恋する乙女達07
「な、んで……!?」
仰向けに倒れたアイシャの口から無意識に出たのは、疑問を示す言葉。
ついさっきまで後ろで怯んでいた筈の怪物が、今は自分の上に跨り、腕を掴んで抑え込んでいる。爪が食い込み、肉を切り裂かれる痛みを感じたが、それよりもアイシャの心は疑問が埋め尽くしていた。
身体能力が上なのは分かっていたが、ここまで一瞬で距離を詰められるものか? 今までの動きが手加減していたという可能性は、この星の生物の気質からしてあり得ない。何か仕掛けや特殊な能力があるのか――――
脳裏に様々な憶測が過る。しかし今この瞬間に限れば、どれも役立つものではない。
考えるべきは、自分が怪物に押し倒されて身動きが取れない事。そしてその怪物が大きな口を開け、噛み付く気満々な事だ。
「こ、この! このぉ!」
自由に動かせるのは足ぐらい。ならばと思いっきり蹴り飛ばそうとするが、怪物が乗っているのはアイシャの腰よりも上の方。人間の脚は、腰より高い位置には中々上がらない。上がったところで寝そべりながらでは大きな威力も出ない。怪物を退かすには力不足だ。
腰を浮かせて退かそうともしたが、未知の味覚に怯んでいた時ならまだしも、今の怪物は万全の状態だ。がっしりと構えた体幹を揺らすには、人間離れしたアイシャの身体能力でも全く足りない。
「(ど、どうしよう、どうしよう……)」
打つ手がなくなると、いよいよ恐怖が込み上がってくる。怖がったところで状況改善の役に立たないのは分かっているが、未だ人間的な心の持ち主であるアイシャは己の感情を上手くコントロール出来ない。
やがて心は恐怖に塗り潰され、身体が思ったように動かせなくなる。必要のない呼吸がどんどん早くなり、思考が真っ白になっていく。動かないといけないのに、どう動けば良いのか分からなくて身動ぎ一つ出来なくなった。
アイシャもシェフィルと同じ、惑星シェフィルの生物の遺伝子を持つ人間だ。だから生命力も同じぐらいの筈。少し顔面を噛まれたり、腕を食い千切られたりした程度では死なない。死んでいなければ再生可能で、元通りになるだろう。
しかし怪物がこんなもので満足出来るとは思えない。ましてやこういった捕食者は次に何時獲物と出会えるか分からないため、一度の食事で大量に喰う。恐らくこの怪物も、腹がでっぷりと膨れるまでアイシャを食べる。受けた傷が大きければ、そのまま致命傷となるかも知れない。そもそも獲物に反撃されるリスクを考えれば、死なない程度に食べようという考えがナンセンス。しっかりと殺し、安全に食べるのが合理的だ。
「や、やだ……」
死にたくない。
本能的な恐怖が脳裏を満たす。だが、それ以上の感情がアイシャの胸から湧き出す。
シェフィル。
このままシェフィルと離れ離れのまま死ぬなんて、それだけは嫌だと思った。自分の想いを伝えられないまま死ぬなんて、死んだ事にすら気付いてもらえないなんて、そんな死に方だけはしたくない。
「助けて……シェフィルぅぅぅッ!」
身体に残った全ての力を使い、渾身の叫びを上げるアイシャ。
大声こと強力な電磁波を浴び、怪物はほんの一瞬怯んだように大顎をもごもごと動かす。だがその程度だ。アイシャの腕を押さえ付ける力は弱まらず、体幹に至っては微塵もぶれない。
それでも、何か仕掛けてくる可能性を警戒したのか。怪物は叫んだアイシャを食い殺そうと、大きく顎を広げながら素早く迫った
「アイシャに、何をしているんですかッ!」
瞬間、茂みの中からアイシャが待ち望んでいた声が聞こえた。
あまりにも都合の良い声。走馬灯でも見ているのか……と思うアイシャだったが、怪物が顔を上げた事から現実だと理解する。
これは本物のシェフィルの声。
正解だ――――アイシャの考えを肯定するように、トゲトゲボーの茂みから跳び出したシェフィルが、怪物の顔面を蹴り飛ばした!
