」


「ああ、御名答だ。よくわかったな。」


「やっぱりだ。タキの考えてることなんてお見通しだよ。」


「マジでテレパスかよお前…」


この間も考えてること読まれたし。というか菜名宮に限らず最近では朝顔先生にも心の中読まれてるような気がするんだよな。これって気のせい?


「本当に犯人はバトミントン部に恨みを持った奴か、あるいは快楽犯かって気になったんだ。部室を荒らすのが目的ならラケットを壊すなんて手間がかかりすぎるんだよ。」


「まあ、普通は鋏や鋸なんかの道具を使わなきゃ破れないだろうからね。」


「犯人が手間とか考えてなかった可能性もあるが、それなら全員のラケットが壊されてなきゃ変だ。大橋のだけを壊すなんて行動に一貫性がなさすぎる。」


「私もそこは違和感あると思ってるんだけど、その理由まではわかんないんだよね。その感じ、タキは多分わかってそうだけど。」


「推測だけどな。何故犯人が大橋のラケットだけを壊したのか、一つだけ思い当たる節がある。」


菜名宮は俺のことをじっと見据える。


「初めからバドミントン部全体を標的になんかしていなかった。」


「…」


菜名宮は眉をほんの少し見据えて、視線を下に向けた。


「ああ、なるほど。…最初からターゲットは絞られていたのか。」


しかしそれも一瞬で、すぐにまたこちらの方を向き直した。相変わらずこいつは頭がよくキレる。


「その通りだ。犯人は部員全員ではなくて、その中の数人、…もしくは一人。とにかく少人数の相手に危害を加えるために犯行を行なったんじゃないかってな。」


大橋の話では自分以外のラケットに傷がついていたことは特になかったらしい。


つまり、大橋佳苗のラケットだけが壊されていた。

大橋のものだけが、あるいはバトミントン部員の特定の私物だけが明確に悪意を持って壊されていたの

だ。


「それに大橋と他の部員じゃ荒らされた度合いが違う。多分、本気で全員の荷物をボロボロにしようとしたわけじゃないんだろうな。」


「仮にバトミントン部の全員を標的にしてなかったとしたら、なんで部室は荒らされていたんだろうね。」


菜名宮は俺の推測を聞くと真っ先に思いつくであろう疑問を投げかけてくる。


それはあまりにも想定していた通りであり、菜名宮は答えを分かっていながら意図的にこの質問を投げてきたのではないかと思うほどだ。


「そんなの簡単だ。カモフラージュだよ。」


菜名宮疑問に対する答えであり、今回の事件の一つの鍵。それは至極単純にして、ミステリーでも度々用いられるトリックのカモフラージュだ。


今回の部室荒らしという事件の本質はそこにある可能性が高い。


「部室を荒らせば、標的がバトミントン部員全員であるように見える。もし犯人が内部の人間だと推測されたとしても、バトミントン部全体に恨みを持つ人間なんて曖昧な範囲でしか絞れないだろうし、そもそも先生たちが決定づけたように外部犯である可能性も浮上してくる。」


もし犯人の標的がバトミントン部員でなかったとしたら…明確に大橋や特定のバトミントン部員を狙っていたのなら、今回の事件は全く違った視点から見ることができる。


本人のロッカーだけを荒らしたり、物を壊したとすれば被害者の人間関係からある程度犯人が特定される可能性が高まる。


大橋のことや特定のバトミントン部員のことだけを恨んでいた人間を洗い出せば、犯人が見つかる可能性もそう低くはないだろう。


「部室をわざわざ荒らしたのは、ラケットやシューズが壊されていたのに違和感を持たせないため?」


「多分な。部屋全体が荒らされたとしたらラケットやシューズが壊されていたとしても、違和感が生まれにくい。


「まあ警察の本格的な捜査でもなければ、犯人の特定はそう簡単にできないだろうし…あの状況だけ見たら外部犯って普通は思いそうだね。現に今、学校はそう結論つけてるだろうし。」


「犯人にとっちゃ、部室を荒らしバトミントン部員全体の荷物をぶちまけるのは、候補を広げて自分が疑われることを避けられる合理的な一手だったんだ。」


「雫とか他の子がラケット壊されてないのは…元々狙うつもりがなかったからか。」


菜名宮は顔に手を当てて、いつも通り何かを考えるような仕草を取る。あいも変わらず最も探偵に向いていない性格なのに、見た目だけは探偵らしいのがうざったい。


「それじゃあ、犯人って外部の人じゃないよね。」


「少なくとも全く無関係な人間の可能性はほとんどないな。この事件は、大橋に対しての嫌がらせという明確な意図をもって行われたんだ。」


「つまり内部犯…いや、佳苗の知り合い?」


「少なくともバトミントン部と関係のある人間…もっと言うなら、大橋や他の部員と関係が深い奴だろうな。」


この事件の動機はおそらくずっと単純だ。大橋や特定の人間に対する嫌がらせ、おそらくこれ以上もこれ以下も理由なんて存在しない。その他の人間と付け足しているのは、大橋のほかにラケットが壊されている生徒がいるかもしれないために一応考慮の範疇に入れているだけだ。


「犯人は思っているよりもずっと単純で、幼稚な理由で今回の件を引き起こしたんだろうな。その理由まではわからないが、やってること自体は子供のいたずらと何ら変わりない。」


おそらく大橋に嫉妬する人間がこの事件を引き起こしたのだろう。他者に対する羨望、嫉妬によってその相手を傷つけようとしたり困らせようとするのはありふれた人間の行動原理の一つだ。


今回も大橋をよく思わない誰かが、危害を加えようとしてラケットを壊すなんて手段にうって出た。試合前に道具を壊しておけば、試合に出る時に困るだろうなんて考えでこの事件は引き起こされたわけである。


「ラケットを壊せば試合に出るのは難しくなるし、スパイクなんかも一緒だろ。梨乃亜先輩によれば事件が起きたのは大会直前だったらしいしな。」


「部室荒らしなんて最初から嘘っぱちだったわけか。先入観が仇になったね。」


「部室荒らしなんて言われているが、結局それは本当の動機を隠すための手段にしか過ぎなかった訳だ。先生たちもそのカモフラージュには気づかなかったし、全てが犯人の計算通りうまくいっていた。」


犯人は見事に教師全員を欺くことに成功した。外部犯なんて言うあまりにも曖昧で範囲が広すぎる犯人像を作ることに成功し、部室荒らしは迷宮入りに向かっていっていた。


「ただ犯人にとって一つ誤算があった。大橋が外部犯じゃないかも、なんて考えだしたことだ。」


「ん?それが犯人にとっての誤算?繋がりが見えないんだけど。」


「…最初は、小さな誤算だったんだろう。『金品が盗まれていない』ことが怪しまれるなんて、そもそも犯人は考慮に入れていなかった。そんな小さな見落としが、犯人にとってはあまりにも痛いものだった。」


完璧に見えたトリックに一つのほつれがあり、小さな穴が空いた。そこに手を触れた結果、穴はどんどんと多くなりいつしか取り返しのつかないになっていった。


「そんな些細な、一見全く関係のないようなことから外部以外の犯人像、まあ内部犯だな。それが大橋やその間から浮かび上がった。そしてその話がお前に持ち込まれた訳だ。」


「犯人は何でその小さな誤算に気づけなかったのかな。」


「犯人は被害者じゃないからな。実際に部室を荒らされた人間じゃなければ、金品が盗まれていないなんてことには目を向けないだろ。」


「それでも、偽装工作くらいは思いつきそうな気もするけど…金目のものを盗んだらカモフラージュってことにも気が付かれにくくなる、くらいはパッと出てくるんじゃない?」


「これが計画的なもの、あるいは手慣れによるものだったらな。しかし今回は犯人がその可能性を考慮しなかった。つまり犯人は不慣れな奴か、あるいは衝動的な犯行だったかのどっちかだろうな。」


「なるほど。思いつき、ついカッとなってやった…ってやつか。そんな見落としをしてたのも、内部犯っぽいね。」


ラケットが不自然に一本折られていたことも、カモフラージュを簡単に見破られたのも含め、犯人がどこか詰めが甘い。おそらく計画的な犯行ならば、俺もこんな結論には辿り着けなかったはずだ。


「…でもまあ、これも状況的な証拠しかないただの推理なんだよな。」


ただ結局、これなのだ。いくら伝聞情報でそれらしい推理を披露したとしても、実際の動機は間違っている可能性すらもある。どれだけ理論的に物事を解釈しても、それは机上の推論に過ぎない。


「そもそもの話として、犯人の持つ動機がタキの考えたものではない可能性があるってこと?」


「そりゃそうだろ。この推理を裏付ける明確な根拠もないし、ただの男子高校生の行き過ぎた妄想の可能性だって十分ある。」


実際、この推理が合っているのかなんて半信半疑であった。なんせ俺は大橋に恨みを持っている人間がいるかどうかなんて知りもしないのだ。


というかそもそもバトミントン部の人間を誰も知らないし、この動機がそもそも間違っているなんて可能性もある。


「それに正直、俺としてはこの推理は間違っていて欲しい気持ちがある。」


「…」


「自分の身近なところに犯人がいるなんて嫌だろ。」


「それはそうだね。外部犯であってほしい、と願っちゃうかもしれない。」


菜名宮の返事はどこか心細い。」


タキはさ、犯人の目星が大体付いてるんじゃないの?」


「…まあな。」


菜名宮は窓の外を見ていた。釣られて視線を外に向けると、うっすらと窓際にオレンジ色が差し込んでいるのが見える。


「なんでそいつが大橋を恨んでいるかなんて俺は知らない。もしかしたらただの見当違い知れないし、むしろそうであって欲しい。」


俺はその人が優しい人間だと考えている。こんなコミュ症地味な人間を嫌うこともなく、明るく振る舞ってくれた人を悪く言いたくはない。


…ただ俺はそんないい奴のことを、犯人の名としてあげようとしている。


「多分、犯人は佐川雫だよ。」




佐川はこちらを見据えていた。それは雛城が見せた他者を拒む鋭い視線でもなく、あるいは菜名宮のように他人を脅すような視線でもない。ただただ優しく、臆病なものであった。


この優しい人を俺は嫌いたくない。追い詰めたくない。コミュ症が一度優しくされただけでその人を好きになってしまうなんてことはよくあるが、今の俺がまさにそうだった。


今までクラスの有象無象であった佐川雫という人物を、だった一度優しくされるだけでしっかりと認識した。恋愛感情を抱くことはない。ただ俺にとって佐川雫という人間が認識できるほどには、目の前のクラスメイトに優しくされたことを覚えている。


…しかし、現実として佐川雫は部室荒らしの犯人であった。今はそれ以上もそれ以下もない。ただそのことだけが事実として存在しているだけだった。


「代わりに説明してくれねえか。」


「私の口から説明してもなんも意味ないよ。タキが考えたことだから、タキが話さないと意味がない。」


「…はあ。」


ああ、こいつはなんとしても譲る気がないと直感的にそう悟った。菜名宮は一度心の中で決めればそれを揺るがすことは決してしない。自分の中にある信念を必ず曲げないような人間だ。


「できればこんなこと話したくないんだけどな。ん佐川が犯人だと悟ったのは、本当に微かな理由だったんだよ。それこそなんの変哲もない言葉だった。」


「私、なんか変なこと言っちゃってたかな。」


佐川の声は相変わらずか細く震えている。まるで佐川をいじめてしまっているようになり、気分が悪い。


「初めて会議室に来た時、大橋と佐川は事件の状況を説明してくれたよな。部室に戻って違和感に気づいた後、先生を呼びに行ったっていう事件発生時の流れをな。その中で大橋が備品が荒らされてたことを菜名宮に話した時、『ラケットもボロボロだった。』的なこと言ってただろ。」


「…そんなこと言ったような、言ってないような。」


「多分覚えてないだろうな。お前にとっても他愛のない一言だったんだろうし。」


だが佐川は確かにそう口にしていた。俺はコミュ症だ。普通の人と比べて圧倒的に人と話す機会が少ないために、そんな細かい発言を忘れなかった。


佐川雫という人間に優しくされて、しっかりと一個人として認識したからこそ、優しくされる前の何気ないそんな言葉を思い出して、覚えていただけだ。


「でもなんで、そんなことで私が犯人だってわかったの。」


「あの状況でお前が大橋のラケットが壊れているのを知っていること自体がおかしかったんだよ。なんせ持ち主である大橋が、自分のラケットの破損に気づいたのは、帰宅した後だったらしいからな。」


昨日の昼休みに大橋は、事件後、ラケットをケースの中に入れてそのまま持って帰ったと言っていた。


「お前は先生を呼びに行ってた。大橋がいない時間帯で、お前が大橋のラケットが破損していることを知る機会があるはずがないんだよ。」


「…佳苗、ラケット帰るまで開けてなかったんだ。」


「まあ、荷物があんなになってたってんなら、怖くて開けられなかったんだろうな。」


「そっか。…そうだよね。」


普通は自分の荷物が撒き散らされていた時点でケースに入ったラケットも確認するものではないかと思うが、大橋の場合はおそらく、目の前で起きたことが現実だと受け止めきれなかったのではないのだろうか。


「…篠末君はすごいね。そんなことで私を見つけるなんて。」


「別に確証があったわけじゃねえよ。佐川があんなことを言ったのも、後日大橋から教えてもらったとか色々考えた。もしかしたら、後日ラケットの写真が送られてきたのかもしれない。それを見てボロボロだったなんて言っただけかもしれない。この考えが100%合ってるとは言えなかった。」


この推測には多くの欠陥がある。俺は事件からあの日相談に来るまで、大橋と佐川がどんなやりとりをしていたかを知らない。つまり佐川が大橋のラケットを見ていた可能性もあったのだ。それならばあの日の佐川が言ったことはなんらおかしくない。俺は名探偵でもなければ、その助手なんかでもない。ただの一般的な高校生なのだ。わずかな手掛かりを繋ぎ合わせて、真実を導き出すなんて芸当はできなかった。


「別に推理でもなんでもない。ただいろんな可能性を消していった結果、佐川が犯人だということが一番確率として高かった。それだけだよ。」


この推測は確定的な証拠なんてないただの妄想だった。この考えが佐川が犯人だという確信なんて全くなかった。むしろ間違っていてほしいとすら思っていたほどだ。


しかし、実際に佐川は先ほど自分が犯人だと自白した。ならばこの推理とも言えない憶測は現実だったわけだ。


佐川はどこか残念そうに眉を顰めた。そこには諦めの感情が浮かんでいる。


「そっか。結構、うまく誤魔化したつもりだったんだけどなあ。」


「なんでこんなことをしたんだよ。」


自分でも声が低くなっているのがわかる。心の奥から怒りの感情が滲みでているのだ。


「言いたくない…かな。」


「…大橋が嫌いだったのか?」


「そんなわけない。むしろ佳苗のことは大好きだよ。」


「ならなんで。」


「多分わからないと思うよ。篠末くんも…菜名宮さんにも。」


「菜名宮にも?」


俺が佐川の気持ちを読み取れない理由はなんとなくわかる。俺は自他ともに認めるぼっち人間だ。そもそも他者と関わりが少ないから、相対的に佐川の感情を理解できないと思われたのだろう。


俺が他者の気持ちにあまり共感できないのは、これまでのやり取りでわかっているのかもしれない。


ただ、菜名宮が理解できないというのは何故だろうか。こいつは誰よりも他者の気持ちを汲み取り、他者が喜ぶことを率先してする奴だ。そんな菜名宮がわからない感情なんて存在するのか?