「コフィッ!?」
顔を蹴られた怪物は大きく仰け反る。アイシャの腕を掴んでいた手も離す。この好機を逃がす訳にはいかないと、アイシャも本能的に察する。
アイシャは両手を前に突き出し、怪物を突き飛ばそうとした。仰け反るような体勢から更に押され、怪物の身体は一気に傾く。両腕を振り回してバランスを取ろうとしているが、既に補正出来る傾きでない。
どてんと、怪物はアイシャの上から転がり落ちる。トゲトゲボー達と激突し、余程激しくぶつかったのか棘付きの破片がバラバラと飛び散った。
アイシャが立ち上がろうとすると、それよりも早くシェフィルが駆け寄りアイシャの手を掴んだ。久しく感じていなかった温もりにアイシャは僅かに鼓動が強まったのを感じるも、今は胸をときめかせている場合ではないと我慢。シェフィルに引かれるがまま立ち上がる。
「アイシャ! 怪我はありませんか!?」
シェフィルは心底心配した様子で、アイシャの安否を訊いてくる。
アイシャは一度、自分の傍に呼び寄せるためとはいえシェフィルを心配させる形で騙している。だと言うのにシェフィルは、助けを求めたらすぐに駆け付けてくれた。騙される不安なんて、きっと微塵も考えなかったのだろう。
こんな彼女を騙した自分が恥ずかしい。
謝りたい。けれども、それは今ではない。アイシャは怪我がない事を伝えるため、首を横に振った。無事だと分かったシェフィルは安堵したように表情を和らげる。
しかし、その顔はすぐに引き締まったものへと戻った。
アイシャを押さえ付け、喰おうとしていた怪物。シェフィルの蹴りを頭に受けていたが、そいつは未だピンピンしていた。トゲトゲボーに転がりながら突っ込んだが、一見筋肉質な体躯は人間と『材質』が異なるのか傷一つ付いていない。平然と立ち上がり、シェフィル達をじっと見つめてくる。
顔面に三つある、無機質な複眼から思考を読み解くのは困難極まりない。しかしアイシャの本能的な印象を述べるなら……今まで以上に食欲を滾らせているように思える。どうやらアイシャを諦める気は全くなく、むしろシェフィルが増えて喜んでいるようだ。
基本的に、身体の大きさと強さは比例する。二メートルもあるこの生物の身体能力は、シェフィルよりも上と考えるべきだろう。勿論アイシャはシェフィルと共闘するつもりだが、身体能力の低さを考えると役立たずどころか足を引っ張りかねない。二対一でも勝機があるかは怪しいところだ。しかし逃げようにも、怪物より遅いアイシャがいてはそれも困難。
「さぁて、どうしましょうかね……」
シェフィルも何か策があって助けに来た訳ではなく、今になって困り果てている。
このままでは単に怪物の獲物が増えただけ。何か打てる手立てはないものか? アイシャは必死に頭を働かせてみるが、妙案は浮かばず。シェフィルも策を考えているのが表情から窺えるものの、動き出さない事から打開策は何一つ浮かんでいないらしい。
対する怪物は然程考える事もなく、颯爽とシェフィルに襲い掛かる!