「自分にないものを持っている人への嫉妬かな。」


「…」


隣でずっと静観していた菜名宮がそんなことを呟くと、佐川はほんの少し表情を歪ませた。


「タキは知らないと思うんだけど、佳苗ってバトミントン上手いんだよね。それこそ先輩を押し退けて大会のメンバーに選ばれるくらいには。」


菜名宮は佐川のもとへ一歩駆け寄ると、佐川の表情を読み解こうとその顔を覗き込む。」


「事件の翌日の大会って、確か夏の総体前の代表会だったでしょ。各高校で選抜されたメンバーだけが出場できるやつ。」


「ああ、高橋先輩が言ってた奴か。あの大したことはない大会、っていう…」


「ラケットが壊れたことを先輩に伝えたって佳苗が言ってたでしょ?あの時はなんで先輩にラケット借りたんだろうって思ってたんだけどね。」


「言われてみればそうだな。普通は同級生に借りる方が色々と気が楽だろうし。なぜ先輩からラケットを借りたのかと言えば…そもそも大会の日には周りに先輩しかいなかったのか。」


強化選手というのは大抵チームで上手い数人が選ばれる。そして大抵、今の時期なら3年が多いだろう。その中で実力を見込まれ大橋は2年ながら選ばれた、そんな状況なら周りに同級生がいないのもおかしくない。


そのために大橋は佐川にラケットを話していなかった。決して二人の仲が悪いからではなく、大橋はラケットの破損を、佐川が受けた被害と同等のことだと考えていた。そのためわざわざ伝えなかったのだろう。


「佳苗は雫が犯人だと露ほども思ってなかったんだろうね。むしろ被害者だと考えてた。だから佳苗は自分だけが標的にされていたなんて考えもしなかった。」


「…その通りだよ。菜名宮さんが言ってる通り。」


佐川の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていたが、しかしそれが流れ落ちることはない。


「佳苗ってすごい上手なんだよ。私と同じくらいの時に始めてるはずなのに、私なんかよりずっとバトミントンがうまかった。…最初から差はあったのかもしれない。でも気づいたら佳苗は私よりもずっと遠くにいたんだ。毎日毎日練習しても、佳苗みたいに全く上手くなる気配も見えないのに、その間にも佳苗はどんどん先に進んでた。」


佐川は俯いて拳を握っている。佐川も練習をサボっていたというわけではないのだろう。その悔しがっている姿から、どれほど真剣にバトミントンに望んでいるのかというのが伺える。


「どれだけ頑張っても佳苗には追いつけなかった。それが悔しくて、気づけば佳苗に嫉妬している自分がいた。」


ギリッという歯を食いしばる音が聞こえた。佐川は口元をきつくしめている。


「それに佳苗は私なんかよりもずっと人当たりが良かった。先輩にも後輩とも仲が良くてさ。私はこんなんだから、佳苗のそんなところも羨ましかった。」


「…ああ、やっぱりか。」


「やっぱりって?」


「お前は気にしなくていい。俺の独り言だ。」


「わかった。」


佐川はこちら側の人間であることは、なんとなく察していた。人と話すのが得意ではなくて、円滑な人間関係を結ぶのが苦手な人間だろう。佐川は菜名宮のことを苗字で読んでいたり、大橋と比べてどこか控えめな印象があった。


菜名宮へ相談に来た日の午後に小耳に挟んだ会話でも、あのグループの中でよく話していたのは大橋の方だったはずだ。


大橋が人当たりがいい奴なんてのもにわかには信じ難いことではある。少なくとも大橋の印象なんて、クラスでよく話している陽キャってイメージしかない。しかし思えば大橋は良くも悪くも素直な性格なのだろう。


菜名宮と一緒にいた俺の存在を疑問視したり、そもそも菜名宮が何故俺と一緒にいるのかなんてことを尋ねてきた。


思ったことを素直に伝えられなかった佐川がコミュニケーション下手なのだとすれば、逆説的に大橋は得意な方に分類されると考えられる。きっとこんな単純な方程式では証明できないだろうが。


「私はいつも嫉妬しちゃうのに、佳苗は私にずっと優しかった。それがただただ辛かった。私は佳苗のことをよく思ってないのに、佳苗は私を嫌いになんてならない。そんな自分にどんどん嫌気がさして、また嫉妬して。」


「そんな気持ちが重なって、今回の事件を引き起こしちゃったの?」


「…うん。気づけばもうバトミントンでは、佳苗と圧倒的な差がついちゃってた。佳苗が代表選手に選ばれるなんて聞いた時には、嬉しさじゃなくて嫉妬心しか浮かび上がってこなくなってた。全部全部、なかったことになればいいなんて思っちゃって、気づけば佳苗のラケットを破壊していた。」


佐川はそう言い切ると、再びこちら側へと視線を向けた。その頬には一筋の涙が溢れた跡がある。


「これが私が部室を荒らした…いや、佳苗のラケットやスパイクをボロボロにした理由だよ。」


「…やっぱり佳苗に向けて、だったんだね。」


多分菜名宮さんにはこの気持ち、わからないだろうね。菜名宮さんって頭もいいし、運動神経も良かったし。私とは大違いだもん。」


「雫…」


たった1年、それだけの短い付き合いで断言するべきではないかもしれないが、俺から見る限り菜名宮は天才的な人間である。


おそらくだが、佐川は俺といる時の菜名宮の様子を知らない可能性すらある。ならばより菜名宮は完璧な存在に映るだろう。


だからこそ菜名宮には佐川の言葉がより刺さるはずだ。こいつはきっと、自分よりもずっと上の存在に思う人間を憎む気持ちがわからない。


何故ならば菜名宮はほとんどの場合で常人よりも上に立ち、憎まれる立場であるからだ。そんな立場にいながら憎まれることすらないのが、こいつの異常な点でもあるのだが。


「わからないね。私には雫の気持ちがわからない。」


「だろうね。菜名宮さんは完璧な人だから。…私も理解して欲しいと思ったわけじゃないし。」


「…ごめんね。」


「人って普通は嫉妬するものなんだよ。…けど大抵の人はみんなそんな気持ちを抱えても、多分うまくやってるんだと思う。佳苗の実力を素直に喜べない人ってきっとたくさんいるのに、それでも誰も佳苗のを嫌いにならないのは、みんなどうにかうまくやってるんだろうね。私にはそれができなかっただけ。」


どんな感情で告げられた言葉だろうか。佐川の表情は、悲しそうで、辛そうであった。そこに含まれているのは怒りか、後悔か、あるいはまた別種の呪いか、俺には分からなかった。


「今でも悔しく思ってるんだよ。こんなことがあったのに佳苗は今でも練習を頑張っているし、どんどん上手くなっていく。」


佐川は手に持っていた鋏を近くの机の上に、静かに置く。


「佳苗は私のことをずっと心配してくれてた。私が犯人なんてことを全く疑ってなくてさ。自分も辛いはずなのに、ずっと私のことを心配してくれる。それが余計辛かった。」


嘆きか、あるいは慟哭か。一つ間違いなく言えることはそれは佐川雫の本心であることだ。そんな確証はどこにもないが、この考えは間違っていないと断言できる。


「こんな感情をずっと抱えてしまって、どうすればいいか分からなくなってた。私と佳苗は全く違う人間なんだなって思った。佳苗はとても優しくて、私は最低な人間…そんな事実が辛かった。まるで差を見せつけられてる気がして、気づけばまた佳苗に嫉妬していた。」


「今日部室に来たのは、明日がまた大会だから?」


「うん…試合道具を壊してしまおうとしたんだ。明日の朝、試合に行く前にみんなここを寄るからね。」


今は佐川が部室を荒らそうとしていた現場に来ていた。先ほど鋏を手に持っていたことから、おそらく佐川はまた、大橋のラケットやシューズをボロボロにしようとしていたんだろう。


梨乃亜先輩は3年生にとっての最後の大会が近いと言っていた。荷物が部室に置いてあるのも、明日の朝が早いからだ。おそらく明日もまた大事な試合があるのだろう。大橋は出場し、佐川は応援席で見守っているような大会が。


「同じようなことをしようとしたのは、また佳苗を脅かすため?」


「うん。同じことを2回もすれば…佳苗も私の心配をせずに、怖がってくれるかなって思ったんだ。」


静かな空間が広がった。風が吹き付ける音も、あるいは普段聞こえる話し声すらもない、居心地が重苦しい静寂、誰も口を開くことはない。


露出している肌の部分が冷たく感じる。体が少し震えるのは、外が寒いことに加えてこの施設が古いからだろう。外の空気を完全に密閉できていないのだ。


「やっぱり、私には分からないな。」


数秒の沈黙を打ち破ったのは、菜名宮のそんな呟きだった。


「結構考えたけど、私には雫が佳苗に嫉妬する理由がわからない…私は他の人よりも要領が良くて、頭も良くて、みんなから好かれている人間だよ。だから雫がバトミントンの実力で佳苗に嫉妬する感情も、人間関係のことで佳苗に嫉妬する気持ちもわからない。」


菜名宮のその言葉はまるで疑いようのないことのようだった。


いや、実際それは事実だ。菜名宮が他者より優れていて完璧な人間であるのは紛れもない事実であり、菜名宮はそれを確かなことと理解しているのだ。


先ほどの沈黙はきっと佐川の嫉妬という感情について考えていたのだろう。ただ、人は自分と違った境遇にいる人間の感情を理解できない。


「大丈夫だよ。私も理解して欲しくて言ったんじゃないから。菜名宮さんがわからなくても仕方ない。」


佐川がどこか残念そうにしているのは、やはり菜名宮には自分の気持ちを理解してもらえない、そんな考えからきた表情だろう。口では理解して欲しいわけではないなんて言っているが、おそらくは嘘だ。