鋭い爪の付いた手で引っ掻くように、素早く腕を振るってきた。攻撃に対しシェフィルは腕を構えて防御。怪物の爪先がシェフィルの腕に食い込み、肉が切り裂かれて血が滲み出す。しかしこの程度で怯むほどシェフィルは軟ではない。むしろこれで捉えたと言わんばかりに、攻撃を受けた方の腕を振るい、怪物の片腕を大きく打ち払う。
「ふっ!」
すると怪物の脇腹ががら空きだ。そこ目掛けてシェフィルが繰り出したのは渾身の蹴り。強力な蹴りを受けて怪物は大きくよろめき、シェフィルはその隙を突くようにもう一度蹴りを放つ。
二発目の蹴りは怪物の腹をど真ん中から打つ。これには怪物も堪えたのか数歩後退り。倒れはしなかったが、それは突っ込んだトゲトゲボーに支えられたお陰。鋭い棘が背中に刺さり、小さくない傷を受けた筈だ。そしてシェフィル達に手足が届かないぐらい離れてしまう。
しかし怪物はまだ、攻撃手段を失ってはいない。
「ゴオオォ!」
ぐるんと身体を回転させ、繰り出してきたのは尾による一撃。身体能力が上がっている今のアイシャでも、一瞬何かが通ったようにしか見えない速さだ。
恐らく音速を優に超えている攻撃は、シェフィルでも反応するのがやっと。身体を動かすには時間と筋力が足りない。
「ぐ……!」
咄嗟にシェフィルは顔を反らして直撃を避けたが、尻尾の先端は掠めて肌を切り裂く。一筋の傷跡が、ハッキリとシェフィルの片目に刻まれた。
「しぇ、シェフィ――――」
「アイシャは離れて!」
目の傷を心配するアイシャだったが、シェフィルはそんな事など気に留めない。歩み寄ろうとするアイシャを突き飛ばし、自身は怪物との距離を詰める。
怪物も、この程度でシェフィルが怯むとは考えていないのだろう。尾を振るうために回転した勢いのまま、今度は足蹴を繰り出す。
これをシェフィルはしゃがんで回避。次いで拳を打ち上げ、空振りした怪物の足を殴る。殴られた事で怪物の足は高く上がり、仰け反る形となって体勢を崩した
と思いきや、そのまま怪物は跳躍。バク転をしながら、もう片方の足でシェフィルの顎を蹴り上げた!
「がっ!? ぐ、のぉ!」
蹴られ、身体が浮かび上がるも、シェフィルは反撃を行う。空中から蹴りを繰り出し、怪物の顔面を狙った。
だが怪物はこの攻撃を読んでいたのだろう。シェフィルを蹴った後、そのままバク転を続けて後退した。人間を上回る体格である怪物はバク転時の動きも大きく、あっという間にシェフィルの足が届かない位置まで離れてしまう。
蹴られたシェフィルは二本足で着地。蹴られる直前、その身を反らして衝撃を受け流したのか、あまりダメージは受けていない様子だ。即座に突撃し、再び怪物と近距離戦に持ち込んでいる事からもそれは間違いない。
それでもアイシャが傍目で見ている分には、シェフィルの方が劣勢であるように思えた。身体が大きい分、怪物の方が身体能力に優れているというのもあるのだろう。加えて怪物が、おぞましいながらも一応は人型をしている点も大きい。人型をしているという事は、『戦い方』も人間と酷似している。戦い方に違いがあれば、弱点を見付けて突くという、知的な人間が得意とする戦法を使えるが……戦い方が同じであれば、弱点もまた同じ。これでは純粋な身体能力勝負となってしまう。
そして怪物とシェフィルの体格は、圧倒的に怪物の方が大きい。身体能力も当然怪物が上。身体能力勝負になれば、シェフィルに勝ち目などある訳もない。
せめて経験に差があれば、実力差を補えたかも知れない。だが相手はこの星に暮らす捕食者。数多の獲物、数多の天敵と戦い、今日まで生き延びてきた猛者だ。日々戦いに明け暮れている生物の経験が乏しいなどあり得ない。
止めとばかりに、周りの環境さえも人間にとって不利だ。
「(戦っているうちに倒されて開けてきたけど、でも、まだトゲトゲボーだらけ……大きく動けば、身体の何処かが切れちゃう)」
辺りを覆い尽くすように生えているトゲトゲボー……人間の肌は、この鋭い棘に耐えるほど丈夫ではない。激しい戦いのため絶えず動き回っている、シェフィルの身体は今や傷だらけだ。その身に纏う毛皮の服にも切り傷が見られ、少しずつだが劣化している。小さな傷なら無視するのも手だが、深々と棘が突き刺さるのは避けたい。すると動きに制限が掛かる。
対して怪物の体表面は、甲殻はないものの相当丈夫なようで傷跡は殆ど見られない。シェフィルの攻撃で、何度もトゲトゲボーの中に突き飛ばされているにも拘らずに、だ。人間では脆弱な部位である目も、怪物は頑強な複眼であるため簡単には傷付かない。