「うん。私では、わからない。…でもさ、誰もが理解できないってわけじゃないでしょ。


菜名宮は急にこちらの方を振り向いた。どこまでもまっすぐな視線が急に俺の元へと注がれる。 菜名宮のその視線は、期待の感情が入り混じっているように思えた。


「タキなら理解できるんじゃない?自分よりも優れた存在に嫉妬する感情を。雫が抱いている今の気持ちを。」


「はあ…俺ね。」


「タキは私みたいな完璧な人間じゃないし、むしろコミュ力に至っては壊滅レベル。」



「お前…流石にもう少しマイルドに言えないの?」


「だって事実でしょ。」


「…否定はできないな。残念ながら。」


「そんなタキなら、雫の気持ちがわかるんじゃないかな。」


根暗でコミュ症で陰鬱な人間、菜名宮とは正反対の人種、それが俺だ。運動や勉強は全くできないというほどではないが完璧というには程遠く、コミュ力に至っては学校でもワーストクラス。こんなこと認めたくないが、これも一種の事実だ。


佐川は黙ってこちらを見つめ続けている。それは俺と菜名宮に対する視線ではなく、明らかに俺だけを捉えていた。


ふうと大きな息が一つこぼれ出た。その音が空間に大きく響き渡る。


確かに俺は菜名宮とは全く違う人間だ。自分よりも優れた人間が沢山いて、なんなら最上位とも呼べる奴がいつも近くにいる。俺と佐川の立ち位置はきっと似たようなものなのだろう。それなら佐川の気持ちがわかるなんて考えるのは至極当然の思考かもしれない。


「…正直、佐川の気持ちは全くわからん。」


「え?」


だからこそ俺は敢えて自分の本心をぶつけることにした。佐川に対して嘘はつきたくなかった。


「佐川が大橋に嫉妬する感情も、大橋の人間性を羨ましがる気持ちも全くもって理解ができない。」


「…」


菜名宮にとっては予想外だっただろう。そして佐川にとっては残念だったかもしれない。もしかして俺なら自分の気持ちもわかるのではないか、という期待が打ち消されたからである。


ただ、俺の本心はこれだった。佐川の気持ちなんて理解できない。他者に嫉妬する気持ちなんて分からない。


一見似たようにも見える俺と佐川は、本質的に全くと言っていいほど違っているからだ。


「佐川ってめちゃくちゃ真剣にバトミントンに取り組んでたらしいな。」


「…なんで、いきなりそんなこと。」


「バトミントン部の部長、確か高橋梨乃亜先輩だっけ。その人に聞いたんだよ。佐川はいつも真面目で、ずっと最後まで残って練習してるような奴だって言ってたよ。あれだけバトミントンに熱意を持った子も珍しいってな。」


「そんなことを…梨乃亜先輩が言ってたの?」


「ああ、佐川はどんな人間かって聞いたら、ウキウキで答えてくれた。お前先輩に好かれてるんだな。」


それは今日の放課後、俺が菜名宮を待つため一人で会議室にいた時に確認していたことだった。


聞けば佐川は2年生の中で1、2を争うほど真面目で、バドミントンに対する情熱を持っていたらしい。


電話越しであったため表情はわからなかったが、梨乃亜先輩は佐川が誠実な人間であることを嬉しそうに話していた。


「俺は佐川の気持ちがわからないし、佐川が犯人かもしれないって思った時も、なんで事件を起こしたのか全くわからなかった。だから動機を探るために、お前がどんな人間かってのを身近な人に聞いたんだ。」


梨乃亜先輩は俺が知っているバトミントン部の人で、唯一と言っていいほどまともに連絡が取れる人間だった。あの時は正直、菜名宮に渡されたタブレットが役に立つなんて思っていなかった。


「今になってようやく納得がいった。俺には、佐川の気持ちなんて分かるはずがなかったんだよ。」


「私の気持ちがわからない?なんで?」


「自分よりも実力のある人間に、自分よりも結果を出した人間に対して嫉妬をするのは、全力で取り組んでいる奴だけだからだ。」


「なるほど。タキと雫は…ちょっと似てるように見えて、全く違うってことかな。」


「俺は勉強も運動もそこまで全力で取り組んでいない。クラスの人間と仲良くなりたいとか、上手く立ち回りたいとか、そんなことを微塵も考えたことがない。」


「…ほんと、タキの悪い所だよね。」


「別に他人より上に行きたいとか考えてないからな。」


俺は平穏を望んでいる。誰からも過度に干渉されることなく、他人のいざこざに巻き込まれることなく、ただ風のない海のように静かな生活をしたいと思っている。近くに台風の目が常に存在しているので上手くいっていないが、それでも俺の根本的な考えは変わっていない。


「自分よりも前を進む人間に嫉妬するのは、ずっと歩みを止めていない奴だけだ。他人と自分を比較して辛くなるのは、他人と自分の間の距離がしっかり見えているからだ。情熱をそこまで持たない奴が、自分よりも上の存在に対して嫉妬することはないんだよ。せいぜい憧れ、諦め、あるいは無関心のうちのどれかだ。」


自分よりも上の存在に大抵の奴が抱く感情を知っている。菜名宮という優れた人間が近くにいることの弊害だ。


多くの人間が菜名宮の優れた能力を見た時に、尊敬、羨望、冷淡、これらの感情を抱いていた。それらは大抵、自分とは次元の違う人間に対して抱く感情なのだろう。人は神と自分を比べることをしない。


ただ佐川は大橋に対して嫉妬の感情を抱いていた。それはバトミントンを真剣に取り組んでいるからだろう。佐川の嫉妬はただ純粋な向上心の裏返しだ。


「俺は菜名宮とかいう自分よりもずっと優れた奴がいつも近くにいるが、こいつに対して嫉妬したことは一度もない。俺と菜名宮は別の人間だからな。」


「むしろタキはいっつも、私に呆れてるもんね。あんなため息ばっかついてたら、幸せは逃げていっちゃうよ。」


「何他人事みたいに言ってんだ。俺がため息をつく原因は、お前が傍若無人なせいだよ。」


「何のことかな?」


首を傾けて微笑みを浮かべる菜名宮を見るに、これ以上相手をしても話が逸れるだけだろう。そう判断してまた佐川の方へと振り返った。


「正直、俺からすれば佐川はどうしようもない奴、とは言えねえな。もちろん褒めるつもりもねえけど。」


「なんで、そんな、私を…」


「別にお世辞じゃねえぞ。俺は嘘をつくのが得意じゃないからな。いつも菜名宮に見破られるし。」


佐川の行動は決して正しいことではない。今回の部室荒らしは他者を傷つけ、多くの人を不安に巻き込んだ事件だ。


しかし、俺には佐川をただ非難することはできなかった。凄惨な事件の背景には、努力家で不器用な、佐川雫の人間性が隠れているからだ。


菜名宮がまた半歩佐川の方へと進む。そして自分よりもほんの少し背の低い友達の肩にポンと手を置いた。小さな啜り泣きが聞こえたような気がした。


「今回の件に関して雫に非がない、なんてことは絶対ない。でも雫が抱いているその感情はきっと間違ったものじゃないと思うよ。」


「まあ、俺よりもずっと立派な考え方だとは思う。少なくとも佐川ほどストイックに俺はなれない。」


事件以外であれば、きっと佐川は俺よりも素晴らしい人間だ。同じ部活の誰よりも向上心があり、俺なんかより捻くれてなくて真っ直ぐな奴だ。


ただその向上心故、あるいは捻くれておらず真っ直ぐだからこそ、大橋に対して嫉妬をしていた。最初は小さな塵のようなものだったのかもしれない。ただ年月を重ねていくにつれて、どんどんと、どんどんとそれは蓄積していった。気づけばその嫉妬はあまりにも大きな感情となってしまっていたのだろう。


「それでも、私は、みんなを、傷つけた。…みんなを、不安に、させてしまった。」


「雫には、きっと罪悪感があったんじゃないかな。」


「…え。」


佐川は驚いたように菜名宮の方へと視線を上げた。

頬には、一筋の涙の跡がある。


「ずっと分からなかったことがあったんだ。なんで雫は私のところへ来たのかって。雫は犯人だったとして、なんでわざわざ事件のことを掘り下げようと思ったのかってね。」


「…そういやそうだな。お前にこの話を持ってくること自体、リスクしかねえのに。」


菜名宮が頭のキレる奴だということはあの件から、もはや全校生徒の共通認識レベルで知られていることである。


菜名宮に相談をすることで、自分が犯人だとバレる可能性もあった。にも関わらず何故佐川は菜名宮に相談したのか。


「雫は佳苗を傷つけたことがきっと辛かったんじゃないかな。だから私のところに来た…間違ってるかな。」


「…わからない。そうかもしれないし…そうじゃないかもしれない。」


「きっとそうだよ。少なくとも私にはそう見えた。雫には、罪悪感があったんじゃないかな。」


普通、おかしなことだろう。佐川はバトミントンの実力で、あるいは他者と円滑な人間関係を結べる、そんな大橋に嫉妬して今回の事件を犯したのだ。それなのに大橋に対してそんな感情を抱くこと自体が普通ではないのだ。


「少なくとも大橋は、お前のことを微塵も疑ってないどころかずっと心配してたぞ。それに対して思うところは多少なりともあったんだろ。だから会議室へ二人で来たんだろ。」


「そうなのかな。元々、菜名宮さんへ相談しようって言ったのは佳苗だったから…私のために、って。」


「それを断らなかったのが答えなんじゃねえの?」


大橋はずっと佐川を気にかけていた。大橋にとってはきっと佐川は親しい友人であり、自分と同じように部室荒らしの被害者だと思っているのだろう。


きっと佐川にとっても大橋はかけがいのない友人だったのかもしれない。本来なら菜名宮に相談するという行為自体が、自分が犯人だという可能性が出てくる意味のない一手だ。


それでも菜名宮のところを訪ねたのは、大橋の願いを断れなかったため、あるいは友人の想いを尊重したかったのかもしれない。


佐川は大橋に嫉妬していたのにも関わらず、友人として心配もしていたのだ。そう考えると人間とはなんと不合理な生き物だろう。


「それでも、私はやっぱり悪者だよ。」


佐川がふと頬を少し緩め、自嘲的な笑みを浮かべる。


「…なんで?」


「私が佳苗を悲しませたのに佳苗は私に気をかけてくれる。そんな状況が、辛かった。そんなことから、私と佳苗は全く違う人間なんだなって思った。佳苗はとってもいい人で、私は最低な人、そんな事実が辛かった。まるで差を見せつけられてる気がしてさ、気づけばまた佳苗に嫉妬していた。」


「それは…」


「…」


大橋の優しさが、友人を思いやる気持ちが、佐川にとっては辛いものであり、新たな嫉妬心を生んだ。


なんという皮肉だろうか。大橋が佐川を全く疑っていないからこそ起こり得た悲劇だ。


「今日ここに来たのも、私の中にあったそんな気持ちが抑えきれなかったから。傷ついた佳苗を見ても、私はやめられなかった。」


今、ここに佐川がいることが答えだろう。佐川には大橋に対する罪悪感があった。それと同時に嫉妬の感情もまだ残っていた。


梨乃亜先輩によれば、部室荒らしの直後にも大会には皆参加していたという。当然、大橋もその代表戦に出場していたということだ。


その事実が佐川にとってどれほど応えるものだっただろうか。傷つけたはずの人間が、何事もなく前へと進み始め、挙句の果てには自分の身に起きたことよりも仲のいい友人に気をかけているのだから。


「佳苗に対する罪悪感よりも、嫉妬の方が勝っちゃったんだ。佳苗を傷つけるってわかってたのに、気づけば鋏を握ってここへと来ていた。」


人間の心情は単純でなく、時に不条理であり、全く正反対のものを感じることもある。今の佐川はまさにそれだろう。


「私はどうしようもない人間だよ…本当にごめんね。」


「どうしようもない、って…」


「篠末くんにも謝りたいんだ。」


「俺に謝る?何についてだよ。」


「前の朝のこと。篠末くんは言ってくれたよね。他の人に自分の悩みを打ち明ければ、少し心は軽くなるって。他の人がその負担を背負うわけじゃないって。」


「ああ…そんなこと言ったな。」


初めて佐川と会った次の日の朝の出来事を俺は明確に覚えていた。大抵の出来事はすぐに忘れてしまい、きっと重要なこともぼんやりとしか覚えていない俺が、明確に記憶していたやりとりだ。


「あれを言ってくれた時に、ほんのちょっと心が軽くなっちゃったんだ。私が初めて菜名宮さんに相談した時、私は事件のことで悩んでいたんだよ。犯人側としてね。」


どうやら俺は一つ勘違いをしていたらしい。俺が佐川を優しい人間だと感じた、あの何気ない朝の出来事。あの日、心が軽くなった、なんて言葉は被害者としてのものではなかったらしい。


「菜名宮さんに相談した時、篠末くんは犯人がいろんな学年の可能性があるって言ってたよね。その時に、私が犯人として疑われにくくなるのと同時に、菜名宮さんや篠末くんが真剣にこの事件について考えてるって思うと、ちょっと辛かったんだ。」


「…やっぱり意味わかんねえな。なんでお前が心痛めるんだ。俺は別に何も感じてなかったのによ。」


ああ、やはりだ。佐川雫という人間は、優しい人間なのだろう。


自分が起こした事件なのに、全く無関係な人間を巻き込んたことに気を病んでいた。そして俺や菜名宮にとって部活荒らしの件に関わることが苦ではないと知った時に、安堵したのだ。


自分が引き起こした事件なのに、他者が変に巻き込まれることを嫌うなんて普通に考えればおかしいことだ。


「ごめんね、篠末くん。君の言葉に安心をしてしまって。」


「なんだよ、その謝り方…」


今回の事件に関しては、悪いのは間違いなく佐川だ。ただ俺はこの人を責めることができなかった。

佐川雫は二回も部室を荒らそうと、大橋の持ち物をボロボロにしようとしていた。それは許されざる行為である。


現実はあまりにも残酷だ。日曜朝にやっている戦隊モノや仮面ライダーシリーズのように、悪と正義が分かりやすければ、どれほど楽だっただろうか。佐川雫はどう足掻いても悪人であるが、どう足掻いても善人だ。


他者に優しい人間であるが、それだけでなく利己的な考え方を持っている。俺なんかにも気を掛けるのに、自分の勝手な感情で親友を傷つけてしまう。


不合理で、不条理である。ある種、人間らしいといえばそうなのかもしれない。


もしかすれば俺に対する優しさは嘘なのかもしれない。人は嘘をつく生き物だ。菜名宮のように自分のために嘘を付く人間もいれば、梨乃亜先輩のように周りの人間のために嘘をつく人間もいる。俺に向けていた優しさが嘘だった可能性もある。


…ただそんなことどうだっていい。俺は佐川雫という人間を嫌いになれない。いつも他者から偏見に満ちた目で見られることが多かった俺にとって、他者と際限なく接してくれた目の前の奴を、到底嫌いになれるわけがなかった。


だからこそ、あるいは、しかしかもしれない。俺は佐川のことが許せなかった。なぜ部室荒らしなんて真似をしたのか。なぜ罪悪感を持ってなお、再度犯行を重ねようとしたのか。