よって怪物はトゲトゲボーによる怪我を恐れる必要がなく、自由な戦い方が出来る。実際シェフィルが避けているトゲトゲボーを、怪物は何も気にせず踏み潰し、時には顔面からの体当たりで押し倒す。怪我を避けるためある程度の迂回が必要なシェフィルよりも自由に動けており、これは間合いのコントロールという、肉弾戦の主導権を怪物が握っている事を意味していた。
身体能力のみならず、環境さえも人間には適していない。このまま戦いを続けても、シェフィルが逆転する未来は思い描けない。惚れた身であるアイシャですらそうなのだ。戦っているシェフィルは、アイシャ以上に勝ち目の薄さを察しているに違いない。
「これ、は、良くないです、ね……!」
殴り合いながら漏らした言葉は、弱音ではなく正しい現状認識と言ったところか。
その言葉の直後顔面を殴られ、口から血反吐を吐き――――それでもシェフィルが腹部に渾身の蹴りを放ったのも、怪物と少しでも距離を開けて時間稼ぎをするためか。腹を蹴られた怪物は大きく後退し、ダメージの大きさもあってか様子見するように動きを止めた。
この隙にシェフィルもまた後退。離れた位置で戦いを見ていた、アイシャの下まで戻ってくる。再生しているものの身体のあちこちに残る傷跡、ぴたりと止まれず僅かに揺れる身体の動きが、シェフィルの消耗を物語っていた。
「しぇ、シェフィル……」
「あー。アイシャ、すみませんがこれは勝てそうにないです。撤退しましょう」
「う、うん。逃げた方が良いと思うけど、でも」
どうやって。その疑問をアイシャが言葉にするよりも早く、シェフィルは行動を起こす。
自らの片腕の手首部分。そこをもう片方の手でぎゅっと掴む。
「ぐぅうううぅぅ!」
そして強引に、手首を握り潰す!
シェフィルの突然の『自傷行為』に驚いたのは、アイシャだけではない。怪物の方も驚いたように身体を強張らせていた。とはいえシェフィルの身を案じているアイシャと違い、怪物はシェフィルが何かを企んでいると判断したのだろう。後退はしないが、腰を落として安定した構えに移行。どんな攻撃が来ても受け止めるつもりだ。
しかしシェフィルに攻撃するつもりはなかった。
彼女は自らが千切った手を無事な方の手で持つや、その手に『熱』を送り込む。それは少し前、アイシャがシェフィルを押し倒した時に見せたのと同じ技。即ち過剰な熱エネルギーを生成し、外に放出しているのだ。ただし放出した熱は、今し方千切った手に全て注ぎ込む。
怪物からすれば訳の分からない行動だろう。だが、アイシャはシェフィルの意図を理解した。
膨大な熱によって、千切られた片手は一気に加熱されていく。本来なら熱エネルギーを吸収・代謝する仕組みが備わっている筈だが、千切る際になんらかの方法で『オフ』にしたのか。送られた熱でシェフィルの手はたちまち高温となる。
温度の上昇と共に、手に含まれる水分も高温化。沸点を超えた瞬間に水蒸気化していく。水と水蒸気では体積が千七百倍も違う。内側で発生した蒸気によって、千切った手は瞬く間に押し広げられていき……
「ふっ!」
あるところで、シェフィルは怪物目掛けて千切った手を投げ付ける。
直後、肉の強度が圧力に耐えられなくなり、手が破裂する!
「きゃあ!?」
「コォ……!」
吹き荒れる爆風と灼熱の血飛沫にアイシャは驚き、怪物は身構える。対してシェフィルは一人で動き出した。
アイシャの手を取り、強く引っ張ったのだ。
「あ……」
「今です! これで奴は血の臭いを追えません! 茂みに入って逃げますよ!」
シェフィルが言うように、今こそが逃げる最大のチャンス。手の破裂により血は周囲十数メートルに飛び散った。これならトゲトゲボーで傷だらけになっても、どの血が逃げ道を示すのか怪物には分からない。
シェフィルに引かれるがままアイシャは走り、棘だらけの茂みの中へと入る。
これで一旦は逃げられたのだろうか。自分達は安全になったのだろうか。
ある程度走ったところで聞くべきであろうという、思いはある。けれどもそれ以上の感情が、アイシャの胸から沸き立つ。時間が経つほどに、シェフィルと繋いでいる手が熱くなる。
――――やっと、私の手を掴んでくれた。
こんな状況でその事ばかりに意識が向いてしまう自分が酷く浅ましく思えて、僅かな自己嫌悪がアイシャの口を噤ませた。