佐川の感情なんてきっと理解できない。理解できないから、佐川の行動を許せない。嫌いになれないのに許せない。俺にも相反した感情が存在している。


ガタンガタンと、少し古びたプレハブを揺らす風の音が聞こえる。俺も佐川も口を開くことはなく、あたりに広がるのは沈黙だ。


「別に、普通じゃないの?」


「え?」


その声はあまりにも素っ頓狂だった。いや、場違いとでもいうべきか。声が聞こえてきた方を振り向けば、菜名宮が不思議そうな顔をしていた。


「別にわざわざ謝るようなことじゃない気がするけど。」


「…は?」


「さっきの話を聞いてる感じ、雫はタキの言葉に安心したんだよね?」


「うん…そうだけど。」


「タキは相談されたことでなんか傷ついたりした?」


「いや、別に。俺は佐川が部活荒らしをしてたことのほうがよっぽどきついな。」


俺の言葉で佐川が被害者側としてではなく、犯人側として受け止めていたのは少しショックではあるが、そんな些細なことはどうでも良かった。


「ならいいんじゃないの?タキに相談したことを謝る必要なんてないでしょ。」


「…なんで?私は篠末くんを裏切ったんだよ?」


「もしその言葉が、雫を安心させる代わりにタキが負担を背負うってなら話は別だけど、さっきのっていわばタキが勝手に雫を安心させただけでしょ。」


「勝手に安心させたって…」


確かに客観的事実を見ればそうかもしれないが、言葉が悪すぎる。その言い方だと、俺が佐川に安心を押し付けたようにしか聞こえない。


「…いや、実際そうなのか。」


「そうだよ。タキは勝手に雫に安心を押し付けて、雫はそれを受け取っただけ。それは等価交換じゃなくて、譲り受けみたいなものだよ。」


「お前って俺の心の中呼んでたりするか?」


「…え?いきなり何言ってんの?」


「なんでもない。」


菜名宮は本当に不思議そうな顔をしてこちらの方を向いた。鉤括弧外の文章は流石に読み込まれていないらしい。流石にそこまで侵食されてたら色々と終わってたしよかった。


「とりあえず、雫が謝るような状況でもないでしょ。人から貰ったものをどうしようと個人の勝手だし。」


「…でも。私は篠末くんの言葉に犯人として安心してしまった。それはいけないことだよ。」


「いけないって何で?」


「それは、篠末君を傷つける行為だからだよ。」


「雫はタキから安心を受け取ったんでしょ?それがタキの負担になることはなかった。なら雫が犯人としてその言葉を享受してもなんら問題はない。」


「そんなのダメでしょ。篠末くんはあの時、私を安心させようとしてくれて…そんな優しさを捨てるようなことしたんだよ。」


「もしタキが雫が犯人としてその安心を受け取ったことに怒っているのなら、それは単なるエゴだよ。自分が与えた優しさを正常に受け取って欲しい、自分が施した安心を裏切られた。そんなのは一方的な感情の押し付けだ。」


「はあ…本当にお前らしいというかなんというか。そんなトンデモ理論、お前じゃなきゃ展開できないだろうな。」


「実際そうでしょ?与えられた言葉をどう受け取るのかって人の勝手。もしタキが裏切られたなんて思うなら、雫が犯人だと疑わなかったり、その可能性を考えていなかったタキの責任だよ。自分の思い通りに言葉を受け取って欲しいなんて、わがままじゃない?」


「知らん。お前の出した考えに成否をつけるつもりなんてない。どうせお前は自分の答えを『正しくする』だろ。」


確かに言葉をどう捉えるかは、話し手ではなく聞き手が決めるべきなのかも知れない。話し手が言葉の意味を完全に決めるのは、それこそ一方的な押し付けにしかすぎないのだろう。


古来より言葉とはそういうものだ。噂も、伝承も、古今東西受け継がれてきたそれらも、全て感じ取るのは受け手だ。その影響でもしかすれば元の話とは全く違ったことが受け継がれることがあるのかもしれない。ただそれらは往々にして言葉の受け取り手がどのように感じてきたかが全てである。


伝統を変えたくないという気持ちを持つのも聞き手だ。ずっと昔から何も変わっていない事柄は、きっとそんな聞き手の思いがあったのかもしれない。


「そもそもタキは与えた安心が間違って受け取られてたことに、謝ってほしいと思ってたの?」


「いや、全く。そもそもの話だが、俺は佐川に安心を与えたつもりなんて全くない。気づけば佐川の手に渡っていただけだ。」


佐川に裏切られたか裏切られていないか、そんな話に結論をつけるならば、そもそも前提から結論をつけること自体が間違っているのだ。


「俺がこの前の朝も、そして今謝られたことに対して感じたのは、佐川は優しい奴だってことだけだ。」


「…優しい?」


「ああ、佐川は優しい奴だろ。」


「なんで…?私は篠末君に」


「人の感情を無為にしてしまった。そんな理由で俺に謝っているのなら、とんだ見当違いだぞ。俺はそのことに対して怒っていない、というよりどうでもいい。俺は佐川の優しい人間性を知っているってだけだ。」


俺が佐川に対して怒りを覚えた理由は、なぜ荒らしなんてことをしてしまったのか。それだけに尽きる。


俺は佐川の嫉妬心も理解できなければ、罪悪感を抱いたのにも関わらず、再び犯行をしようとした気持ちが分からなかった。だから部室を荒らした、大橋の荷物を傷つけた佐川に怒っていた。


「…そんなの、嘘だよ。私は、優しい人間なんかじゃない。やること全部、みんなを傷つける、最低な人間だよ。」


「完全には否定できないかもね。雫は佳苗のことを傷つけたし、バトミントン部のみんなを不安にさせた。それは確かに許されないことだよ。そういった意味では雫は悪い子かもしれない。」


「だったら、私は優しい人間なんかじゃ…」


「でもね、それとこれとは別なんだよ。雫は悪い子だけど、優しい子だ。その二つが混ざってはいけないなんて誰も決めてない。」


子猫を保護するヤンキー概念というものがある。ヤンキーなんてのは基本的に悪の象徴だ。しかしそんなヤンキーが雨の日に捨て猫の身を案じて傘を置きに行くなんて場面はあまりにもありふれた場面だろう。


一般的に実はヤンキーはいい奴だ、なんて思われることが多いが、中には「もともと悪い奴がほんの少しいいことをしただけで評価されるのはおかしい」なんて考え方も存在する。彼ら曰く、元から良いことのみをした者だけが良い人間であるとされるらしいのだ。


ただそんな主張をする彼らは、本当にずっといい人間であったのだろうか。俺は他人の人生に興味なんてないから知り得ないが、かつてキリストに説得された、石を投げていた人々のように、多くの人間は悪事を働いたことがあるのではないのだろうか。


人を評価するのにその人間の片面だけを判断しようとするから、ヤンキーを嫌う人がいるのだろう。ただ人間は多面的な顔を持っている。


自分の好きな人間に対して向ける側面と、嫌いな人間に対して向ける側面はきっと違うものだろう。ならばなぜ多くの側面の中で、たった一つだけを見て評価する必要があるのだろうか。


人間が持つ多くの側面をそれぞれ評価すればいい。佐川は部室荒らしを、大橋を傷つけた犯人だ。その面に関しては、「許されざる行為」として悪い奴だと判断すればいい。


しかし一方で俺なんかにも分け隔てなく接して、人のことを思いやれる優しい人間でもある。さらにバトミントンに対しては熱心で、それこそ大橋に対して嫉妬をしてしまうほどの真面目な、情熱ある高校生でもある。それぞれを踏まえて、佐川雫という一人を見ればいいだけだろう。


「私は雫が優しい子だって思ってる。いつも周りのことを気遣ってて、バトミントンにも全力に取り組んでる。それを否定するつもりなんて全くないよ。」


菜名宮は佐川の頭にポンと手を置くと、優しく励ますようにゆっくりと撫で始める。すっと鼻を啜るような音が聞こえた。


「…でも、雫は悪いこともした。」


「そう、私は悪いことをした。佳苗を傷つけた。どうしようもないんだよ。」


「確かにそうかもしれない。佳苗の持ち物をボロボロにしたのは、きっと許されないかもね。」


菜名宮はずっと手を流し続ける。それは小さな子を安心させるような、あるいは泣いてしまった友達を宥めるような優しいものだ。


「だから謝ろう。佳苗のラケットやシューズをボロボロにしたことも、部室を荒らしたことも、全部ね。」


「…佳苗にはもう会えない。私が犯人だって知ったら、きっと傷つくだろうから。」


犯人が佐川であるということを大橋が知ったらどう思うだろうか。佐川に対して失望するだろうか。あるいは軽蔑し、もう二度と友人として付き合わないのだろうか。


正直どうなるかなんて全く分からない。俺は大橋がどんな奴かというのを何にも知らないからだ。


「そんなことないよ。佳苗にしっかり話せばなんとかなる。」


「許してくれないよ。佳苗は、裏切られたなんて知ったら。」


「許してくれる。絶対だよ。私が言うんだもん。」


その言葉はあまりに安心感のあるものだった。本来、大橋が佐川をどう思うのかなんてわからないはずだ。しかし他でもない菜名宮が、大橋は佐川のことを許すとそう断言している。


菜名宮はきっと確信している。菜名宮が断言したことは必ず間違うことがない。まるで菜名宮を中心に周りがすべて決まっているように、だ。ならばきっと大橋は佐川を許すのだろう。


「…」


佐川は下を向いたまま黙りこくった。鼻を啜る音だけがプレハブに響く。菜名宮はずっと佐川のことを見つめている。


どれほどの時間が経ったのだろうか。一年でかなり日が出ている時間が長い時期なのに、あたりはもうすでに真っ暗である。後ろは校舎からほんの少しの光が差し込み、すっかり静かになっていた。


「…佳苗に、謝りたい。」


「そっか。じゃあ、謝ろう。」


菜名宮はいつも通りの明るい笑顔で、佐川を見つめる。

プレハブを揺らしていた風はもうすっかり吹き付けることなく、止んでいた。




そこは静かな空間だった。いや、正確にいえば空間ではない。俺と菜名宮、そして佐川が3人で歩いている場というのが正しい表現だ。誰も口を開かない。


佐川は少し顔を下に向けながら歩いており、菜名宮が自分と反対側の佐川の肩を支えている。俺はその後ろについていく。二人の姿はほとんど見えず、かろうじて足音が聞こえる状態であり、すでに真っ暗になった帰り道を俺たちは歩いていた。


菜名宮がどこに向かっているのかはわからない。おそらく佐川も同じだ。ただ菜名宮について行っており、結局誰も口を開くことはなかった。


学校を出て10分ほど歩いたところで、菜名宮が足を止めた。そこはいつも帰り道で見かける小さな公園だ。時たま小学生がボール遊びをしていることがあるくらいで、ブランコと砂場があるだけの小さな空間である。もちろん今は小学生の姿なんてない。


公園には小さな街灯があった。真下とその周辺を少しだけ照らしている。真っ暗闇の中で僅かに光るそれは、まるでスポットライトのようだった。


そんな街灯下に、一人の少女が立っていた。背丈は菜名宮よりもほんの少し高いくらいであり、背中にはスクールバッグを背負っている。少し汚れた、俺たちが通っている学校の体操服を身につけている。


大橋佳苗がそこにいた。おそらく菜名宮がこの場所に呼んだのだろう。大橋は俯いており、寂しげに見える表情を浮かべていた。


「ごめんね。少し待たせちゃった。」


「大丈夫。まあ、いきなり呼び出されたのは少しびっくりしたけどね。」


大橋は菜名宮の声に気づいたようでこちらを振り向くと、驚きを見せた。


「って篠末に…雫?なんでこんなところにいるの?」


「ちょっとね。」


菜名宮はどうやら公園に呼び出した理由を大橋には説明してなかったらしい。まあ、こんなことをわざわざ電話や通話アプリで伝えるのも憚られるだろう。


佐川は、菜名宮の後ろでさっきと同じように俯いたままだった。大橋の声を聞いても顔を上げようとはしない。


「…雫。伝えたいことは自分で伝えるべきだよ。」


菜名宮は佐川の肩をトントンと優しく叩いた。佐川はしばらく俯いたままだったが、やがて決心したかのようにガバッとを顔をあげ、大橋の方を見据える。


「どうしたの?雫。なんかあった?」


「…」


佐川は眉を顰める。自分を心配する大橋に対して罪悪感を感じたのか、あるいはまだ告白の決意が固まっていなかったのか、どこか迷いがある表情をしていた。


「…ごめん、佳苗。」


数秒の沈黙の後、佐川は意を決したよう口を開いた。


「ごめんって何が?」


「部室をめちゃくちゃにしたの、私なんだ。」


「…え?」


その告白は、大橋にとってまさに寝耳に水だろう。いきなり夜の公園に呼び出されたと思えば、そこには親友がいて、しかもその親友が部活荒らしの犯人だったなんて。


「雫が犯人って…え、どういうこと?」


「佳苗のラケットボロボロになってたでしょ。あれも、全部私がやったこと。私が犯人なんだ。」


「そんな…嘘だよね?雫があんなことするはずないよね?」


「全部、本当のことだよ。」


「だって、雫の荷物も荒らされていたじゃん。だったら雫も被害者でしょ?」


「あれは私が犯人と思われないようにするためのカモフラージュ。」


「…でも。」


ふと大橋と視線があった。なぜこちらを振り向いたのかはわからない。ただ佐川の言葉が冗談ではないと、嘘ではないと、そう伝えるために大橋からは視線を逸らさない。


今度は菜名宮の方へと振り向いた。それから大橋はまた佐川の方を向き、その表情を確かめるように顔を覗き込む。


「…ほんとなんだ。本当に…雫が。やったの?」


「うん。ごめんね。」


「なんで、そんなこと、やったの?」


大橋は俯いてしまい、佐川と視線を合わせようとはしない。佐川に尋ねかけるその語気は怒りや、悲しみが含まれているように感じた。


佐川の行動に、大橋は何を思っているのだろうか。

佐川に対する失望か、何故部室を荒らしたのかという疑問か、あるいは佐川を責め立てているのかもしれない。


人の感情は単一的でシンプルなものでなく、様々な思いが複雑に、時には本人ですら分からなくなるくらいに絡み合っている。


「佳苗のことが羨ましくて。少しだけ、悔しくなっちゃって。気付いたら、あんなことをしちゃってた。」


俺は佐川が今何を考えているのかも理解できない。だからこそ、佐川が本心を隠すことなく自分の思いを大橋にぶつけたのが意外だった。


「悔しかった…?」


「佳苗はバトミントンも上手いし、部活のみんなからも、クラスのみんなからも好かれているし。私と違って色んなことができるから、それが羨ましかった。」


「…」


大橋はガバッと顔を上げた。しかしその目は佐川のことを捉えていない。大橋が立っている街灯の横にあるベンチの方へとその視線が注がれている。


きっと大橋にも心当たりがあるのだろう。他者よりも劣っていることを自覚するのと同じように、自分が他者よりも優れている場合にも、人はそのことを自覚する。


菜名宮は自分が優れた人間であること、完璧であることを自覚していた。それと似たようなものだろう。


「事件が代表戦の前日にあったのは…」


「うん。佳苗はあの大会に、出るからだった。」


「…そう、だったんだ。」


2俺も菜名宮も何かを発することはなく、ただ大橋と佐川を眺めていた。風はとうに病んでいるのに、服から露出している部分がほんの少し肌寒い。


「ごめんね佳苗。あんなことをしちゃって。佳苗にとっては、許せないことかもしれない。私のことが大嫌いだになったかもしれない。でも謝りたい。」


自分が勝手に起こした事件を勝手に告白して、勝手に謝罪する。仮に第三者がいれば、なんて都合がいいんだと言われるかもしれない。謝れば許されると思っているんだろうなんて評価を下すかもしれない。


そしてそんな思いを大橋が抱く可能性も十分にある。なんせ大橋は真の被害者だ。それを踏まえて佐川は今、大橋に謝っているのだろう。


「部室を荒らしたのは絶対悪いことだった。佳苗もバトミントン部のみんなも不安にさせちゃったし、みんなの物もぐちゃぐちゃにしちゃった。本当に、ごめんなさい。」


夜風が頬を切った。佐川は頭を下げたまま、大橋の方を向くことはしない。


その体が少し震えているのは寒さなのか、あるいは別の感情なのか。ただ、先ほどまで見せていた涙がもう引いているのだけは、遠目からでもはっきりと分かった。


「雫は私のことが嫌いだったの?」


「…」


「私の方がバトミントンが上手いから、悔しかったって言ったよね。今まで過ごしてきた時間は、全部嘘だったの?」


反対に大橋がその目に涙を浮かべていた。溢れんばかりの感情がまるで具現化したかのように、今にもこぼれ落ちそうである。


「友達だと思ってたのは、私だけだったのかな。」


事件が起きていた時、大橋は自分よりも私の心配をしていたと。自分も不安なはずなのに、私のことを気遣っていたと。それは大橋が佐川を大切に思っていなければ出来ないことだろう。


そんな感情を抱いているのにも関わらず、大橋は佐川のことを心配していた。これが意味することなんて一つしかない。


「…」


佐川はまた口を噤んだ。佐川は今、大橋をどう思っているのだろうか。自分が必死に練習に取り組んでも追い越せない実力を持ち、自分よりもずっと人当たりがいい大橋のことを。


「…わけ、ない。」


「…え。」


「嫌いな、わけ、ない。」


佐川は、はっきりと大橋を見据えてそう言った。


「佳苗はずっと私に優しかった。私が残って練習してる時も、何度も教えてくれた。佳苗のことが嫌いなはずなんてない。」


「え、でも。私がいたから…あんなことしたんじゃ…」


「嘘だと思うかもしれないよね。…都合がいいと思うかもしれない。でもこれが私の本当の気持ちだよ。佳苗のことは尊敬してるし、大好き。」


「私のことが憎くて、だからあんな…違うの?」


あまりにも人間は不合理である。危害を加えるほど嫉妬していた人間が嫌いでないなんて矛盾がしている。自分のことが憎くて事件を起こした犯人が、自分のことが好きだなんて言われれば、当然困惑だってする。


それと同時に、佐川が大橋を嫌いにならなかった理由もわかった気がする。自分のものをボロボロにされたのに、大橋は佐川を攻め立てたりしない。


こんな状況でまだ佐川を心配しているほどだ。こう見れば大橋はかなり優しい人間だと思えてくる。


「人間ってめんどくさい生き物だからね。性格も好みも人間関係も、まるで絡まったイヤホンケーブルみたいだ。」


「ああ、俺はそういう複雑なのはやっぱり好きになれねえよ。」


「人は一面的な要素で判断できないってのは誰の言葉だったかな。」


「さあな、現実を嫌いになれない愚か者なんじゃねえの?」


そう返事をすると、菜名宮はふっと小さく笑いながらまた2人の方へと振り向いた。


「佳苗に嫉妬する気持ちも、佳苗が大好きって気持ちも、雫の本心なんだろうね。どっちが本当の気持ちなんて、決める必要はきっとない。二つとも雫が抱いていた感情だよ。」


「…雫、さっきの言葉は嘘じゃないよね。」


「うん。全部、本当。もう嘘はついてない。」


「そう。なら、よかった。」


大橋の頬に涙が伝った。それは静かに音を立てることなく地面へと落ちる。スポットライトのような街灯が、鏡面に反射していた。


佐川は大橋をじっと見ている。大橋は一瞬下を向き、また佐川の方へと視線を戻した。


大橋の右手が顔へと触れる。頬へと流した涙を拭ったのだろう。


その手が今度は佐川の方へと動いた。ゆっくりとそれは佐川の手元へと近づいていき…


バチン、


そんな痛快な音が聞こえたのは、すぐ後のことだった。


「…は?」


今、何が起こった?あれは見間違いか?俺の目には大橋が佐川を全力で引っ叩いたように見えるんだけど。気のせいか?


あまりに突然すぎる展開に、脳の処理が追いついていなかった。え?なんでビンタしたの?


菜名宮の方はといえば口を半開きにしたまま、唖然としたように硬直していた。流石に菜名宮にとっても予想外だったのだろう。あんな表情初めて見たぞ。


「…え?」


ビンタされた佐川も、驚いた様子で大橋の方を見ていた。流石にそんな反応になるよな。


「私も、雫のことは大好きだよ。」


頬を叩いた本人はなんかよくわからんこと言っていた。いやこの前の文脈から意味はわかるんだけど、直前の行動と全く繋がってない。側から見たらDV現場だぞ。


「でも、雫は悪いことをした。だからこれはそのお返し。」


「佳苗…」


「さっきのやつで部室荒らしの件はチャラ。私はもう雫を許すよ。」


「…なるほど。」


一瞬目の前の光景が強烈すぎて理解できていなかったが、ようやく合点がいく。


要は佐川への仕返しとして、大橋はビンタをお見舞いしたのだ。部室荒らしされたから、やり返したっていうことか。


それにしても突然すぎるけどな。せめて説明しろよ。まじで普通にビビったんだけど。


菜名宮もまたようやく状況を飲み込んだのか手元に口を当てて笑い始めた。


「…相変わらず、佳苗らしい。」


「大橋らしいの?普段どんな奴なんだよ。」


ビンタで解決することが大橋らしいってどんな性格なんだよ。まじで文字面だけ見るとDVしてる人じゃん。


「私と雫はまた友達、これで大丈夫?」


「うん。…ありがとう、佳苗。」


二人の仲が完全に元に戻ったとは言い切れない。大橋も佐川も、お互いに何か思うことがあるだろう。今回の事件を通してまた生まれる可能性もある。


ただ、二人はきっと友人のままあり続けるだろう。お互いの本心をここでぶつけあい、そしてお互いの行動を顧みて、気持ちのぶつかり合いを解決する。たとえ嘘をついても、嫉妬したとしても、謝れるような関係性なら途切れたりはしないだろう。


…確信できないのは、女の友情は怖いって南が言ってたからだけど。


「また雫にバトミントン教えるよ。雫はいつも頑張ってるからさ。」


「…いいの?私めちゃくちゃ下手だよ。」


「勿論。また嫉妬されてラケット壊されたくはないからね。」


「もう、やめて。」


これから先二人がどうなるのかは分からないが、少なくとも今、お互いの気持ちを確かめ合ったことで悪い方向へ向かうことはまあないんじゃないだろうか、なんて楽観的な考えを持ってもいいだろう。大橋も佐川も他者の気持ちを尊重できる、優しい人間であるからだ。


この事件に関してはこれで一件落着でいい。元より、俺や菜名宮が介入できるところには限界があるし、自分で言うのもなんだがよくやった方だろう。


「…あ。」


俺と菜名宮が二人のことを眺めていると、大橋が何かを思い出したかのように呟いた。


「どうしたの?」


「いやちょっと…部室荒らしの件で少し気になることがあるんだよ。」


「部室荒らし?もう解決したんじゃないのか?」


「いや、私に関してはもう大丈夫なんだけど、被害を受けたのって私だけじゃないからさ。」


「…そういえばそうだな。一応被害者、っていえば部員全員か。」


完全にハッピーエンドを迎えてほっこり終わるムードを醸し出していたが、よくよく考えるとまだこの事件は終わっていなかった。


今回、部室荒らしによって一番被害を受けたのは大橋だ。大橋は他の部員と違い、明確に自分のものを傷つけられているからだ。ただ、他の部員に全く被害が及んでいなかったわけでもない。


「一応聞くんだけど、他の子の道具壊したりとかは…してないよね?」


「うん、多分…壊れないように、慎重に取り出して散らかしたから大丈夫だと思う。」


「変なところで気遣ってるんだな…」


「壊してないから心配ない、とは流石に言えないよねえ。」


佐川にとっては、他人の荷物をぶちまけたのは単なるカモフラージュだろう。しかし申し訳なく思っていないことは絶対ないはずだ。カモフラージュに利用した、バトミントン部のみんなを騙した。他者の気持ちを思いやれる佐川が罪悪感を持っていないはずがない。


「やっぱり犯人だと素直に告白するしかないよね。」


「でも、私はもう雫を許してもいいと思ってるんだけど。」


ただ、今回は1番の被害者である大橋が佐川のことを許しているのだ。ぶっちゃけ俺も事を大きくする必要もないとは思っている。というか、したくない。


間違いなく事後のめんどくさいことに俺も巻き込まれるし、後佐川は俺に対してめちゃくちゃ優しくしてくれたから庇いたいという気持ちもあるのだ。これもまた人間の不合理なのだろう(適当)


「仮に今回の騒動は雫の仕業なんて先生に伝えたら、間違いなく事はもっと大きくなるだろうね。」


「そんな…どうしようもないの?」


「…仕方ないよ。私がしちゃった事だもん。」


「なあ菜名宮、どうにかならないのか?」


俺としてはやはり佐川が心配だった。仮に今回の事件の詳細が伝われば、佐川に対してどんな制裁が加わるかなんて分かりやしない。


停学や休学なんてのはあり得るかもしれない。ただ、むしろ俺が危惧しているのは学校での佐川の扱いだった。


佐川が犯人であると学校中に広まれば、佐川はまず間違いなく後ろ指を刺されるだろう。有る事無い事が噂として広まり、無数の無責任で冷酷な言葉が佐川に叩きつけられる、そんな事は想像に容易い。


自分に無関係の人間ならそうなろうとも知らないが、俺は佐川の人間性を少なからず知っている。


「タキは雫のことを許しているの?」


「許すも何も、俺は佐川から何の被害も受けてねえよ。むしろ佐川みたいな優しい人間が、意味もなく傷つくことの方が許せないからな。」


「篠末くん…」


「ならよかった。」


菜名宮は俺の言葉を聞くと、また先ほどと同じようにふっと笑う。そうして菜名宮はポケットに入れていたスマホを取り出すと、画面を操作し始めた。


「この件に関しては私がなんとかしておくよ。今回はあまり活躍しなかったし。」


「なんとかなるもんなのか?」


俺がそう尋ねると、菜名宮は俺を揶揄う時のような、うざったらしい笑みを浮かべる。


「なんとかなるよ、私だもん。」


そうして、いつも通りの決め台詞を放った。

誤字脱字等がありましたら、ご指摘いただけると幸いです。


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